ひなびた漁村だった中国南部深圳を大都市に育てたのは国の実力者だった鄧小平。1980年ごろから深圳などに特区をつくり外資を呼ぶ改革開放政策を進めた▼84年、鄧は深圳を視察。ビル屋上から建設ラッシュの街を眺めた。中国共産党の地元支部の書記の家を訪れると1、2階の客間にそれぞれテレビとステレオが1台ずつある。「今は何でもあるだろう」と鄧が聞くと書記は「何でもあります。今のようなよい生活ができるなんて夢にも思いませんでした」と感謝したという(孫秀萍ほか訳『鄧小平伝 中国解放から香港返還まで』)▼成長の象徴・深圳で日本人学校の男児が登校中、男に刺され死亡した。言葉がない▼詳細な動機は不明で予断は避けたいが、6月にも中国の蘇州で日本人学校のバスを待つ母子らが襲われた。中国のネット上では日本人学校を「スパイを養成している」などと根拠なく中傷する投稿が多いという▼歴史的経緯と政府の愛国教育で根強い反日感情。先にスパイ罪で日本人駐在員が起訴された影響もあり、中国赴任を嫌がる人が増えたとも聞く。強権的になった感もある隣国は仕事がしにくい地になりつつあるのか▼84年に深圳の姿を眺めた鄧は「見えた。はっきり見えた」と言い発展に満足の意を示したという。日中関係のよき未来がはっきり見えると言える楽観的な人は今、少ないのだろう。
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