ああ~~~シンデレラっちまいました。(12時すぎたってことですー)
うっかりしてましたよぉ。昨日はまだ少し前に終わったばかり・・
ま、しょうがないですね。昨日は12月14日、赤穂浪士「討ち入り」の日、
どっかの局で「忠臣蔵」やってるかななんて思ってたんですが・・。
あっ実際の討ち入りは、午前4時ごろ実行されたので、正確には本日15日です。
おっまだ討ち入りには間に合う・・ってそーじゃなくて・・。
しかたありません、使う予定の写真はやめてそれはまた別の機会に。
本日は「薫風館」様からお借りした「炭」のイラスト。
吉良さんが隠れた炭小屋にちなんで・・・のつもり。
それでは今日は、一日遅れの「討ち入り」ばなし。
といっても衣装のお話し、なんたって着物中心のお話しサイトですから。
古くはお芝居から、近代に入ってからは「映画・テレビ」で、
何度となく上演上映されてきた「忠臣蔵」ですが、やはり見て美しいように、
装飾がされていますから、実際の衣装とは違っています。
史実に忠実にすると、あの黒と白で衿のところに名前が書いてある
あのオソロの衣装は全くナシ。実際には「火事装束」に近かったそうです。
これってアタマ使ってると思うんですが、江戸時代「火事」は
とてもこわいもので「明暦の大火」など、歴史に残る大火事もいくつもあります。
時代が進んで「火消し」という組織が作られましたが、これお話ししてると
長くなる・・のでとりあえず、とにかく「火事」はとてもこわいものでした。
討ち入りがあった当時は、まだ「町火消し」はありません。
カンタンに言うと「大名」に「あんたたち、火事に備えて準備しときなさい」と
将軍様が命令して組織だったものが作られ、火事が起きるとそこに近いところの
大名が火消役をやっていた・・ということです。
いろいろ組織の作り方など変わりましたが、大岡越前が「町火消し」を作ったのは
「討入り」の後20数年後・・ぐらいではなかったでしょうか。
そんなわけで、火事のとき「火事装束」で走り回るのは、当時武士だけ。
だから、夜中に火事装束で走っていてもあまり不審がられなかったでしょう。
で、彼らは火事装束らしき衣装で江戸の町を走り抜けたわけですが、
じゃ「火事装束」って何?というと、とりあえず黒っぽい小袖、頭巾もアリ。
たぶん刺し子などで補強した厚手の着物・・ではないかと思います。
火事場で消火活動をしたり、人を助け自分も生きて逃げるためには
「燃えにくい」「熱くない」こと。後年の江戸火消しの衣装は、
厚地の木綿の刺し子です。それで水を被ればたっぷり水を含んで
燃えにくくなったことでしょうね。武家の火事装束、特に身分の高い人の衣装は、
とにかく豪華絢爛。特に奥方用姫用は、たいへん美しいもので、
何もこんなものにそこまで装飾せんでもと思うくらいきらびやかです。
ひとつには、武家の身分高い女性は、まず逃げるだけですから、
逃げるのに火の粉をかいくぐれること、あとは「目だつ」こと。
行方不明になっちゃったらタイヘンですから。
だからハデになった・・・かどうかはわかりませんが、とにかく
目だつということに関しては「目的達成」している装束が、今でも残っています。
男性の身分高い人は「指揮」をとらねばならないこともあり、
陣羽織やら陣笠やらいろいろありますが、燃えないように皮の陣羽織にしたり、
陣笠の周りに火の粉よけのカバーをつけたりしています。
討ち入りの面々は、とにかく「目立たない」「動きやすい」ついでに
時期が時期ですから「暖かい」ってのもあったかもしれませんね。
で、黒っぽい小袖でしたが、その下にきっちり「鎖帷子」などを
着こんでいたそうです。鎖帷子というのは、言ってみれば「防刃?チョッキ」
これを着ていれば、刀で切られても、からだは大丈夫・・というわけ。
実際戦いが済んだ後、吉良方には死傷者が多く出ましたが
「義士側」は数名の負傷者。ちょとズルイ??
映画では「剣豪」「最強ボディガード」の小林平七や清水一角は、
実際にはあっけなく討たれています。衣装で負けたとはいいませんが・・。
討ち入り後、50年近くたって発表された「仮名手本忠臣蔵」が大当たりし、
それがベースになって、今も語り伝えられる「義士伝」になって、
吉良さんいじめっこ、浅野さんいじめられっこ、大石さん忠義のヒト・・に
なっていますけど、実際にはもっと深い武家社会の問題点とかおもわくとか
どろどろしたものがあって、複雑なんですよね。
討ち入りに参加しなかった何倍もの「元赤穂藩士」たちは、
「不忠義だ」といわれて、長く不遇をかこったそうです。
彼らにとっては討ち入りなんて迷惑なことだったでしょう。
歴史って、多面的に考えないといけないんでしょうね。
衣装のお話しのおまけ・・映画などで「時代考証」をきちんとしている
「忠臣蔵」ですと、時は元禄ですから風俗も華やか、
身分の高い女性は帯を前で結んだりしています。
女性の髪形も「つと(関西では『たぼ』)」が後ろに長く突き出る形です。
まだ着物の着方や柄などに「桃山時代」の影響の残る風俗ですね。
古い忠臣蔵の映画などを見ることがありましたら
そんなことも思い出しながら見ると、またちがった楽しみがあります。
相変わらす 博学ですね。
現代の浅野家、吉良家、大石家の内情は?
なんて三流記事ですね。
仲良くやって下さいなってところでしょうか。
今日は会社から東神奈川方面に火の手が上がっているのが見えました。
この寒空に大変だ!!!と心痛みましたが、すぐさま仕事に戻りました。
さあ 討ち入りの前に寝なくては・・・
以前、すぐ裏の家の(少しはなれていましたが)
壁が燃えたことがありましたが
「パニック」になる・・というのが
よくわかりました。足はすくむし、
電話する手はふるえるし・・・。
お互い無事でいられますように!
昨日 父の遺品の「鎧通し」もアップしてあります。
忠臣蔵、小さい頃は親が涙こぼしながら見ているのを
不思議な思いで見てました。かすかに覚えているのは
「片岡千恵蔵」さんの大石内蔵助、古いですねぇ。
何回見ても、泣く場面が同じってのも、
「忠臣蔵」のすごいとこだと思います。
わかっているのに・・・泣けるんです。
分厚い綿生地に刺し子が施いてありました「なんや忠臣蔵の衣装みたいやなぁ」・・と言った記憶がありますわ。
みられしまへん・・。
実物の迫力ってすごいですよね。