タレントの中川翔子さんは中学校でいじめに遭い不登校にもなった。著書『「死ぬんじゃねーぞ!!」いじめられている君はゼッタイ悪くない』に詳しい。本の中で絶妙な距離感で寄り添う人を「隣(とな)る人」と呼び、その大切さを訴える▼元々は児童養護施設の保育士を追うドキュメンタリー映画の題。中学時代の中川さんは、いじめのことを詮索せず、ただ一緒にお昼を食べたり笑いあったりしてくれる友が一人いて救われた。まさに隣る人だったという▼不登校の子に居場所を供する民間フリースクールも隣る人たらんとする施設だろうが、理解があまりない人もいるようだ。滋賀県東近江市の小椋正清市長(72)が持論を展開した。「大半の善良な市民は、嫌がる子どもを無理して学校に押し込んででも義務教育を受けさせようとしている」「フリースクールは国家の根幹を崩しかねない」「不登校は親の責任が大半」▼最近の会見で配慮不足とわびるも発言は撤回せず。不登校は甘えと言いたいのだろうか。当事者の抱える事情や心情を察せぬご仁に見え、切ない▼中川さんは、学校に行きたくないと思う夜を迎えた子にとって先の本が「隣る人」になればと願う。こんな記述がある。「大丈夫。なんとかなる、なんとかするために、わたしたち大人がいます」▼志を同じくする者は大人全員ではないかもしれないが、たしかにいる。
英国ミステリーのアガサ・クリスティはどんな場所で数々の作品を執筆したか。答えは「どこででも」らしい▼自伝によると、「わたしは書くために引きこもる部屋とか、自分の部屋とか、特定の場所を持っていなかった」。寝室用洗面台のテーブル、食事の合間の食堂のテーブルが執筆のお気に入りだったというから、どこででも集中できる人だったのだろう▼クリスティは特別で、物書きには誰にも邪魔されることなく、自分の世界に没頭できる場所が必要なものだろう。川端康成、三島由紀夫、池波正太郎、山口瞳…。数々の作家、文化人の「部屋」となった東京・神田駿河台の山の上ホテルが老朽化のため、来年2月から当面の間、休館するそうだ▼開業は1954年。出版社にほど近い立地と、落ち着いた雰囲気が作家たちに愛されたのだろう。作家先生からインタビューの場所として指定され、何度となく、お邪魔したことがあるが、昭和の文壇を支えたホテルの歴史を前になんとなく、縮こまったものだ▼「山の上ホテルへ引きこもり、読み続ける」。池波さんの『銀座日記』を読むと何度もホテルの名が出てくる。仕事場としてばかりではなくホテルのパーラーやバーでのなにげない会話によって心をほぐしていた様子がうかがえる▼アールデコ調のあの建物はどうなるのだろう。客室35の東京名所の行方が気になる。
「満(ま)よひ子の志(し)るべ」とは東京都中央区の一石橋にある石標で、江戸時代の迷子さがしのための情報交換板のようなものである▼当時はそれほど迷子がよく出たらしい。迷子があれば親と近所の者が鉦(かね)と太鼓をたたいて捜し歩く。「迷子の迷子の○○やーい」。江戸川柳の<まよい子の親はしゃがれて礼を言ひ>。やっと、わが子を見つけだすことができたのだろう。一緒に捜してくれた人たちへの礼の言葉も、喜びで胸がつまってうまく出てこなかった。子を案じる親の心が伝わってくる▼迷子さがしよりも状況は深刻である。イスラエルの攻撃が続くパレスチナ自治区のガザ。人びとの間でこんな奇妙な「習慣」が生まれているそうだ。親がわが子のおなかや足にその名を書き記しているという▼体に名を書いておけば子どもの身になにが起きたとしても後で身元が特定できる。迷子防止というより最悪の場合を想定しての行為なのが悲しい▼ガザでの死者は既に5千人を超えた。空爆、機能を失いつつある医療体制。現地ではそれほど「死」が身近になってしまっている▼どんな思いで子の名を書いているのだろう。<まよひ子の太鼓きく夜の朧(おぼろ)かな>坂部壺中(こちゅう)。心配する親、心細かろう子。迷子さがしの寂しい太鼓の音が遠くから聞こえたようでうろたえる。停戦の道を何としても見つけたい。体に名なんぞ書かせてはならぬ。
俳優の財津一郎さんの決めぜりふ「○○してチョウダイ」は吉本新喜劇で生まれた。財津さんが父親、花紀京さんが息子役でけんかを繰り広げ、「縁を切ってもええで」と息子が出ていこうとした時に「やめてチョウダイ」と叫んだら、その奇声が受けた▼食えぬころで、タダで借り妻子と住む納屋は畳が腐り、それを突き破って伸びたタケノコも頂いた。困窮続く私生活を舞台に重ね「私を、家族を、助けたまえ」と天に訴える心境で発したのが「やめて-」。笑わす気などなかったと故郷の熊本日日新聞で語っている▼訃報が伝えられた。コメディー番組『てなもんや三度笠』の浪人役で「キビシーッ」と言って笑わせた人は、昔から苦労した▼出征した父は戦後抑留され、母は栄養失調で伏せた。自ら衣類を手に農家を回り食料との交換を懇願した。農地改革で多くの土地を手放したが「地主の子」といじめられた。高校の先生に麦踏みに連れ出され「踏まれることで強い麦になれ。根アカに生きろ」と励まされたという▼演技の幅を広げ70代で出た映画『ふたたび SWING ME AGAIN』はハンセン病が主題。患者として半世紀も隔離されながら夢を追う老トランペッター役で、できる人は他にいないと監督に口説かれた▼時に「やめて-」と天に叫びたくなる辛苦も知る喜劇人。救われた人はどれほどいただろう。
北海道のお土産「木彫りのクマ」発祥の地は道南の八雲(やくも)町。旧尾張藩士たちが明治以降に開拓した地で、入植者らの冬場の副業として始まったことは知られる。当時の尾張徳川家当主が欧州の民芸品をヒントに勧めた▼開拓ではこの獣に悩まされたよう。当時の奮闘を描く城山三郎の『冬の派閥』に「とうもろこし畠が、どこも荒らされただけでなく、馬が襲われて、殺された」と記される。クマ狩りをするアイヌは生態に詳しいが、彼らの助言でクマの通り道に仕掛けを作る場面もある▼開拓時代も遠くなった令和の世で、クマによる人身被害が続く。富山市の自宅敷地内で死亡したお年寄りは、状況からクマに襲われたらしい。何とも痛ましい。昨日は秋田県の住宅街で女子高生らが相次ぎ襲われけが人が出た▼各地の人身被害は本年度、計100人を超え過去最多ペース。クマがいる山中と市街地の緩衝地帯だった里山の衰退が背景との見方もあると聞く。木を切るなどして里山に住む人が減りクマが入りこんで市街地に近づいたようだ▼人がその領域を広げた開拓時代とは対照的。人口減時代の付き合い方を模索せねばなるまい▼入植者にクマの知識を授けたアイヌに「イヨマンテ」と呼ぶ儀式がある。クマを神と考え、捕らえたクマの霊を神の国に返す。森の強者と向きあうには、畏敬の念も忘れるなという教えなのだろう。