作家の山口瞳さんは卒業式でおなじみの「仰げば尊し」が好きだったという。ある日、学校の先生をしている友人とお酒を飲んだ。ちょうど卒業シーズンだったらしい。山口さんが「仰げば尊し」を歌おうと誘ったそうだ▼友人はあんな嫌な歌はないときっぱり拒否した。「俺の教師としての至らないところをさらけだしたままで(生徒と)別れっちまうんだ。なにが、あおげば尊しだ、なにが、わが師の恩だ。皮肉を言われているようなもんだ」。きっといい先生だったのだろう▼この話とは逆か。どうあっても「わが師の恩」と大声で歌ってもらいたいらしい。ウクライナ外務省が公式ツイッターに投稿した各国の支援に対し感謝を表明する動画。三十一カ国の名が挙がっているが、日本の名がなく、これを問題視する声が出ていると聞く▼日本も防弾チョッキなどを送っており、感謝されぬのはおかしいのではないかという主張は分からぬでもない▼礼状の届かぬのはなるほど寂しいが、だからといってそれを騒ぎたてるのもいささか恩着せがましい話に聞こえ、戦火にそれどころではないウクライナにわざわざ確認を求めるという政府の対応も大げさだろう▼「恩は着なければならないが、恩に着せてはならない、恩を着せられてはやりきれない」−。漂泊の俳人、種田山頭火。ウクライナにやりきれない思いをさせたくない。
古典落語の「宿屋の富」にはお金がないのに宿屋に泊まるため、お大尽のふりをする男が出てくる。宿屋の亭主を相手に語るホラがおもしろい▼あっちの大名、こっちの商人に何万両と貸しているが、利息を持ってくるので邪魔で困る。家にある金の勘定を三百人がかりで始めたが、一年たっても、まだ終わらない。漬物の石は千両箱…▼男が必死に思いついたホラでも、この人の財力には勝てまい。総資産二十七兆円と伝わる世界トップクラスの富豪で、米電気自動車大手テスラの最高経営責任者、イーロン・マスクさん。今度は短文投稿サイトを運営する米ツイッターの買収に成功したそうだ▼当初は買収に抵抗していたツイッター側も約五兆六千億円という買収額を提示されて心が動いたか。一転、合意に踏み切った▼問題はツイッターの今後だろう。マスクさんの掲げる「絶対的な言論の自由」というのも気になるところで、扇動的なメッセージを投稿し、ツイッターから締め出されたトランプ前米大統領のアカウント復活も主張していると聞く▼言論の自由が民主主義の根幹であることは当然だが、自由だからとフェイクや無責任な投稿が大手を振るようになれば、考えものだろう。マスクさん自身、不適切投稿が問題となった過去もある。富豪が手に入れたツイッターの青い鳥。変わらず人のためにさえずり続けられるか。
太平洋戦争が終わってからしばらく、ブラジルの日系人社会は「勝ち組」と「負け組」が対立した▼勝ち組は日本の敗戦を受け入れない人々の呼称。「信念派」とも呼ばれ、一般人の多くが該当した。日系人指導層の多くは現実を認める負け組で別名「認識派」。負け組の要人を狙うテロが頻発し、落命した人もいる▼開戦までに邦字紙発行は禁止された。現地の言葉を理解しない日系人も多く、戦時中の情報源はプロパガンダ含みの日本発の短波放送。敗戦を伝える放送も聞けたらしいが、やがて「敗戦はデマ」という話が広まったという。国立国会図書館がネットに公開した資料などに教わった▼今のロシア社会にも対立はあるようだ。先日の記事で、ウクライナ侵攻に反発し、アルメニアに移住した二十代の女性が「私たち若い世代は両親や祖父母と口げんかばかりするようになった」と語っていた。若い人はネットで海外の情報にも触れるが、高年齢層は国営メディアに頼る傾向にある▼プーチン大統領は最近も国営テレビに出演。ロシア軍が攻めるウクライナ・ドンバス地域出身という共演の少女が「私はロシア人、ロシアを誇りに思う」と言うと、「すばらしい」と称(たた)えた▼ロシアの学校では、平和の大切さを訴えた教師が生徒らの密告で解雇されたという。ロシアの正義を信じる「信念派」一色に国を染めたいのだろう。
高速道路で古い車を見かけると速度を合わせ、ながめたくなるということが車の好きな人ならあるだろう。先日はホンダS800に出会う。半世紀も昔の車が立派に走っている▼晴れた日曜の高速道路には自慢の旧車を走らせ、調子を見るオーナーが多いのだろう。続いてトヨタスプリンターのリフトバック。これは一九七〇年代の後半か。懐かしい。確か、当時人気のアグネス・ラムさんがCMに出ていた。車一台に当時の暮らし、家族のことまで思い出す▼かつてのありふれたセダン車を見かけても、しんみりする時代がやがて来そうだ。国内自動車メーカーがその昔、主力車種としていたセダンの生産を相次いで終了している。4ドア、二列シートのかつてのファミリーカーが消えていく▼トヨタは「マークX」の生産を二〇一九年に中止。この夏は日産の「シーマ」が終わる。セダンに取って代わったのはSUVやミニバン。シート位置がセダンより高いSUVは視界も広く、運転しやすい。広い室内は使い勝手も良さそうだ。人気の理由なのだろう▼時代に逆行するように、知人がSUVからセダンへの買い替えを検討しているという。同居する高齢のお母さんが高いシートに乗り降りで難儀しているそうだ▼高齢者との同居世帯も今は珍しく、このあたりのファミリーの変化もセダン衰退と何か関係があるのかもしれない。