解きかけ状態でくるくるとまるめてあったもので、紙袋に入れたまま、
以前からの解きかけや解いたものなどと一緒に入ってまして…。
最近は、箱に入れようが袋に入れようが、ちゃんとメモをつけておかないと、
「これ、何がはいってたっけ」なんですよね。
で、出してみて「ありゃ懐かしい」だったわけですが、これは古い…。
母が結婚前から持っていたもので、焼け野原の横浜に来て、
私が生まれて…という大変な時期を一緒にすごしてきた着物。
つまり60年以上はたっているものです。
とりあえず身頃一枚洗い張りしました。さっぱりしたなぁです。
あのころは日本中が貧しくて物不足、お金不足でしたから、
母がイナカから持ってきたものも、いいものは一枚だけ、めったに着ない訪問着。
あとは、娘のころの銘仙の仕立て直しの羽織やら、
姉(つまり伯母)などからもらった古着などばかり。
それも、いなかから届くなり私の着物になったり布団側になったり…。
で、コレはお気に入りだったようで残っていたわけです。
品物は一応羽二重のようですが、たぶん元々襦袢用だと思います。
薄くてしゅるしゅるです。着ていた写真がありました。
ななめってるし、足元チョン切れだし…これは母の友人が撮ったものだそうです。
昭和30年のお正月、このころってどこの家でも「旗日」には国旗出しましたね。
母が手にしているのはたぶん年賀状です。
縞が全く見えないので、違うかと思ったのですが、ズームインして調べたら、
ちゃんと縞がありました。確かに少し離れると縞がにじんだようになって、
地色が沈んで見えます。柄ってフシギですね。
私の七五三の時のお話でもこれを着ていまして、
その記事の中に、この母の着物について「薄紫に、青か緑の花」と
かいてあります。実際にはびみょーに違うんですねぇ。
薄紫というのは「褪せちゃった」色、で、端の色の褪めてていないところを見たら
どちらかというと「ピンク」っぽいです。
縫い代の中と外です。
花の色は青緑、といいますか、これもおそらくは最初緑がかった青…。
洗ってみたら、相当汚れと褪せがひどかったのですが、
最後はそのまま、袖口だけ解いて単の襦袢として着ていたようです。
せっかくここまで持ちこたえてきたのですから、半幅帯とか、しましょかね。
上の写真の母の羽織は確か黒の銘仙、柄は茶色系だったと思います。
これもとっておいてほしかったですが、たぶんイナカに戻って、
誰かに着られたのだと思います。
同じ日に撮った写真がこちら…「三丁目の夕陽」の世界ですよぉ。
母の向かいが、上の写真撮ってくれた母の友人、正面の洋服の女の子がお嬢さん、
左端で、口の端にしょうゆつけてるのが私、向いは前のウチのお姉ちゃん。
母とおばちゃんは「火鉢」でお餅を焼いているところです。
ちゃぶ台には急須に小皿に「駕籠入りみかん」…こんなでしたねぇ。
まだテレビは陰も形もありません。右上の棚にドンと座っているのはラジオです。
おばちゃんのずっと後ろ、左上の花菱の柄のもの、色がどうしても思い出せないのですが、
確かふろしきで母が作った「かがみかけ」です。
もうひとつ懐かしいものを見つけました。
あまりに小さくて、これ以上大きくできないのですが…、
母の向こう側にある小さなもの、手つきの「缶」です。
これたぶんお正月のお年玉にもらったものだと思うんですが、
お菓子が入っていて、外にかわいい絵が描いてある…ありましたよね、こういうの。
不二家のなんかだと「ペコちゃん」の絵なんですけどね。
ちゃぶ台も火鉢もなくなりました。お餅も一年中食べられるし、
しかもレンジでチーンだったりする…このころには、
こんな暮らしになるなんて、だーれも思っていなかったでしょうねぇ。
あぁ、火鉢がほしいなぁ…と思いながら、残りの解きかけ部分を解きました。
「♪もぉいくつ寝ると…」いくらなんでもまだ早いってば。
以前からの解きかけや解いたものなどと一緒に入ってまして…。
最近は、箱に入れようが袋に入れようが、ちゃんとメモをつけておかないと、
「これ、何がはいってたっけ」なんですよね。
で、出してみて「ありゃ懐かしい」だったわけですが、これは古い…。
母が結婚前から持っていたもので、焼け野原の横浜に来て、
私が生まれて…という大変な時期を一緒にすごしてきた着物。
つまり60年以上はたっているものです。
とりあえず身頃一枚洗い張りしました。さっぱりしたなぁです。
あのころは日本中が貧しくて物不足、お金不足でしたから、
母がイナカから持ってきたものも、いいものは一枚だけ、めったに着ない訪問着。
あとは、娘のころの銘仙の仕立て直しの羽織やら、
姉(つまり伯母)などからもらった古着などばかり。
それも、いなかから届くなり私の着物になったり布団側になったり…。
で、コレはお気に入りだったようで残っていたわけです。
品物は一応羽二重のようですが、たぶん元々襦袢用だと思います。
薄くてしゅるしゅるです。着ていた写真がありました。
ななめってるし、足元チョン切れだし…これは母の友人が撮ったものだそうです。
昭和30年のお正月、このころってどこの家でも「旗日」には国旗出しましたね。
母が手にしているのはたぶん年賀状です。
縞が全く見えないので、違うかと思ったのですが、ズームインして調べたら、
ちゃんと縞がありました。確かに少し離れると縞がにじんだようになって、
地色が沈んで見えます。柄ってフシギですね。
私の七五三の時のお話でもこれを着ていまして、
その記事の中に、この母の着物について「薄紫に、青か緑の花」と
かいてあります。実際にはびみょーに違うんですねぇ。
薄紫というのは「褪せちゃった」色、で、端の色の褪めてていないところを見たら
どちらかというと「ピンク」っぽいです。
縫い代の中と外です。
花の色は青緑、といいますか、これもおそらくは最初緑がかった青…。
洗ってみたら、相当汚れと褪せがひどかったのですが、
最後はそのまま、袖口だけ解いて単の襦袢として着ていたようです。
せっかくここまで持ちこたえてきたのですから、半幅帯とか、しましょかね。
上の写真の母の羽織は確か黒の銘仙、柄は茶色系だったと思います。
これもとっておいてほしかったですが、たぶんイナカに戻って、
誰かに着られたのだと思います。
同じ日に撮った写真がこちら…「三丁目の夕陽」の世界ですよぉ。
母の向かいが、上の写真撮ってくれた母の友人、正面の洋服の女の子がお嬢さん、
左端で、口の端にしょうゆつけてるのが私、向いは前のウチのお姉ちゃん。
母とおばちゃんは「火鉢」でお餅を焼いているところです。
ちゃぶ台には急須に小皿に「駕籠入りみかん」…こんなでしたねぇ。
まだテレビは陰も形もありません。右上の棚にドンと座っているのはラジオです。
おばちゃんのずっと後ろ、左上の花菱の柄のもの、色がどうしても思い出せないのですが、
確かふろしきで母が作った「かがみかけ」です。
もうひとつ懐かしいものを見つけました。
あまりに小さくて、これ以上大きくできないのですが…、
母の向こう側にある小さなもの、手つきの「缶」です。
これたぶんお正月のお年玉にもらったものだと思うんですが、
お菓子が入っていて、外にかわいい絵が描いてある…ありましたよね、こういうの。
不二家のなんかだと「ペコちゃん」の絵なんですけどね。
ちゃぶ台も火鉢もなくなりました。お餅も一年中食べられるし、
しかもレンジでチーンだったりする…このころには、
こんな暮らしになるなんて、だーれも思っていなかったでしょうねぇ。
あぁ、火鉢がほしいなぁ…と思いながら、残りの解きかけ部分を解きました。
「♪もぉいくつ寝ると…」いくらなんでもまだ早いってば。
ありませんが、小さい頃、こんなだったと
懐かしく思う写真ですね。
ちゃぶ台の上に座ってお茶碗とおさじでなにやら食べている幼い私の写真がありますが、食べているのは好物だった牛乳かけご飯だそうです。・・・・ご飯に牛乳かけて食べるの好きだったのはなんか記憶あります・・・変な子・・・
亡くなった実父が写真が趣味だったおかけで、
私のだけでもアルバムが何冊も残っています。
今にして思えば、ぜいたくなことで、幸せです。
なかには「これだけは見たくない」なんて、
不細工なのもあるんですけどね。
モノクロってとこも、なんかノスタルジックで
いいものですよね。色が思い出せるものも
いろいろあったりして懐かしいです。
ごはんに牛乳…オートミール感覚ですねぇ。
私の父はあつあつごはんにバターが
すきでしたねぇ。おかず梅干だったり
するんだけど…。