<金魚売買へずに囲む子に優し>。作家、吉屋信子の句。夏の下町あたりの路地裏の穏やかな光景が見えてくるようだ。キンギョーエー、キンギョー。子どもたちは売り声につい誘われ、おあしもないのに集まってきたか。それでもいやな顔をしない金魚売りのオジサンがありがたい▼路地から物売りの声が絶えて久しい。がんばっていた、竿竹(さおだけ)や冬の焼きいもの物売り声も最近は聞こえない。豆腐売りのラッパも消えた▼漫談家の宮田章司さんが亡くなった。八十八歳。金魚、朝顔、トウガラシ、飴(あめ)、納豆…。江戸から伝わる物売り声を芸として聞かせていらっしゃった▼レパートリーは二百を超えていたという。陽気で威勢の良い物売り声の中にも一種の哀愁のようなものまで響かせていた。聴けば、目の前に江戸の街並みばかりではなく、当時の人々の泣き笑いまでよみがえらせる。その芸はタイムマシンのようであった▼物売り声が既に衰えていた戦前、物理学者で随筆家の寺田寅彦がこうした声を録音し、後世に残すための「アルキーヴス」(アーカイブス・書庫)を作るべきだと書いていたが、われわれは宮田さんという大切な生きたアーカイブスをなくしてしまった▼声を出さぬ物売りがある。風鈴売り。商売物の音色を聞かせるため、声は出さない。こんなこともその話芸に教わった。宮田さんが風鈴を売っている。