今日は、終戦記念日です。あの日も暑い日だったとか…。
セミも鳴いていたことでしょう。苦手な方もおいでと思いますので「シルエット」で…。
今年もまた、戦争について、書かせていただきます。
戦争はやめよう、平和を守ろう…、そういうキモチはあっても、私も「戦後生まれ」。
なかなか実感として「戦争」というものを感じることは難しいことです。
だからこそ、戦争関係の番組などは、見るようにしています。
いきなりの脱線ですが、着物の「戦争柄」というのは、
大きく分けて「特定の戦争、またはその逸話など」の柄と、特別こだわらずに「戦争にかかわる柄」があります。
前者は「羽裏や男物じゅばん」などに多く、後者は「子供のもの」に多く見られます。
もちろん「多い」というだけで、逆もまたありますが…。
先日入手の「戦艦大和」と題された着物です。「大和」そのものを忠実に写したものとは思えませんが、
雰囲気は出ていると思います。繰り回しで元は男の子の着物だったもの。
かなり着込まれたいて、もうヒケもひどく、これ以上の繰り回しは無理と思われます。
この着物については、後日また改めて書かせていただきます。
この着物のあとに、ある羽裏をみつけたことから軍事に詳しい友人におたずねして「戦艦」のお話し
そして日本の「軍」の黎明期について、いろいろお話を伺うことができました。
「三景艦」という名前のついた羽裏です。 高額だったためあきらめましたが。
「三景艦」というのは、名前のとおり、日本三景にちなんで名前をつけた「艦」の柄、
つまり大和と同じ「特定のもの」の柄です。当然「三艦」で、それぞれ「松島艦」「厳島艦」「橋立艦」。
名前だけは知っていましたが、作られた時期もどのような「艦」かも知りませんでした。
その図柄には、下のほうに「軍人・水兵」が、戦艦の窓らしきところから外を見たりしているのですが、
どう見ても「明治時代」の感じです。また上には「三景」があるのですが、景色の図柄で「艦」らしき物は見えません。
なにかいわれのある艦なのかと思って、それで詳しいかたにお尋ねしたのです。
お話しは、艦のことだけでなく、その前後の日本の「軍事」について、ずっとご説明いただきました。
興味深いお話ですが、とてものことに私のオツムでは、それを要領よくまとめて…などとはできません。
あくまでいろいろなお話を伺った上で、着物ブログを書く私としての着物柄からの戦争…ということで、
綴ってみたと思います。
日本という国は、よくもまぁ、どこにも征服されずにずっと今までこられたもの…。
たまたま「イースト・エンド」と呼ばれる地理的な位置と、鎖国と言う政策で、国を閉ざしてきましたから、
国の中を、おヨソの国の人たちが行ったり来たり…という陸続きの国のようなことにはならなかったし、
何度かお隣さんと危ういことになっても、そのままあちらの国に征圧されることはなかったわけです。
それは単なる「幸運」だったのだと思います。
しかし、いったん国を開けと迫られてみれば…自国の「遅れ」というものに愕然とする…。
また脱線ですが、着物の柄には多くの馬柄があります。中でも「競馬柄」はけっこうみつかります。
これは以前にも書いていますが、日本古来の馬の種は、もっと小さいです。
現在の「相馬野馬追い」は、かっこいいですが、実はあれのひとまわり小さいポニーちゃんだったのが現実。
日本は「陸の守り」、つまり陸軍を育成するにあたって、外国に軍人を呼んだり派遣したりして、
西洋馬術を学ばせました。このあたり「坂の上の雲」に詳しいですね。
で、いくら馬術を学んでも、乗るための馬がいなければならない。
そこでよい馬を産出し、集めるための方法として「公営競馬」の開催をしたわけです。
日本最初の公営競馬は、競馬のふるさと「イギリス」から、その開催方法など専門家を呼び寄せて開催されました。
詳しく書くとまた長くなりますから、そういうわけで、日本は外国に「急いで」そして「懸命」に学び、
鎧兜の「いくさ」から、軍人、兵隊の「国防」「戦争」が可能な国力をつけるために、必死になったわけです。
海軍の戦艦についても同じで、船といえば、ついちょっと前まで「千石船」で、風を頼りの荷船であったものが、
外国へ行けるほどの船ももたねばならん、大砲も積まにゃならん…
それで外国に発注して戦艦を持ったわけです。あの咸臨丸も戦艦ですね。
「大日本帝国の戦艦」を見ますと、もう幕末から大急ぎ…という感じです。
前出の「三景艦」は、日清戦争の直前に作られたものだそうです。
日本はこの日清戦争にも、そのあとの日露戦争にも勝利しました。
結果だけ見れば、三景艦はすばらしい軍艦…ということになったわけです。日進戦争は明治27年。
明治維新は、ある日突然起こったわけではありませんが、とにかく年代だけで言うと、
大政奉還が行われ、明治となって、たったの27年です。どれだけ「軍の力の確立」を急いだか…。
まぁ元々が明治維新そのものが、いつまでもこんなことしてたら、外国にのっとられちゃうよ…だったわけですが、
いずれにしても、ついこの前までちょんまげに裃だった人間が、軍服着て大砲撃って…に、
たった27年でなったわけです。
私は「軍隊」はイコール「戦争」のイメージが強いので、生理的に好きではありませんが、
持たねばならぬ…世界情勢からいけば、そういう時期もあったわけです。
それがあったればこそ、今の日本がある…。
なぁに、世界中が、みんないっせいに「バカバカしいから、軍も武器も核も、みーんな宇宙に吹っ飛ばして、
なかよくやってこー」ってやれば、それですむことなんですが…夢物語どころか、今の時代「ありえないこと」です。
政治や経済について、誰しもがプロではありません。
今のように、フクザツに絡み合った社会情勢、世界情勢の中では、一介の主婦などには想像もつかない、
たくさんの事情も歴史もあるわけです。「あれは必要なことだった」と言われることもあるのかもしれません。
でも思うのです。素人には、わかんないんだよ、といわれたって、そんなこたどうでもいい。
いやなのは「わけもなく自分や家族が殺されること」です。
戦争というのは「人の命をできるだけ奪うこと」が、価値、そして勝ちにつながります。
あの震災の日のニュースで、ものすごい濁流が、昨日まで、いえ、ついさっきまで、
いつもどおりに暮らしていた家や会社や学校を、あっという間に泥水の中に飲み込みました。
壊れて流されていく瓦礫を目前にしながら「あぁああぁぁぁぁ」としかいえない人たちの姿をたくさん見ました。
いつもどおりに笑顔で見送ったり、しゃべったりしていた家族や友人や知人が、
夕方には物言わぬ姿で戻ってきました。いえ、まだどこに眠っているのかもわからない方がいます。
アレは天災、地震も津波も止めようもありません。
でも、戦争は違います。人の手によるもの、です。人が、爆弾を落とし、銃を撃ち、家を焼き、人を殺すのです。
それも、戦うために訓練された人たちばかりでなく、今目の前にいる家族や、隣にいる普通の人たちをです。
「世の中に、殺したいほどの恨みや憎しみの理由は、はいて捨てるほどある。
だからといって殺していい、と言う理由は、ホコリのかけらほどもない」、そう思います。
戦争をやめる理由なんて、原爆をとめる理由なんて、たったひとつしかありません。
「命は等しく平等に大切にするべきものだから」です。
私の実の父親は、明治の終わりの生まれでした。みごとに「軍国少年」で、海軍にあこがれていました。
「大きくなったら兵隊さんになる」が「おぉこれぞ日本男児」とほめられた時代です。
父は幸か不幸か、病気のために軍人にはならず、別の形で海軍の仕事につきました。
でも、父は聡明な人でしたから「この戦争には勝てない」「戦争は実りのないものだ」と悟り、その場を離れました。
戦後いち早く「国の建て直しには何が役に立つか」と、考えて仕事を選びました。
戦争柄は勇壮です。にこにこ笑う子供が戦闘機に乗っていたりします。
大きな戦艦や、飛行機に向かって、国旗を振るかわいい子供たちの姿も多いです。
これがもてはやされたころは「おぉかわいいねぇ」「強そうだねぇ」
「大きくなったらりっぱな兵隊さんになってお国のためにがんばるんだよ」…なぁんて言われていたのでしょう。
今、他国の、まだ年端も行かぬ少年が、自分の背丈より大きい銃を持って、
「敵をやっつけるんだ!」と無邪気に笑う映像を見ると、教育ということの大切さと平和の必要性を思うのです。
昔のことを知らない、戦争の経験がない、だからわからない…それは確かにそうですが、
原発事故で、漬物用の糠一つ買おうとしても「無農薬米使用、放射能検査済み」…
なんて文字を見つけるようになりました。
戦争が起きれば、原爆が落ちれば…
毎日、そこにある命のすべてが脅かされる…それだけで「やめるべき」という答えの理由は、十分だと、
私は思うようになりました。
戦争柄の着物なんて、それがどんなにすばらしい染めや織でも、もう二度と作られないように。
それで私は「負の記録」として集めているのです。
戦争という、もっともおろかなことのためになくなられたすべての御霊に「合掌」。
していましたね。
気が付くのが遅くて、途中からでしたが観ていました。
人の命も家族の人生も変えてしまう戦争が2度と
起こらない様にと切に願います。
父は、茨城に疎開していたのですが、もどってみたら横浜は焼け野原…。
東京大空襲より多い爆弾が落とされたのだそうです。
それも父の住んでいたあたりは、横浜駅に近かったので、
爆撃もひどく、
「横浜にいたら、一家全員生きてないよ」と言ってました。
ほんとに、ずっと平和であってほしいですね。