Q.国のために死んだ人を祀って何が悪い。どこの国でもやっていることだ。
A.死者を祀ること自体を否定しているわけではありません。ただ、靖国神社は戦争で亡くなった人々すべてを祀っているのでなく、軍関係者らだけを祀った世界的に見ても類を見ない施設であり、ましてや先の大戦の責任者であったいわゆるA級戦犯をも祀っているのですから、国の代表者が参拝する場所としてふさわしくないのです。
(1)①靖国神社は、戦争で亡くなった人々すべてを祀っているのではありません。祀られているのは、軍人軍属ら軍隊関係者(天皇の軍人)及び軍に「協力」した─させられた─人々のみで、原爆や空襲の被害者らは祀っていません(遊就館の展示には、零戦、人間魚雷の実物や特攻出撃隊員らの写真はあっても、原爆、空襲被害らの遺物はもちろんのこと、写真すら1枚もありません)。靖国神社が世界的に見ても数を見ない施設であるというのは上記のような事実に加え、さらに、②死者や遺族の意向に関係なく勝手に「護国の英霊」として「○○みこと命」と神にして祀っている、③零戦や人間魚雷を展示し、「支那事変、総攻撃」と題するビデオテレビでは、戦意高揚を狙った戦時中のニュース映画をそのまま軍歌とともに──≪天に代りて不義を討つ≫等々、1945年8月15日以前と変りないテロップ付きで──流している戦争博物館、遊就館を併設している、等々の事実があるからです。この遊就館展示について井上寿一学習院大学教授は「すさまじいまでの戦争正当化の情念が渦巻いている。日本はまるで戦争に勝ったかのような展示の数々」(『アジア主義を問いなおす』ちくま新書)と批判していますが、その通りです。まるで戦前にタイムスリップしたかのようです。
戦前、靖国神社は陸・海軍省の管轄となっていました。つまり「宗教的軍事施設」でもあったのです。ですから、「国のために死んだ人を祀って何が悪い」という言い方は、靖国神社の性格について正しく述べてはいません。
小泉首相の靖国神社参拝を違憲と断じた、2004年4月7日の福岡地裁(亀川清長裁判長)判決も、「靖国神社は戦没者のうち軍人軍属、準軍属等のみを合祀の対象とし、空襲による一般市民らは対象としていない。内閣総理大臣として、戦没者の追悼を行う場所として靖国神社は必ずしも適切ではない」と述べています。
(2)先の大戦で亡くなった軍人軍属、準軍属の人々は、「国のために死んだ」という言い方は正確なものでしょうか。
確かに彼らは、「日本」を守るために戦いました。しかし、彼らが守ろうとしたのは国家というよりもむしろ、親兄弟妹の家族、そして共同体であったと思います。人は国のために死ぬことはできなくても、家族や友のためにならば死ぬことが出来るかもしれません。自己犠牲的献身愛です。ところが、本来国家とは別次元のものである自己犠牲的献身愛を、自己を維持するために貪欲に取り込んでしまうのが国家というシステムなのです。
ところで亡くなった彼らは何から何を守ろうとしたのでしょうか。彼らの「守り」が成功し、日本が戦争に敗けなかったとしましょう。私達にとって、その方がよかったのでしょうか。「大日本帝国の実在よりも戦後民主主義の虚妄に賭ける」と述べたのは、政治学者故丸山眞男でした。治安維持法、憲兵支配、息詰まるような戦前の軍国主義と不充分ながらも戦後の民主主義、あなたはどちらに与みしますか。
それは私達が8月15日を、屈辱的な敗戦の日と捉えるのか、それとも天皇制軍国主義からの解放を意味する喜びの日と捉えるのかの問題でもあります。
戦前、『東洋経済新報』主幹として「小日本主義」を主張し、中国・朝鮮半島など近隣アジアへの領土的進出を厳しく戒める論陣を張りつづけた石橋湛山は、8月25日号社論において、「敗戦は日本国民の永遠に記念すべき新日本の門出」であり、「徒に悲憤慷慨を費やす場合でない」と述べています。石橋湛山は靖国神社の廃止も提言しています。
作家高見順も9月30日の日記にこう書いています。
「昨日の新聞が発禁になったが、マッカーサー司令部がその発禁に対して解除命令を出した。そうして新聞並びに言論の自由に対する新措置の司令を下した。
これでもう何でも書けるのである!これでもう自由に出版できるのである!
生れて初めての自由!
自国の政府により当然国民に与えられるべきであった自由が与えられずに、自国を占領した他国の軍隊によって初めて自由が与えられるとは、──かえりみて羞恥の感なきを得ない。日本を愛する者として、日本のために恥かしい。戦に負け、占領軍が入ってきたので、自由が束縛されたというのなら分るが、逆に自由を保障されたのである。なんという恥かしいことだろう。自国の政府が自国民の自由を、──ほとんどあらゆる自由を剥奪していて、そうして占領軍の通達があるまで、その剥奪を解こうとしなかったとは、なんという恥かしいことだろう。」(高見順「敗戦日記」中公文庫)
もっとも、同日記9月3日には、「東洋経済新報が没収になった。これでいくらか先日の『恥かしさ』が帳消しの感あり。アメリカが我々に与えてくれた『言論の自由』は、アメリカに対しては通用しないということもわかった。」と、「占領軍」の本質を知らされた旨の記述もありますが、今、そのことには触れません。
そう、戦争に敗けたことが問題ではなく、戦争に敗けなければ変わることのできなかった日本の有り様こそが問題であったのです。
私も真底から先の大戦で日本が敗れたことを歓迎します。私は敗戦の年、1945年4月5日この世に生を受けました。私が生れる5日前父が出征しました。軍の糧秣を扱う精麦会社の熟練工であった父は出征が遅かったのです。幸い無事帰還しましたが、当時の状況からして、出征に際してはもとより生還を期しておらず、私の生れたことを知った父は私宛に「遺書」を書いたようです。小学校中学年の頃、タンスの引出しの奥にしまってあった粗末なワラ半紙に鉛筆書きされたこの「遺書」を見つけ盗み読みしたことがあります。ほどなく「何を見ているか!」とやや気色ばんだ父に取上げられてしまいましたので詳しい内容は覚えてませんが、「雅敏よ、父が帰らなくても母を助け、日本男児として立派に……」といった類のことが書いてありました。父が気色ばんで「遺書」を私から取上げたのは、きっと気恥ずかしかったのでしょう。
ずっと後に自我に目覚めた頃、私はこの出来事を思い出し、生れたばかりのわが子に対し、父にあのような「遺書」を書かせた世の中を再び招来させてはいけないと思うようになりました。
このように考えて来ると、先の大戦で亡くなった軍人軍属、準軍属の人々は「国のために死んだ」というよりも、むしろ「国によって殺された」と考えた方が正確ではないでしょうか。
読売新聞主筆渡辺恒雄氏も、前述した保阪正康氏との対談の中で、「玉砕なんて、大本営の命令でしょう。支援隊を送れないから、『玉砕せよ』というわけですからね。これは、残虐な殺人行為ですよ。それに、お国のために戦った英雄というけど相当数は餓死ですよね。特に南方戦線はそう。実にいいかげんな作戦によって、玉砕にいたらずに餓死した兵が山ほどいるんですからね。それを、『お国のため、天皇陛下のために万歳と言って死んでいった』という歴史観は、まったくおかしい。これを根本的に粉砕する必要があります。」と述べています。
ニューギニア、フィリピンなど南海の島々であるいは、無謀なインパール作戦により、ビルマ、インドの密林の中で多くの日本軍兵士が餓死──死亡した兵士の6割が餓死であったとする説もある。この実態について自身も軍隊体験を有する藤原彰一橋大教授著「餓死した英霊たち」(青木書店)に詳しい。──したこと、かろうじて生き残った人も、連合国軍の戦犯(BC級)裁判──拙速、報復的なものもあった──によって刑場の露と消えた人も少なくないこと、1945年8月9日中国東北部(旧満州)でソ連軍が侵攻して来たとき、日本軍は早々と後退し、多くの日本の民間人を放置し、見殺しにした事実を忘れてはなりません。彼らはまさに日本国によって殺されたのです。
ニューギニアの第十八軍司令官安達二十三中将は、敗戦後の残務整理が一段落した1947(昭和22)年9月8日、以下のような遺書を残しラバウルで自決しました。
「私儀 昭和十七年十一月第十八軍司令官の重職を拝し──此作戦三歳の間十万に及ぶ青春有為なる陛下の赤子を喪ひ、而して其大部分は栄養失調に基因する戦病死なることに想到する時、御上に対し奉り何と御詫びの言葉も無之候。──打続く作戦に疲憊の極に達せる将兵に対し更に人として堪え得る限度を遥に超越せる克難敢闘を要求致候。之に対し黙々之を遂行し力竭きて花吹雪の如く散り行く若き将兵を眺むる時君国の為とは申しながら其断腸の思は唯神のみぞ知ると存候。当時小生の心中堅く誓ひし処は必ず之等若き将兵と運命を共にし南海の土となるべく縦令凱陣の場合と雖も論らじとのこと有之候。
一昨年晩夏終戦の大詔を拝し──聖旨を徹底して謬らず、且は残存戦犯関係将兵の先途を見届くることの重要なるを思ひ、恥を忍び今日に及び候。然るに今や諸般の残務も漸く一段落となり小官の職責の大部を終了せるやに存ぜらるるにつき此時機にかねての志を実行致すことに決意仕候。即ち小官の自決の如き御上に対し奉るお詫びの一端とならずと思ふ次第にて唯々純一無雑に陣歿、殉国、並に光部隊残留部下将兵に対する信と愛とに殉ぜんとするにならず候。……」小島光造「回転特攻」・光人社文庫)
「ニューギニア戦線では、累計十四万の大軍が、マラリアと栄養失調で大半陣没し、終戦時集結し得たものは一万三千人に過ぎず、その後も斃れるものが続き、戦犯者も出て、内地に復員した者は一万人をわずかに越えたに過ぎない。まことに惨憺たるもので……」(杉浦義教「ラバウル戦犯弁護人」・光人社文庫)
小泉首相が鹿児島県、知覧の特攻記念館に行って、特攻として戦死した人々の写真、遺書等を前にして涙を流したという新聞記事を読んだことがあります。
しかし、逆ではないでしょうか。このようにむざむざと若者を殺してしまったことについて、為政者として当時の国策の過ちを怒り、また死者達にお詫びを述べなければならなかったのではないでしょうか。仮に靖国神社に参拝した憊としてもそれは同じです。何よりもまず死者達に政策の過ちにより、あたら大切な命を失わせてしまったことについてお詫びを言うべきでしょう。
■■以上、内田雅敏弁護士執筆■■
★「憎しみはダークサイドへの道、苦しみと痛みへの道なのじゃ」(マスター・ヨーダ)
★「政策を決めるのはその国の指導者です。そして,国民は,つねにその指導者のいいなりになるように仕向けられます。方法は簡単です。一般的な国民に向かっては,われわれは攻撃されかかっているのだと伝え,戦意を煽ります。平和主義者に対しては,愛国心が欠けていると非難すればいいのです。このやりかたはどんな国でも有効です」(ヒトラーの側近ヘルマン・ゲーリング。ナチスドイツを裁いたニュルンベルグ裁判にて)
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A.死者を祀ること自体を否定しているわけではありません。ただ、靖国神社は戦争で亡くなった人々すべてを祀っているのでなく、軍関係者らだけを祀った世界的に見ても類を見ない施設であり、ましてや先の大戦の責任者であったいわゆるA級戦犯をも祀っているのですから、国の代表者が参拝する場所としてふさわしくないのです。
(1)①靖国神社は、戦争で亡くなった人々すべてを祀っているのではありません。祀られているのは、軍人軍属ら軍隊関係者(天皇の軍人)及び軍に「協力」した─させられた─人々のみで、原爆や空襲の被害者らは祀っていません(遊就館の展示には、零戦、人間魚雷の実物や特攻出撃隊員らの写真はあっても、原爆、空襲被害らの遺物はもちろんのこと、写真すら1枚もありません)。靖国神社が世界的に見ても数を見ない施設であるというのは上記のような事実に加え、さらに、②死者や遺族の意向に関係なく勝手に「護国の英霊」として「○○みこと命」と神にして祀っている、③零戦や人間魚雷を展示し、「支那事変、総攻撃」と題するビデオテレビでは、戦意高揚を狙った戦時中のニュース映画をそのまま軍歌とともに──≪天に代りて不義を討つ≫等々、1945年8月15日以前と変りないテロップ付きで──流している戦争博物館、遊就館を併設している、等々の事実があるからです。この遊就館展示について井上寿一学習院大学教授は「すさまじいまでの戦争正当化の情念が渦巻いている。日本はまるで戦争に勝ったかのような展示の数々」(『アジア主義を問いなおす』ちくま新書)と批判していますが、その通りです。まるで戦前にタイムスリップしたかのようです。
戦前、靖国神社は陸・海軍省の管轄となっていました。つまり「宗教的軍事施設」でもあったのです。ですから、「国のために死んだ人を祀って何が悪い」という言い方は、靖国神社の性格について正しく述べてはいません。
小泉首相の靖国神社参拝を違憲と断じた、2004年4月7日の福岡地裁(亀川清長裁判長)判決も、「靖国神社は戦没者のうち軍人軍属、準軍属等のみを合祀の対象とし、空襲による一般市民らは対象としていない。内閣総理大臣として、戦没者の追悼を行う場所として靖国神社は必ずしも適切ではない」と述べています。
(2)先の大戦で亡くなった軍人軍属、準軍属の人々は、「国のために死んだ」という言い方は正確なものでしょうか。
確かに彼らは、「日本」を守るために戦いました。しかし、彼らが守ろうとしたのは国家というよりもむしろ、親兄弟妹の家族、そして共同体であったと思います。人は国のために死ぬことはできなくても、家族や友のためにならば死ぬことが出来るかもしれません。自己犠牲的献身愛です。ところが、本来国家とは別次元のものである自己犠牲的献身愛を、自己を維持するために貪欲に取り込んでしまうのが国家というシステムなのです。
ところで亡くなった彼らは何から何を守ろうとしたのでしょうか。彼らの「守り」が成功し、日本が戦争に敗けなかったとしましょう。私達にとって、その方がよかったのでしょうか。「大日本帝国の実在よりも戦後民主主義の虚妄に賭ける」と述べたのは、政治学者故丸山眞男でした。治安維持法、憲兵支配、息詰まるような戦前の軍国主義と不充分ながらも戦後の民主主義、あなたはどちらに与みしますか。
それは私達が8月15日を、屈辱的な敗戦の日と捉えるのか、それとも天皇制軍国主義からの解放を意味する喜びの日と捉えるのかの問題でもあります。
戦前、『東洋経済新報』主幹として「小日本主義」を主張し、中国・朝鮮半島など近隣アジアへの領土的進出を厳しく戒める論陣を張りつづけた石橋湛山は、8月25日号社論において、「敗戦は日本国民の永遠に記念すべき新日本の門出」であり、「徒に悲憤慷慨を費やす場合でない」と述べています。石橋湛山は靖国神社の廃止も提言しています。
作家高見順も9月30日の日記にこう書いています。
「昨日の新聞が発禁になったが、マッカーサー司令部がその発禁に対して解除命令を出した。そうして新聞並びに言論の自由に対する新措置の司令を下した。
これでもう何でも書けるのである!これでもう自由に出版できるのである!
生れて初めての自由!
自国の政府により当然国民に与えられるべきであった自由が与えられずに、自国を占領した他国の軍隊によって初めて自由が与えられるとは、──かえりみて羞恥の感なきを得ない。日本を愛する者として、日本のために恥かしい。戦に負け、占領軍が入ってきたので、自由が束縛されたというのなら分るが、逆に自由を保障されたのである。なんという恥かしいことだろう。自国の政府が自国民の自由を、──ほとんどあらゆる自由を剥奪していて、そうして占領軍の通達があるまで、その剥奪を解こうとしなかったとは、なんという恥かしいことだろう。」(高見順「敗戦日記」中公文庫)
もっとも、同日記9月3日には、「東洋経済新報が没収になった。これでいくらか先日の『恥かしさ』が帳消しの感あり。アメリカが我々に与えてくれた『言論の自由』は、アメリカに対しては通用しないということもわかった。」と、「占領軍」の本質を知らされた旨の記述もありますが、今、そのことには触れません。
そう、戦争に敗けたことが問題ではなく、戦争に敗けなければ変わることのできなかった日本の有り様こそが問題であったのです。
私も真底から先の大戦で日本が敗れたことを歓迎します。私は敗戦の年、1945年4月5日この世に生を受けました。私が生れる5日前父が出征しました。軍の糧秣を扱う精麦会社の熟練工であった父は出征が遅かったのです。幸い無事帰還しましたが、当時の状況からして、出征に際してはもとより生還を期しておらず、私の生れたことを知った父は私宛に「遺書」を書いたようです。小学校中学年の頃、タンスの引出しの奥にしまってあった粗末なワラ半紙に鉛筆書きされたこの「遺書」を見つけ盗み読みしたことがあります。ほどなく「何を見ているか!」とやや気色ばんだ父に取上げられてしまいましたので詳しい内容は覚えてませんが、「雅敏よ、父が帰らなくても母を助け、日本男児として立派に……」といった類のことが書いてありました。父が気色ばんで「遺書」を私から取上げたのは、きっと気恥ずかしかったのでしょう。
ずっと後に自我に目覚めた頃、私はこの出来事を思い出し、生れたばかりのわが子に対し、父にあのような「遺書」を書かせた世の中を再び招来させてはいけないと思うようになりました。
このように考えて来ると、先の大戦で亡くなった軍人軍属、準軍属の人々は「国のために死んだ」というよりも、むしろ「国によって殺された」と考えた方が正確ではないでしょうか。
読売新聞主筆渡辺恒雄氏も、前述した保阪正康氏との対談の中で、「玉砕なんて、大本営の命令でしょう。支援隊を送れないから、『玉砕せよ』というわけですからね。これは、残虐な殺人行為ですよ。それに、お国のために戦った英雄というけど相当数は餓死ですよね。特に南方戦線はそう。実にいいかげんな作戦によって、玉砕にいたらずに餓死した兵が山ほどいるんですからね。それを、『お国のため、天皇陛下のために万歳と言って死んでいった』という歴史観は、まったくおかしい。これを根本的に粉砕する必要があります。」と述べています。
ニューギニア、フィリピンなど南海の島々であるいは、無謀なインパール作戦により、ビルマ、インドの密林の中で多くの日本軍兵士が餓死──死亡した兵士の6割が餓死であったとする説もある。この実態について自身も軍隊体験を有する藤原彰一橋大教授著「餓死した英霊たち」(青木書店)に詳しい。──したこと、かろうじて生き残った人も、連合国軍の戦犯(BC級)裁判──拙速、報復的なものもあった──によって刑場の露と消えた人も少なくないこと、1945年8月9日中国東北部(旧満州)でソ連軍が侵攻して来たとき、日本軍は早々と後退し、多くの日本の民間人を放置し、見殺しにした事実を忘れてはなりません。彼らはまさに日本国によって殺されたのです。
ニューギニアの第十八軍司令官安達二十三中将は、敗戦後の残務整理が一段落した1947(昭和22)年9月8日、以下のような遺書を残しラバウルで自決しました。
「私儀 昭和十七年十一月第十八軍司令官の重職を拝し──此作戦三歳の間十万に及ぶ青春有為なる陛下の赤子を喪ひ、而して其大部分は栄養失調に基因する戦病死なることに想到する時、御上に対し奉り何と御詫びの言葉も無之候。──打続く作戦に疲憊の極に達せる将兵に対し更に人として堪え得る限度を遥に超越せる克難敢闘を要求致候。之に対し黙々之を遂行し力竭きて花吹雪の如く散り行く若き将兵を眺むる時君国の為とは申しながら其断腸の思は唯神のみぞ知ると存候。当時小生の心中堅く誓ひし処は必ず之等若き将兵と運命を共にし南海の土となるべく縦令凱陣の場合と雖も論らじとのこと有之候。
一昨年晩夏終戦の大詔を拝し──聖旨を徹底して謬らず、且は残存戦犯関係将兵の先途を見届くることの重要なるを思ひ、恥を忍び今日に及び候。然るに今や諸般の残務も漸く一段落となり小官の職責の大部を終了せるやに存ぜらるるにつき此時機にかねての志を実行致すことに決意仕候。即ち小官の自決の如き御上に対し奉るお詫びの一端とならずと思ふ次第にて唯々純一無雑に陣歿、殉国、並に光部隊残留部下将兵に対する信と愛とに殉ぜんとするにならず候。……」小島光造「回転特攻」・光人社文庫)
「ニューギニア戦線では、累計十四万の大軍が、マラリアと栄養失調で大半陣没し、終戦時集結し得たものは一万三千人に過ぎず、その後も斃れるものが続き、戦犯者も出て、内地に復員した者は一万人をわずかに越えたに過ぎない。まことに惨憺たるもので……」(杉浦義教「ラバウル戦犯弁護人」・光人社文庫)
小泉首相が鹿児島県、知覧の特攻記念館に行って、特攻として戦死した人々の写真、遺書等を前にして涙を流したという新聞記事を読んだことがあります。
しかし、逆ではないでしょうか。このようにむざむざと若者を殺してしまったことについて、為政者として当時の国策の過ちを怒り、また死者達にお詫びを述べなければならなかったのではないでしょうか。仮に靖国神社に参拝した憊としてもそれは同じです。何よりもまず死者達に政策の過ちにより、あたら大切な命を失わせてしまったことについてお詫びを言うべきでしょう。
■■以上、内田雅敏弁護士執筆■■
★「憎しみはダークサイドへの道、苦しみと痛みへの道なのじゃ」(マスター・ヨーダ)
★「政策を決めるのはその国の指導者です。そして,国民は,つねにその指導者のいいなりになるように仕向けられます。方法は簡単です。一般的な国民に向かっては,われわれは攻撃されかかっているのだと伝え,戦意を煽ります。平和主義者に対しては,愛国心が欠けていると非難すればいいのです。このやりかたはどんな国でも有効です」(ヒトラーの側近ヘルマン・ゲーリング。ナチスドイツを裁いたニュルンベルグ裁判にて)
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