「女と靴下」、もういまどきは言いませんが・・・。
写真は最近手に入れた「古い本」。
洋服本は、あまり関係ないと思っていたのですが、けっこう和服の話題もあり、
また洋服は洋服で、おもしろいものがたくさんみつかりました。
表紙は「高峰秀子さん」、昭和28年8月発行で、
「定価130円・地方売価135円」、当時は地域で価格が違ったんですね。
まぁウエストシェイプのふわっと広がったスカートなど
ファッションも興味深いのですが、ひとつおもしろい「企画ページ」を
みつけました。題して「靴下読本」、つまりストッキングのお話し。
「靴下の種類」「靴下の編地」「靴下の糸」など、項目ごとに
いろいろな情報が書かれていて、こういうのを選びなさいよ・・・と。
そのページが下の写真です。
「靴下の種類」・・なんだと思います?
今なら「ストッキング・ソックス・ハイソックス・五本指靴下・スポーツ用・・」
そんな風に思いませんか?ところが、この本で言うところの「靴下」とは
「ストッキング」そのもの、そして種類というのは「ゲージ、素材」のこと。
つまり「ストッキングの素材とゲージ」なんです。
私の年代のかた、「フルファッション」という言葉に聞き覚えはありませんか?
靴下のCMで「♪~~~フルファッション」というのがあったように思います。
ちょっとあとでは「♪アツギのタイツで ツッタカター ツッタカター・・」も
ありましたね。CMソングの女王「楠トシエさん」が歌ってました。
下の写真は「選び方」のところのアップ、デニール、ゲージまで書いて
これがいいですよ・・とオススメしてます。
ちょっとストッキングについて調べてみました。
昭和4年に、ドイツでシルク75デニールの靴下が編まれた。
これが「フルファッション」、つまり足の形そのままに編み上げ、
しかも縦に割った形で編んで、うしろを綴じた。シーム有りってやつですね。
これ、一度なくなったのに、また「足が細く見える」というので出てきましたね。
次が、ナイロンのフルファッションストッキング
昭和27年今にナイガイが作ったのだそうですが、元々1935年に
米国の化学会社デュポンが、世界で最初の合成繊維「ナイロン」を開発し
数年後には世界初の「ナイロンストッキング」を発表しました。
それまでの絹よりはるかに丈夫なため、人気を博したのだそうですが、
結局「戦争」でナイロンが軍事に使われる(パラシュートなど)ことになり、
まぁ「靴下なんぞにこんないいものを使ってる場合じゃないだろ」だった・・。
戦争が終わって、またナイロンストッキングの生産が始まり、
女性はやっと美しいストッキングを手にすることができるようになったわけです。
戦後、輸入もされていたようですが、高くて品質が悪い、
伝線直しという商売もあったんだそうです。なんか母から聞いた気がします。
平和になると産業が発達し、新しいものも考え出される、
それが「トリコット編地」で伝線しないけどやや厚手。
やがてシームレスがでてきて、このトリコットはなくなりました。
シームレスが出来たのは昭和36年ナイロン15~20デニール
ハイゲージの丸編みで、後ろの線が消えたわけですね。
当時の公務員の初任給が14,200円のこの時代に、
シームレスストッキングは一足500円、とありました。単純に考えて、
10倍して14,2000円の給料で、ストッキング一足5000円、高いわ!
そういえば、母はストッキングをそりゃあもう、大事に扱ってましたね。
ただし、ここまでのストッキングは、全部ガーターベルトや靴下止め使用、
つまり片足ずつ別々のもの。これが王座を下りることになったのは
1964年の「ミニ・スカート」の登場によるわけで、
ここから「パン・スト」全盛に向かっていったわけですね。
当時の価格的な感覚がつかみにくいので
同じ本にあった「浴衣の価格」ページを載せました。
木綿地一反、1200円、で、靴下は上の写真のだと650円とか350円。
今、木綿の浴衣地は、安いのでちょうど10倍の12000円くらい、
とすると靴下一足6500円とか3500円とか・・。
「靴下特集」もやりたくなりますわ・・・。
いまや3足980円とか、私なんかもうず~~~~と前から
「おばさん靴下」と呼ばれる「ひざ下丈」で、さらに安い・・・。
それもまた、めーったにはかないから、一足買うと3年くらいそのまま、
なんとまぁ、変わればかわるものです。
そういわれてみれば、高校のとき学校規定の「黒い靴下」は、私なんぞ
母の買ってくる「じょーぶ」なタイツみたいなの。透けて見えない・・。
オシャレな子は、透ける黒いストッキングでした。
靴下止めが右左で太さがちがって(要は伸びちゃったんだけど)
「片方だけしまって痛い」といったら、オシャレ軍団に
「アンタまだガードルとかガーターベルト使ってないの?」と笑われました。
母に言ったら、自分の古いのをくれたのですが、私は嫌いでしたねぇ。
だって足が短いから留め具をストッキングのずいぶん下にとめなきゃならなくて、
上で靴下がたまっちゃうんだもん。
パンストを初めて履いたのは、ミニが流行ったのが19くらいだったから、
やっぱりそのくらいでしょうね。
考えてみると、母が荒れた手で引っ掛けないように・・と手袋して
靴下履いていた時代から、わずか15年かそこいらでパンストになり、
パンストは、片方破れると、もう片方大丈夫でもはけなくなるから不経済だ・・
なんていってたのに、あっという間に「安いもの」になっちゃったんですね。
古い本の1ページから、学生時代のこと、ミニスカートのこと、
思い出して、懐かしみました。それにしてもあのころは足、ほそかったのに、
いつのまに「聖護院大根」のようになってしまったんだろーか・・。
本日のおまけ・・上の浴衣の写真の「ジルバ浴衣」だそーで、
白地に赤・黄・緑・黒で、男の子と女の子が、楽しげに
「ジルバ」を踊っている「新鮮」な柄なのだそーです。
ジルバのステップ・・・おぼえてるかな~?
近所のお店に「靴下お直し」の張り紙がしてあったような気がします。
母に聞いたら、伝線したストッキングを直してくれると言っていたので感心した記憶が・・・遠くの方で・・・
お店は手芸品店だったような・・・
皆???状態ですが、余りにも昔過ぎる。
考えてみれば半世紀も前の話だった。
パンストは同じ色を買って、片方が伝線したら腿のところで切って片方ずつ履くと良いと書いてあった本を読んで、そこまでするかと思ったけれど、昔は値段を考えれば無理が無い事だったのですね。
小学校の担任の女性教師が、絹の靴下をはいていたと言ってたことを思い出しました。
伝線するからいっぱい持ってたそうですが、
今思うと、ふだんから赤紫のスーツ、パーマをかけてセットした髪のひとでしたから、家も裕福だったのでしょうね。
あたりまえのように話されて、私たちは感心して聞いてましたっけ。
どうやって直したのか、直しのあとは「かけはぎ」のように「わからなく」なるのか、今度母に聞いてみよ!私、あのタイツというのを、母がまきかがりみたいにして直したのを履かされました。みんなそうだったから恥ずかしいという気はなかったのですが、足の裏なんかだと、その部分がゴロついていやだった記憶があります。
suzuka様
絹の靴下なんて、話しにゃ聞いてるけど・・ですね。どんなんだろう・・。私「絹のタビ」ってのは一足だけ持っているんですが、もったいなくてはけない・・。絹の靴下って、履くときも気をつかったんでしょうねぇ。
昔は、貴重だったストッキング、すっかり消耗品になってしまいましたね。
ストッキング売り場で見ると、色もサイズも形もお値段も、もうヤマほどですね。よりどりみどり、しかも「3足パック」とか「5足パック」とか・・。昔お貴族さま、今庶民・・って感じ・・。
「スタイル」面白いです。当時の風俗とか、日本が戦後必死で「西洋の暮らし」に追いつこうなじもうとしているのが、よく見えます。
小学生の頃木綿のタイツだと思うのですが・・・
乾きの悪い生地だったと記憶してますが
今の様に脱水機も乾燥機も無い頃何枚も
ある訳でもなく母が火鉢のところで乾かして
くれていたのを思い出しました。
生乾き状態で学校へ履いて行った事もありましたよ。
ソックスも木綿でした。ノビが悪くて乾きも悪くてすぐに穴があく・・。火鉢のふちのところに乗せたり、しまいにアイロンかけたりして・・。でも、身体には良かったんですよね。本当は・・。
ストッキングもさることながら、この時代母は着物の生活、思い切ってよそ行きにスーツを作りましたって、スーツというより男仕立て背広を女用にしたもの、革靴も底に鋲が一杯うってあるような男物の靴仕様、本人のサイズで
全部新品、絹の靴下をはいて、がっちりの靴、靴擦れなんてものじゃない、足は血まみれ、あわれ絹の靴下は~
洋服着るのも命がけ、
着物から洋服になるのも大変でした。おとなのよそ行きってなんと大変と思ったものです。
そんな格好してどこにいったかというと、魚津の蜃気楼を見に、出ませんでした。
母があまりにも大変だったので、今でも記憶にはっきりと残っています。
母は絹の靴下を持っていたのかどうか・・。娘の頃は履いたといっていましたが、もののない時代を生きた人ですから、今でも「もったいない」精神は健在です。