食堂のウエートレスが注文を聞きにくる。胸の名札を見て、男が電話番号をつぶやく。男とウエートレスは初対面。「どうして知っているの」とウエートレスは不審がる。米映画の「レインマン」(一九八八年)にそんな場面があった▼男はサヴァン症候群なる病によって、通常では考えられないほどの記憶力を持っている。電話帳を丸ごと暗記していてウエートレスの電話番号もやすやすと諳(そら)んじることができた▼NTT東日本とNTT西日本は、五十音順の電話帳「ハローページ」の発行を二〇二一年十月以降、順次終了すると発表した。そのニュースにダスティン・ホフマン演じる男の寂しげな顔を思った▼〇五年度には個人名、企業名編の計六千五百万部発行していたが、二〇年度は百二十万部まで減っていたと聞く。そう言われてみれば、電話帳を開いた記憶が最近はない▼必要ならネットで調べた方が早い。かさばる電話帳を持ち出すのもわずらわしい。そもそも、個人名を電話帳に掲載することも詐欺などを考えればためらわれる。かつては電話台の近くで大きな顔をしていた電話帳もネットと個人情報保護の時代によって引退に追い込まれたようだ▼来日したプロレスラーが電話帳を二つに破って、怪力を誇示した時代が懐かしい。ブッチャーもやっていたっけ。今のやせた電話帳では引き裂いても自慢にはなるまい。
恐るべき侵略者をやっとの思いで討ち果たした指導者がいると思い浮かべていただきたい。国を守り抜いた英雄に国民は熱狂し歓声を上げる。ありがとう!▼その二カ月後に選挙があったとする。指導者は圧倒的に有利だろう。なにせ英雄である。ところが英雄は相手さえあきらめていた総選挙で思わぬ敗北を喫する。事実である▼英雄とは第二次世界大戦でヒトラーから国を守ったチャーチルである。欧州戦線の勝利から約二カ月後の一九四五年七月の英国総選挙でチャーチルの保守党は福祉国家建設を掲げるアトリーの労働党に敗れ、チャーチルは首相の座を追われる。国民は英雄の功績よりも未来に票を託したか▼さて、東京都知事選である。現職の小池百合子知事が優位という下馬評がある。都知事として新型コロナウイルスと闘い、ごたついた場面もあったが、第一波をひとまず沈静化させたことが選挙に有利に働くという見立てである▼それでも選挙への関心を失うのは早すぎるだろう。英雄が敗れることはあり得るし、ましてや小池さんについてはコロナを制した英雄とはまだ呼べぬ。選挙戦を関心を持って見守りたい▼小池さんにとってチャーチルとの験の悪い一致点をもう少し。チャーチルが負けた総選挙の投票日は都知事選と同じ七月五日らしい。それにもう一つ。二人とも英語を使いたがる。最後のは冗談だが。
娘がかどわかされるという時代小説を書いていた時の藤沢周平さん。書いているうちにふと心配になってきたらしい。自分の娘を呼びつけ、こんなことを言い聞かせた▼「もしも誰かに誘拐されたら、家にいくらまでだったらお金があるから出せます、と父が言っていると犯人に言いなさい」(『父・藤沢周平が描きたかったもの』遠藤展子さん)▼どこの父親も同じか。古今亭志ん生さんの娘さんである美濃部美津子さんが書いている。ある晩、マージャンに誘われ、帰りが遅くなり、門限だった午後十時を一時間も過ぎてしまった▼あわてて家に帰り、玄関を開けると志ん生さんが怖い顔をして立っている。「何時だと思ってんだ。女の子がこんな遅くまで表歩いて何だ、危ないじゃないか」。美津子さん、四十歳を過ぎていたそうだ▼父の日である。わが子の「もしも」を案じ、いくつになろうと気をもむ。心配しすぎて疎まれることもあるが、子にはありがたい味方に他なるまい。だから、その子どもたちは父親の心配する姿をほほ笑ましくも大切な記憶として書き残しているのかもしれない▼<細き身を子に寄添(よりそふ)る燕かな>蕪村。コロナもあった。世の中もこれからどうなっていくかも分からぬ。子への心配の種は尽きぬが、父親たちの細き身は父の日のささやかな感謝の言葉だけで、また一年ぐらいは元気になるのである。
いったん天高く昇った竜は、慎みを忘れると下界にくだる運命にある。「亢竜(こうりょう)の悔いあり」と漢文由来の古い言葉は言う。昇りつめた竜のように栄華を極めた人への戒めとして、伝えられてきた言葉である▼桜を見る会の公私混同疑惑に、検察人事をめぐる混乱に…。七年あまりにわたって高みにある安倍首相の政権に、のちのち悔いになりそうな出来事が、しばらく前から起きているようでならない。竜の衰えを思わせるような出来事が、またひとつ。河井克行、案里夫妻が逮捕された公選法違反事件。同じ流れのなかにある事件に思える▼票の取りまとめに、現金を配るというあからさまなやり方と、総額約二千五百七十万円という額の大きさ。伝えられる容疑にまずは驚かされる▼当選に大胆で露骨な買収があった疑いのある案里容疑者を自民党本部も安倍首相も力を入れて推していた。克行容疑者はその後、もっともえりを正すべき法相に抜てきされている。一強と言われ続けてきた政権の下で、廃れた道義と倫理を思わざるを得ない▼説明責任を言いながら、克行容疑者はこれまでに、満足な説明をしていない。思えば、政権を巡る疑惑や問題の中で何度も連呼された責任という言葉も、空疎になってしまった印象がある▼支持率は取り戻せても、道義や倫理の傷を直視しなければ、栄華は失われるものではないだろうか。
コルキスの王女メディアは夫イアソンが自分を追放し、別の娘との結婚を考えていることを知って、復讐(ふくしゅう)の炎に取りつかれる。自分は夫のため、家族を裏切り、故郷も捨てた。それなのに。エウリピデスのギリシャ悲劇「王女メディア」である▼メディアは花嫁を殺した上、ついには自分と夫との間に生まれた子どもまで手にかけてしまう。子どもの亡きがらを前にぼうぜんとする夫にメディアは言い放つ。「おまえのせいだ!」▼白煙を上げてビルが崩れていく。北朝鮮が南西部の開城にある南北共同連絡事務所を爆破した。この件で表舞台に立つ北朝鮮の金与正第一副部長が女性だからではないが、王女メディアを連想してしまう。やはり韓国に向かって「おまえのせいだ!」とでも言いたかったのか▼二〇一八年四月の南北首脳会談の合意を受けて設置された共同連絡事務所は南北融和のシンボルであり、あの物語でいえば二人の大切な子どもだったはずだ。それを一方的に葬った。朝鮮半島の緊張が高まる▼一説では経済封鎖と新型コロナウイルスの影響で国内経済は危機的であり、地方での深刻な食糧不足もささやかれるという▼爆破によって韓国を揺さぶり、経済支援を狙ったという見方がある。南北融和という子どもを大切に育て上げたその先にこそ支援は待っていただろうに。捨て鉢なやり方には悲劇の予感しかない。
変わった古道具を集めるのが趣味の男。ある日、古道具屋で振り子のない古い振り子時計を買った▼しばらくは見て楽しんでいたが、動かぬ時計に飽きてきた。第一、時間が分からない。別の品に換えてもらおうとすると古道具屋の親父、「ちょうどよかった。振り子だけ手に入りましたので、これと取り換えましょう」▼本体と振り子が一緒になって初めて時計である。ばかばかしい小咄(こばなし)だが、それを上回るばかばかしさではないか。政府は地上配備型ミサイル迎撃システム「イージス・アショア」の秋田、山口両県への配備計画を停止すると表明した。振り子のない振り子時計を売りつけられていたらしい▼ミサイル発射後に切り離される初期加速装置(ブースター)。これが演習場の外に落下する危険が分かったそうだ。重さ約二百キロのブースターがどこへ飛んでいくか分からない。周辺住民にとっては想像しただけで恐ろしい話だろう▼迎撃し、なおかつブースターも安全な場所に落下させて初めてシステムとして使えるが、これではやはり振り子のない時計である▼当初の見立てでは五千億円以上。ブースター問題を改善しようとすれば、さらに数千億円がかかる。米国の商売人の言いなりだった政府もようやく、その商品の購入は「合理的ではない」と気付いたようだ。無論、気付いてよかったで済まされる話ではない。