<血をわけしものと思はず蚊の憎さ>。蕉門十哲のひとり、内藤丈草(ないとうじょうそう)。憎らしき蚊の季節である。クイズを一問。スポーツの中で最も蚊に刺されやすい競技は何か。「カーリング」ではない。真面目な問題である▼まず、候補は屋内よりも屋外での競技か。屋外でも陸上競技など身体の著しい動きや振動を伴うものは除外できるだろう。野球の守備側の外野手も結構のんびりしているときもあるので候補だが、それ以上に被害に遭いやすいのは、ゴルフだろう▼蚊が好みそうな草むらを配したコースで長時間のプレー。専門家によるとゴルフのスイング動作はプレー時間全体の一割にも満たない。つまり動きが少なく、蚊が止まりやすい競技だろう▼蚊の媒介で感染するジカ熱。現地ブラジルでの流行を恐れ、リオ五輪の出場を辞退する有名ゴルフ選手が続出している。おとといはついに世界ランク一位のジェーソン・デー選手(オーストラリア)も不参加を表明。アダム・スコット(同)、ロリー・マキロイ(英国)両選手も出ない▼南半球ではこの時期、蚊は減るそうだが、妊婦が感染した場合、小頭症の赤ちゃんが生まれる危険もある▼国の威信や名誉よりも奥さんや婚約者の健康。時代に合った健全な判断を責められまいが、五輪の価値も下がったか。一九〇四年以来の五輪ゴルフは横綱不在。つくづく<蚊の憎さ>である。
蕉門十哲(しょうもんじってつ)は、松尾芭蕉の弟子の中で、特に優れた高弟10人を指していう。蕉門の十哲とも。
蕉門十哲とされるのは以下の10人である。
- 宝井其角(たからい きかく)
- 寛文元年(1661年) - 宝永4年(1707年) 蕉門第一の高弟。江戸座を開く。
- 服部嵐雪(はっとり らんせつ)
- 承応3年(1654年) - 宝永4年(1707年) 其角とならんで蕉門の双璧をなす。
- 森川許六(もりかわ きょりく)
- 明暦2年(1656年) - 正徳5年(1715年) 晩年になって入門。画の名人で芭蕉に画を教える。
- 向井去来(むかい きょらい)
- 慶安4年(1651年) - 宝永元年(1704年) 京都嵯峨野に別荘「落柿舎」を所有。芭蕉より野沢凡兆とともに「猿蓑」の編者に抜擢される。
- 各務支考(かがみ しこう)
- 寛文5年(1665年) - 享保16年(1731年)
- 内藤丈草(ないとう じょうそう)
- 寛文2年(1662年) - 宝永元年(1704年)
- 杉山杉風(すぎやま さんぷう)
- 正保4年(1647年) - 享保17年(1732年) 蕉門の代表的人物で芭蕉の経済的支援者。
- 立花北枝(たちばな ほくし)
- 生年不詳 - 享保3年(1718年) 「奥の細道」の道中の芭蕉と出会い入門。
- 志太野坡(しだ やば)
- 寛文2年(1662年) - 元文5年(1740年) 芭蕉の遺書を代筆。
- 越智越人(おち えつじん)
- 明暦2年(1656年) - 没年不詳 尾張蕉門の門人。「更科紀行」の旅に同行。
杉風・北枝・野坡・越人の代わりに以下の4人を加える説もある。
- 河合曾良(かわい そら)
- 慶安2年(1649年) - 宝永7年(1710年) 「奥の細道」の旅に同行。
- 広瀬惟然(ひろせ いねん)
- 慶安元年(1648年) - 正徳元年(1711年) 美濃蕉門の門人。関(現・岐阜県関市)に弁慶庵をむすぶ。
- 服部土芳(はっとり とほう)
- 明暦3年(1657年) - 享保15年(1730年)
- 天野桃隣(あまの とうりん)
- 寛永16年(1639年) - 享保4年(1719年) 芭蕉の縁者。芭蕉に許六を紹介。