写真は、とりあえず棚からひょいと出した男物の襦袢の解き、
まだ解いたままですねぇ、洗わなくちゃ…。面白い柄ですね。
コッチ向きのおんまさんもいます。
さらさらっと描いてる感じですが、なかなかいいですね。
馬の絵というと、割と「競馬」か、あとは野生馬、武者を乗せたもの、
これは野生馬かと思ったら、合間の四角い絵がなんか「お手紙」のような…。
馬で書簡を届けるのは「武家」でしたが、
これ、なんか「荷受票」みたいにも見えるし…あぁ達筆すぎて読めな~い。
とりあえず「字」の柄も好きな私には「お気に入り」です。
いえ、絶滅危惧なんていっても「おんまさん」じゃなくて…職人さんのことです。
着物って、それを作る人・売る人・買う人がいるわけです。
いろんな立場で、いろんなふうに絡み合って、お互いに育っていくと、
それが文化として残っていく…ってことなんです。ま、これは着物に限りませんが…。
でも、今は残念ながら、いろんな世界であちこちが壊れかけています。
たったこの60年くらいで…。
私にはありがたいことに、客としてでなく、個人的に友人として時に先生として
お付き合いしていただいている呉服屋さんが、複数ありますので、
裏話だの現状だのを耳にする機会がいろいろあります。
ここ10年くらいの間に聞いたお話は「○○の職人さんが廃業した」
「△△の職人さんが転職した」「××の職人さんは後継者がいないので代限り」
そんなお話しばかりです。寂しいですよね。
およそ衣食住にかかわる「モノ」は、たくさんの人の手を経て、
私たちの手元に届くわけですが、とくに染物織物の反物や和物と呼ばれるものは、
多くは分業制だったり、ひとりでやってもたいへんな数の工程を経たりで、
カンタンにできるものでないものばかりです。
確かに、今は機械化が進んでますから大量生産できるものもたくさんあり、
素材も新しいものもでてきましたし、安価で入手できるものが増えるのは、
ありがたいことではあります。でもそのかわり、
正直「手描き、手織り、手作り」の数は激減しているわけです。
高けりゃいいってもんじゃないわけですが、
本当は、ずっとそういうものが廃れずにきちんとシステムとして残っていたら、
手織り、手染めでも、ピンからキリまで、
機械で作ったものでもピンからキリまで、
と作れるはずだったんですね。
それが、着物離れで価格をおさえるために海外での製作を選んだ…。
おかげで、国内の養蚕農家も、織りの人も染めの人も、仕事が激減しました。
結局はダメになった「展示会商法」についても、いろいろ耳にしていますが、
外国はなにしろ人件費、手間賃が安いのです。
だから安いほうを選んだ…「モノも安くなる」ということではいいかもしれませんが、
それを、国内でのものと同じかそれ以上の価格で売ったから、
「詐欺」などと言われたりするわけです。
おまけに、わからないのをいいことに「いいものだいいものだ」と吹聴する…。
そしてもっと悪影響だったのは、着物を着ない人が、着物を買おうとすると、
どうしても「たくさんあるところ」がいいと思ってしまう。
展示会の熱風に巻き込まれ、買ってしまう。これがいけませんでした。
職人を大事にしないということは、食べ物で言えば農家や漁師さんを
大事にしないことです。
昨今の食品界のさまざまな偽装だの事件だので、このところ「国産」ということに
みんなの目が行ってます。でも国産は高い…高くしてしまったのは、
私たちでもあるんですよね。気が付かずにここまできてしまったけれど、
最近になって「地産地消」を改めて考えたり、少し割高でも国産を選んだり、
そんな風潮も生まれています。作るほうも地道にいいものを…と。
着物でもこれがあれば、と思います。「高いものがいいもの」ではなくて、
ピンキリあることで「選択」できるってことです。
そのためには、野菜で言うなら、曲がったきゅうりは箱に入らないから安いだけで、
味はかわりゃしないとか、虫食いキャベツは本当は安全度が高いとか…、
そういうことを知らなきゃなりませんよね。
着物も同じです。手ごろな価格というのは、なぜ手ごろなのか、
デジタル友禅と、型染めと、手描きとどう違うのか。
反物のはしに書いてある数字は何なのか、それで作るとどう違うのか…。
今出回っている着物はどういう素性のものなのか…。
そういうことは、私は幸いなことに教えてくれる親と周囲がありました。
特別勉強したわけではないのです。ほんとに幸せだと思います。
着物は、高いものがいいもの、はそりゃ価値的にはそうなのですが、
自分にとっていいもの、というのは「背伸びしなくていいもの」です。
自分で縫わない昨今なら、仕立て代やメンテのことも考えなければなりません。
結城だの大島だの、確かに着物を着るものにとっては、
それを着るのは夢ですが、何もそればっかりでなくてもいいわけで、
普段の紬は「どこのかわかんない」ものでも「色柄」で着ればいいわけです。
そこのとこを呉服屋さんに聞くと「置いても売れないからおかなくなってる…」
つまり、最近呉服屋さんに来るお客は、どうしても「振袖・訪問着」など、
礼装が主になってきているわけです。
着物好きの人がピンキリで紬をほしいと思っても、たまにあるのは、
「高級大島」とか「高級結城」…どこのだかわからない3万くらいの紬なんて、
「置くだけムダだから置かない」わけです。
これが困るんですねぇ。
着物だけでなく、テレビで伝統工芸品などのリポートがあると、
後継者がいない…というのをよく聞きます。
幸いにも観光地名物など、地域的にまとまって保護されているようなところは、
その製造工程を公開するなどして、まだまだ残っていけそうですが、
たとえば地方で一人でやっている…なんていうものは、
後継者がいないのがアタリマエ…が多いです。
かつて銘仙などの織物は「絹紡糸」で作られておりました。
絹紡糸は、繭から絹糸を引くときに出る廻りのくずなどを
集めたりして作られた糸です。生糸は1本で1500メートルくらい
ありますが、この絹紡糸は、長くても10センチとか20センチとか、
そのくらいの糸です。これをより合わせた糸なわけで、
だから糸そのものが生糸より安価、銘仙や富士絹は庶民に手が届く価格で
作ることができたわけです。しかし、いまやこの絹紡糸、全部輸入です。
なんたって、日本の絹が少ないですからねぇ、くず糸が出ないわけですよ。
おかげでかえってお高いものになってしまっている…アホみたいなハナシです。
なんで「この国のもの」を大切にしないのでしょう。
食べ物だってそうですよね。かつて戦争をしたとき、
日本人はみんな「飢え」たのです。
これから先、戦争でなくたって、大きな災害とか天候異変とかで、
順調に輸入できないことだってあります。(いまだって、ねぇ)
自分の国を自分で守るということは、本当はそういうことを
考えることじゃないかと、なんかそう思うんですよ。
着物のハナシから、ずいぶん大きなハナシになってしまいましたが、
繭ひとつ守れないで、何ができるというのか…と、そんなことを思うのです。
国によっては、例えば歴史的建造物だとか壁画とか、手工芸品とか…、
そういうことに携わる人をきちんと保護して、いわゆる「職人さん」を
養成する学校や組織があったりします。
そして何より重要なのは、若い人たちが「そういうこと」にきちんと向き合って
価値を見出し、自分からそれに携わりたいという思いを持つ人がいる…。
土壌ができているということは、そういうことだと思うんです。
そして着る側にも、その土壌がほしいわけですが、
それが戦争を境に着物を着られない時代があり、戦後は着物離れが始まった…。
私の年でも、自分で着物が着られない人はたくさんいます。
洋服なら、何か買うときも色柄や素材や、目的にあわせて、
選択をして買い分けること、着分けることができます。
でも、着物ではそれができない…それがもったいないと思うわけです。
これは「伝えていく」ためにも、必要なことだと思います。
かつて着物は何代にもわたって着られたり、リフォームされて、
最後はハギレになるまで使われました。自分で洗えたり縫えたりしましたからね。
でも今の時代は、自分で洗ったり縫ったりができませんから、
メンテや維持にお金がかかりますし、誰かが着る、というのもありませんし…。
しかも礼装には洋装が増えています。振袖なんてほんとに何回も着ませんよね。
だから、目的や状況によっては、ポリ振袖でも貸衣装でも、私はいいと思います。
そのときに、自分の着物ライフから考えて…だからこのライン…ということを
きちんと納得するチカラを持つことが、着物を知ることだと思うのです。
こうして考えて見ますと、今ってほんとに「着物」にとって、厳しいですね。
作る側も買う側も…ホクホクなのは、売れなくなった「実はいいもの」を
買い叩いて「バカ安」で売る、どっかの業者?
品物がピンキリで、どこでもあるように、そして買う側は
自分に合った「いいもの」が買えるように、そうなるためにも、
「底」の方から、守らなきゃと思うんですけどねぇ。
まだ解いたままですねぇ、洗わなくちゃ…。面白い柄ですね。
コッチ向きのおんまさんもいます。
さらさらっと描いてる感じですが、なかなかいいですね。
馬の絵というと、割と「競馬」か、あとは野生馬、武者を乗せたもの、
これは野生馬かと思ったら、合間の四角い絵がなんか「お手紙」のような…。
馬で書簡を届けるのは「武家」でしたが、
これ、なんか「荷受票」みたいにも見えるし…あぁ達筆すぎて読めな~い。
とりあえず「字」の柄も好きな私には「お気に入り」です。
いえ、絶滅危惧なんていっても「おんまさん」じゃなくて…職人さんのことです。
着物って、それを作る人・売る人・買う人がいるわけです。
いろんな立場で、いろんなふうに絡み合って、お互いに育っていくと、
それが文化として残っていく…ってことなんです。ま、これは着物に限りませんが…。
でも、今は残念ながら、いろんな世界であちこちが壊れかけています。
たったこの60年くらいで…。
私にはありがたいことに、客としてでなく、個人的に友人として時に先生として
お付き合いしていただいている呉服屋さんが、複数ありますので、
裏話だの現状だのを耳にする機会がいろいろあります。
ここ10年くらいの間に聞いたお話は「○○の職人さんが廃業した」
「△△の職人さんが転職した」「××の職人さんは後継者がいないので代限り」
そんなお話しばかりです。寂しいですよね。
およそ衣食住にかかわる「モノ」は、たくさんの人の手を経て、
私たちの手元に届くわけですが、とくに染物織物の反物や和物と呼ばれるものは、
多くは分業制だったり、ひとりでやってもたいへんな数の工程を経たりで、
カンタンにできるものでないものばかりです。
確かに、今は機械化が進んでますから大量生産できるものもたくさんあり、
素材も新しいものもでてきましたし、安価で入手できるものが増えるのは、
ありがたいことではあります。でもそのかわり、
正直「手描き、手織り、手作り」の数は激減しているわけです。
高けりゃいいってもんじゃないわけですが、
本当は、ずっとそういうものが廃れずにきちんとシステムとして残っていたら、
手織り、手染めでも、ピンからキリまで、
機械で作ったものでもピンからキリまで、
と作れるはずだったんですね。
それが、着物離れで価格をおさえるために海外での製作を選んだ…。
おかげで、国内の養蚕農家も、織りの人も染めの人も、仕事が激減しました。
結局はダメになった「展示会商法」についても、いろいろ耳にしていますが、
外国はなにしろ人件費、手間賃が安いのです。
だから安いほうを選んだ…「モノも安くなる」ということではいいかもしれませんが、
それを、国内でのものと同じかそれ以上の価格で売ったから、
「詐欺」などと言われたりするわけです。
おまけに、わからないのをいいことに「いいものだいいものだ」と吹聴する…。
そしてもっと悪影響だったのは、着物を着ない人が、着物を買おうとすると、
どうしても「たくさんあるところ」がいいと思ってしまう。
展示会の熱風に巻き込まれ、買ってしまう。これがいけませんでした。
職人を大事にしないということは、食べ物で言えば農家や漁師さんを
大事にしないことです。
昨今の食品界のさまざまな偽装だの事件だので、このところ「国産」ということに
みんなの目が行ってます。でも国産は高い…高くしてしまったのは、
私たちでもあるんですよね。気が付かずにここまできてしまったけれど、
最近になって「地産地消」を改めて考えたり、少し割高でも国産を選んだり、
そんな風潮も生まれています。作るほうも地道にいいものを…と。
着物でもこれがあれば、と思います。「高いものがいいもの」ではなくて、
ピンキリあることで「選択」できるってことです。
そのためには、野菜で言うなら、曲がったきゅうりは箱に入らないから安いだけで、
味はかわりゃしないとか、虫食いキャベツは本当は安全度が高いとか…、
そういうことを知らなきゃなりませんよね。
着物も同じです。手ごろな価格というのは、なぜ手ごろなのか、
デジタル友禅と、型染めと、手描きとどう違うのか。
反物のはしに書いてある数字は何なのか、それで作るとどう違うのか…。
今出回っている着物はどういう素性のものなのか…。
そういうことは、私は幸いなことに教えてくれる親と周囲がありました。
特別勉強したわけではないのです。ほんとに幸せだと思います。
着物は、高いものがいいもの、はそりゃ価値的にはそうなのですが、
自分にとっていいもの、というのは「背伸びしなくていいもの」です。
自分で縫わない昨今なら、仕立て代やメンテのことも考えなければなりません。
結城だの大島だの、確かに着物を着るものにとっては、
それを着るのは夢ですが、何もそればっかりでなくてもいいわけで、
普段の紬は「どこのかわかんない」ものでも「色柄」で着ればいいわけです。
そこのとこを呉服屋さんに聞くと「置いても売れないからおかなくなってる…」
つまり、最近呉服屋さんに来るお客は、どうしても「振袖・訪問着」など、
礼装が主になってきているわけです。
着物好きの人がピンキリで紬をほしいと思っても、たまにあるのは、
「高級大島」とか「高級結城」…どこのだかわからない3万くらいの紬なんて、
「置くだけムダだから置かない」わけです。
これが困るんですねぇ。
着物だけでなく、テレビで伝統工芸品などのリポートがあると、
後継者がいない…というのをよく聞きます。
幸いにも観光地名物など、地域的にまとまって保護されているようなところは、
その製造工程を公開するなどして、まだまだ残っていけそうですが、
たとえば地方で一人でやっている…なんていうものは、
後継者がいないのがアタリマエ…が多いです。
かつて銘仙などの織物は「絹紡糸」で作られておりました。
絹紡糸は、繭から絹糸を引くときに出る廻りのくずなどを
集めたりして作られた糸です。生糸は1本で1500メートルくらい
ありますが、この絹紡糸は、長くても10センチとか20センチとか、
そのくらいの糸です。これをより合わせた糸なわけで、
だから糸そのものが生糸より安価、銘仙や富士絹は庶民に手が届く価格で
作ることができたわけです。しかし、いまやこの絹紡糸、全部輸入です。
なんたって、日本の絹が少ないですからねぇ、くず糸が出ないわけですよ。
おかげでかえってお高いものになってしまっている…アホみたいなハナシです。
なんで「この国のもの」を大切にしないのでしょう。
食べ物だってそうですよね。かつて戦争をしたとき、
日本人はみんな「飢え」たのです。
これから先、戦争でなくたって、大きな災害とか天候異変とかで、
順調に輸入できないことだってあります。(いまだって、ねぇ)
自分の国を自分で守るということは、本当はそういうことを
考えることじゃないかと、なんかそう思うんですよ。
着物のハナシから、ずいぶん大きなハナシになってしまいましたが、
繭ひとつ守れないで、何ができるというのか…と、そんなことを思うのです。
国によっては、例えば歴史的建造物だとか壁画とか、手工芸品とか…、
そういうことに携わる人をきちんと保護して、いわゆる「職人さん」を
養成する学校や組織があったりします。
そして何より重要なのは、若い人たちが「そういうこと」にきちんと向き合って
価値を見出し、自分からそれに携わりたいという思いを持つ人がいる…。
土壌ができているということは、そういうことだと思うんです。
そして着る側にも、その土壌がほしいわけですが、
それが戦争を境に着物を着られない時代があり、戦後は着物離れが始まった…。
私の年でも、自分で着物が着られない人はたくさんいます。
洋服なら、何か買うときも色柄や素材や、目的にあわせて、
選択をして買い分けること、着分けることができます。
でも、着物ではそれができない…それがもったいないと思うわけです。
これは「伝えていく」ためにも、必要なことだと思います。
かつて着物は何代にもわたって着られたり、リフォームされて、
最後はハギレになるまで使われました。自分で洗えたり縫えたりしましたからね。
でも今の時代は、自分で洗ったり縫ったりができませんから、
メンテや維持にお金がかかりますし、誰かが着る、というのもありませんし…。
しかも礼装には洋装が増えています。振袖なんてほんとに何回も着ませんよね。
だから、目的や状況によっては、ポリ振袖でも貸衣装でも、私はいいと思います。
そのときに、自分の着物ライフから考えて…だからこのライン…ということを
きちんと納得するチカラを持つことが、着物を知ることだと思うのです。
こうして考えて見ますと、今ってほんとに「着物」にとって、厳しいですね。
作る側も買う側も…ホクホクなのは、売れなくなった「実はいいもの」を
買い叩いて「バカ安」で売る、どっかの業者?
品物がピンキリで、どこでもあるように、そして買う側は
自分に合った「いいもの」が買えるように、そうなるためにも、
「底」の方から、守らなきゃと思うんですけどねぇ。
海外の右肩あがり大規模経営と1ヘクタールに家畜一頭とした
小規模経営と利益にそう大差がなく、輸入穀物の価格変動に
左右されないだけ経営が安定する…。のだそうです。
無理はどこかで無理の帳尻合わせが生じて、その無理をかくすために
無理をすれば、どんな物事でも根幹から倒れてしまう。
伝統産業もそうですね。生糸を生産するための蚕や飼料を育成する方がいなくなればそれでおしまい、生産量が希少になれば
価格は高騰するし、それで着物を作られても庶民には手が届かない。
これはこんな努力と工夫でできていますと
伝えてもらって、今は手が届かないものの、いつかはと思って準備した時にかわらずにちゃんとある事。
伝えてほしいと思うし、伝わらない限り、とんぼさんのおっしゃるように
昔はこんな柄がねぇ…なんてためいきをつく事もなくならない感じがします。
個人的な出来事です。以前紬の有名産地で、若い方に向けて染や柄を工夫した企画
の品物をすすめられ、いとも簡単に「分割でカードがある」と口にされてからうかがえなくなりました。
それほどの金額の品物では、気軽に着ることができませんから…。
見せて頂きました。
何を作っても売れなきゃ生活が立ち行かない
から残したい、守りたいと思っても廃業しな
ければならなくなるのですね。
何かを作るということは、始末の始末のそのまた始末…という作業のほうが実は多い…。その「見えない部分」をきちんと伝える時間と気持ちが今は乏しい…気がします。
「何になるともしれない」ことでも、続けていきたいと思う今日この頃です~~
いつも思うのですが、なんで「大きく」
したがるのでしょう。すぐ支店とか
フランチャイズとか…。
それで品質がつまらない「平均」になったり、
眼の届かないところで「偽装」があったり。
ほかを食いつぶすほど大きくなったら、
結局は自分も足元すくわれると
おもうんですけどね。
目先のこと、自分のこと、それしか見えない
今の時代はそんな気がします。
書類や品物なら、それを大事に残せますが、
技術ばっかりはねぇ、実際見ないと
伝えないと…なんですけどねぇ。
親戚も、もう20年位前に、
西陣でやっていた帯屋をやめてしまいました。
子供を学校にやれなくなるって…。
さみしいですよね。
ジミで、しんどくて、カタチになって見えない
そんなことの積み重ねがないと、
モノは生まれないのですよね。
実際にみえないからこそ、親は子供に
「農家の人たちは毎日苦労して…」って、
話だけでもしたものです。
スーパーのパックって、味気ないなぁと、
最近とみに思います。
おつうさんのところから参りました、きてぃ。と申します。
繭から糸を取るところから始めて、染め織りまでを勉強し、この夏は養蚕にもチャレンジしました。
絹と染織の文化、着物の文化をなくさないため、技術を伝えていくために細々と活動しております。
少し前から拝見しておりまして、勉強させていただいてます。
今日はまさに!それそれ、私が言いたかった事!!と思って思わずコメントしちゃいました。
どうぞよろしくお願いいたします。
情報化時代巧くつくろっても嘘はその内ばれてしまいます。
京友禅の証紙を機械捺染やインクジェットプリントに貼付けるのは嘘。
被害を受けるのは消費者と職人。
護られるべき伝統が置き去りにされているのは将来的には全国民にとっても大損な訳です。
友禅職人は一旦職を離れると戻ってくる事はありません。
全量日本の生糸を使った白生地も織られていますが、希少価値を題目に高過ぎます。
一時、日本の査定が厳しすぎるのを名目に中国が日本への生糸の輸出を止める騒ぎがありました。
そのまま、止まっていたら面白い事になっていたかも。
はじめまして。
ようこそおこしくださいました。
実際に蚕をさわり、糸をとり、機を織る…。
私、尊敬します、ほんとに。
糸つむぎだけは、昔イナカでみましたが、
あの「手間をかける」「手塩にかける」という
そのことの大切さ、いろんなところで
なくなってきています。
便利かどうか、ラクかどうかではなく、
「手」を使う、ということの楽しさまで、
消えてゆくのがさみしいです。
たいへんだからこそ、できがったものに
別の価値が織り込まれるのですよ。
機械もいいですが「選択」できなければ
どちらの長所も欠点もわからないのですよね。
どうか、お仕事がんばってください!
私たちには見えないところがあるのが…。
困るのですよねぇ、ウソがわからない。
ほんとに、昔の商売はなにより信用が大切で
たとえ相手が素人でも、素人だからこそ、
ゼッタイだまさない、という気概が
あったんじゃないかと思います。
価値観が根底からおかしくなって、
ゆがんでいます。
ほんと、中国から入らなくなったら、
そりゃたいへんでしょうが、
痛みをともないながらも、なにかしら
かわったかもしれませんね。