ドイツの作家、エンデの『モモ』にこんななぞなぞがある。三人のきょうだいが一つの家に住んでいる。「まるですがたがちがうのに、三人を見分けようとすると、それぞれたがいにうりふたつ」。これだけでは、分かるまい▼こう続く。「一番うえはいまいない、これからやっとあらわれる」「二ばんめもいないが、こっちはもう出かけたあと」「三ばんめのちびさんだけがここにいる、それというのも、三ばんめがここにいないと、あとの二人は、なくなってしまうから」▼答えは一番うえが「未来」、二ばんめは「過去」、三ばんめは「現在」である。一つの時計を見て、うろたえ、「三ばんめのちびさん」を心配する。時計とは「世界終末時計」▼米誌「ブレティン・オブ・ジ・アトミック・サイエンティスツ」の発表によると、人類滅亡を午前零時に見立てた「終末時計」の残り時間は「九十秒」となった▼過去一年の世界情勢などを踏まえ、あくまでたとえとして示しているが、昨年から十秒も針は進み、一九四七年の創設以来、最も「終末」に近づいた。ロシアによるウクライナ侵攻や核使用の懸念、気候変動。針を進める理由が世界から消えない▼「三ばんめがいないと、あとの二人は、なくなってしまう」…。現在が消えれば過去も未来もやって来ない。当たり前のなぞなぞの答えが人類への警句のように聞こえる。
自動織機を発明した豊田佐吉の長男が喜一郎。織機から自動車事業への進出を主導した、トヨタ自動車の創業者である▼大正期以降、フォードなど米企業が日本で車を生産するなか、国産車製造を志した。佐吉の夢でもあったというが、繊維機械で生きる会社には成功が怪しい自動車進出への反対論が強かった▼急先鋒(せんぽう)は番頭格の石田退三。後に社長になり自動車に献身するが、当時はこう嘆いた。「三井、三菱でもやらぬ自動車をどうしてやるんですか。佐吉翁の遺言は大切かも知れぬが、発明狂は一代だけで十分でしょう。喜一郎さんの自動車道楽はやめにした方がいい」▼喜一郎の孫にあたる豊田章男社長(66)が会長になり、佐藤恒治執行役員(53)が社長になる人事をトヨタ自動車が発表した。約十四年ぶりの社長交代という▼変革期の業界。各国企業が注力する電気自動車(EV)の開発で、トヨタは遅れたとも指摘される。インターネットと常時接続する車の開発が進み、米IT大手アップルの参入も取りざたされる。自動運転技術の開発競争も激しい。難局に若い力をいかす狙いの人事という▼自動車創業の際の喜一郎の言葉が残る。「我々のトヨタ丸は『廉価で優秀な車の製造』という旗印を立てて、嵐の海に出帆するのであります」。海が荒れているのは昔から同じではないかと、後進を励ましているようにも読める。
武蔵坊弁慶は源義経の家来。豪勇と伝わる法師で歌舞伎などの題材にもなった。語られる人物像は英雄的に脚色されているという▼生まれたときには既に二〜三歳の子どものようで、髪は肩を覆うほどに伸び、奥歯や前歯も大きくはえていたとも伝えられる▼義経に尽くした最期は有名。奥州の衣川で主君を襲わんとした敵勢の前に立ちはだかり、全身に多数の矢を受け、立ったまま絶命した。「弁慶の立ち往生」である▼大雪の影響で、新名神高速道路の三重から滋賀にかけての区間で続いた車の立ち往生が昨日朝に解消した。ほぼ丸一日、車内にいたトラック運転手は「布団でゆっくり寝たい」と疲れていた。通行止めの表示がないため高速に入ったら、立ち往生に巻き込まれたと訴える人もいる。中日本高速道路が車の流入を止めたタイミングは適切だったのか▼近畿圏の在来線でも列車が何本も立ち往生。JR西日本は降雪量を少なく想定して融雪設備を稼働させず、列車の進路を切り替えるポイントが凍結した。十分な説明もなく、何時間も閉じ込められた客の憤怒は当然だろう▼義経を守りながら各地を歩いた弁慶。海上に平家の怨霊が現れれば祈り鎮め、追っ手が目を光らす関所では山伏の一行と偽り芝居も打った。心砕いたのは、旅の安全。これを支える人々は伝説の家来ほどでなくとも、頼れる存在であってほしい。
作家の宇野千代さんはお風呂から上がるとまず、鏡の前で自分の裸を見たそうだ▼少し腰をひねって立つ。自分がボッティチェリの描いた「ヴィーナスの画に似ている」と思えてくる。当時で七十歳過ぎ。「ヴィーナスのようである筈(はず)はない」が、似ていると思うことを「幸福のかけら」と考えた。人から笑われようと、「その一かけらの幸福を(中略)張りめぐらして私は生きていく」−。幸福のかけらを大切に生きるということなのだろう▼この人の場合はヴィーナスではなく「世界最強」が鏡の中にいた。車いすテニス男子の第一人者、国枝慎吾選手が引退する。詳細な記録は必要あるまい。世界最強がコートを去るのが寂しい▼世界ランクが十位のころ、メンタルトレーナーの指導で毎朝、鏡に向かって「俺は最強だ!」と叫んでいたそうだ。続けていると効果が出た。試合中の弱気が消える▼宇野さんによると、幸福のかけらを探すのがうまい人と下手な人がいる。国枝選手は間違いなく、名人だろう。九歳で発病。困難にも自分が前向きになれる世界を見つけ、幸福のかけらを集めては磨いた。その道は本物の「世界最強」につながっていた▼強烈なバックハンド。熱いプレーがどれほど人を励まし、目標となったか。車いすテニス男子の世界ランク。二十位までに日本人選手が六人いる。その人の旅路の置き土産である。
<ぼくの髪が肩までのびて>は吉田拓郎さんの「結婚しようよ」。<就職が決まって髪を切ってきたとき>は「『いちご白書』をもう一度」。作詞は荒井由実さん。一九七〇年代のフォークソングには、髪の長い男性がよく出てくる▼この歌の影響もあるか。米フォークロック、クロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤングの「オルモスト カット マイ ヘア」(七〇年)▼ベトナム戦争の時代、髪の短い兵士との対比で髪を伸ばすことが自由の象徴であり、無個性な歯車になることへの抵抗だった▼<髪を切るところだった>。現実社会の中で髪を伸ばし続ける難しさ。その歌はカウンター(反体制)カルチャーを象徴する一曲となった。歌っていたデビッド・クロスビーさんが亡くなった。八十一歳。政治的メッセージ性の強い歌と歌声を思う▼最近の写真を見る。真っ白でさみしくなっているが、髪は伸ばしたまま。老いてもあの時代と変わらず歌で世界を変えたいと願ったか。少々、くたびれた長い髪が物語る。心臓の病と闘いながら、最近まで作品を発表し続けた▼「木の船」を聴き直す。六九年、伝説のウッドストック・フェスティバルで演奏した。核戦争後の荒涼とした世界を木の船で漂う。<誰が勝ったか教えてくれるかい>−。勝者なき核戦争を痛烈に皮肉る。半世紀も前の歌が今なお意味を持つ。悲しいことに。