目慣れたものですみません。何度も出しております。
これは半天ではなく「綿入丈長ひっぱり」です。
このところ、昼間は晴れるとエプロンだけで玄関先に出ても、寒いとは感じませんが、
朝と夕方日が落ちてからは「寒いわ」と感じるようになりました。
早朝のゴミ捨ての時は、風が冷たく感じられます。
そろそろ…と思って出してきました。これは古着で買ったもの。着倒してます。
このハデなツギハギで外に出るものですから、出勤の人たちや、朝練らしい中学生など、
驚いたように見ています。
着用の後姿、だいぶ前にアップした写真です。
確かにこの後ろ姿のオバサンが、ゴミ袋さげてヒョコタラ歩いていたら…めだつわ…。
ほとんどが「お召し」、少し「ちりめん」です。ちりめんはしぼ大きめです。
この水玉の着物、きてみたかったですー。
表もツギハギですが、裏はもっとすごいです。黄色の線が、ぱっとわかる継ぎ。
柄がうまくあっているところもあれば、全く違う生地のところもあり、実に細かい手仕事です。
この半天は、家で洗えないので、しかたなくクリーニング依頼しています。
昔はこんなものでも、ちゃんと解いて(全部ではなく、袖、身頃と…)自分のところで洗って、
伸子張りして、また綿を入れ直して…と、手間をかけていたのでしょうね。
着物に係わると、とにかく「手間を惜しまないこと」ということが、たくさん出てきます。
半衿を付けたりとったり、それは面倒なことですが、着物を着るには当たり前のこと。
それを回避するための方法として「半衿だけ別につけられるようにしたもの」が考えられたり、
半衿つけるのに、糸と針ではなく、別の方法でつけることが考えられたり、
究極、半衿もいりません、難しい着付けもいりません…なんていうドレスみたいなものが考え出されたり…。
それは着物ではないと思っているので、私の中では進歩でも改革でもないと思っていますが。
いろいろな新しいもの、それはそれで「便利」ではありますし、私も新しいものは使いますけれど、
着物に限らず、今の暮らしって、手間を無くすことばかり考えています。
「手間」とは「それを済ませるのにかかる時間や労力」なんてことが辞典には書いてあります。
確かにそうなのですが、母は「手間ゆうのはな、手ぇの間と書くやろ。
手ぇの間に持ってシゴトしたら、見えるもんがある、いうことなんやで」と言いました。
手の間に持って、しっかり目で見て…それは相手を知ることでもあります。
運針もやらなきゃ慣れません。最初はザクザクでも、少しずつ細かく、まっすぐに、早く、
縫えるようになっていきます。
面倒、と思うことの多い昨今は、それだけ「早い、簡単、スイッチ押すだけ」が多くなっているということです。
「あんた蛍光灯やなぁ」というジョークはいまや通じません。
蛍光灯だねぇというのは、頭の回転が遅い、ということです。
昔の蛍光灯は、紐を引いてしばらく待っていないと点灯しなかったからです。
チカチカっとして、それから「せーのっパッ」という感じでした。
その後グロウランプが出てきて、すぐにつくようになりましたが、このグロウランプも、
長く使うと切れて、それを交換したものです。
今やそんな必要もなく、スイッチポンで、ぱっとつきます。しかもLEDなら、蛍光管の取り換えもナシ。
便利にはなりましたが、蛍光灯をじっくり見ることも、グロウライトをストックすることもなくなりました。
手間をかけることがなくなると、それに対しての思い入れも薄まります。
年末にお父さんが脚立や踏み台に載って、蛍光灯を新しいものに替えたり、
その蛍光灯の笠をおかあさんや子供が掃除したり、そんな思い出もなくなります。
「手」と「手」の間が広ければ、そこにいろんなものが見えるはず。
手間がなくなるということは、手の間がなくなるということで、じっくり見たり考えたり感じたりが
無くなってしまうということです。
指先を針でチクッとやって「いたっ」なんて言いながらでも、自分でつけてみてほしいです。
絹の手触り、ポリの手触り、針が通りやすい通りにくい、着つけて見たらゆがんでる、あらら。
どうするときれいに見えるようにつけられるか、どうやったらまっすぐ縫えるか、
どうすれば早くつけられるか…手と手の間に、その答えも知恵も謎も、
みんな挟まっているのと思うのです。
私だって、結局手間を省けるものもたくさん使っています。
はやくできたり、きれいにできたり、安全だったり、便利だったり…。
だからこそ、どれをどう使うか、は考えます。
手間をかけるということから、遠ざかってもいいもの、遠ざからないほうがいいもの、
それをチョイスする目を、養ってほしいものと思うのです。
最低でも、半衿つけのために針と糸を持つ覚悟、は、着物を楽しく着ていくためにも、
だいじなことだと、私は思っています。
この「綿入ひっぱり」、紐の縫い目がちとほつれてきました。今夜のうちに直しましょう。
私は家で洗えるでんちを毎年着ています。
もうよれよれなんですけど今年もやっぱり
着ています。
お気に入りはず~っと着ていたいですね。
母が健在の時は身内の綿入れを縫うのは母の仕事でしたが、年老いて針を持たなくなり3年前に亡くなる前からは私の仕事になりました。
もう数えきれないほど縫いましたが、縫う度に楽しくてわくわくします。
古い着物をいいとこ取りした継ぎ接ぎの綿入れ、すごくいいですね!
布が捨てられない性分なので、すぐにでも真似したくなりました。
ダウンなどとはまた違う暖かさですね。
おでんちも重宝です。袖がない分動きやすくて。
母が来ていたのが、丈が長かったと思うのですが、
あれを探そうと思いつつ…4年ですわぁ。
大事に着たいですね。
既製品の、化繊綿のものを、
むかーし着たのですが、バルーンみたいで…。
使い込んで、少しヘタってる方がぅあるので、
パズルしたいと思っています。
昔の人ってマメだなぁと思っています。
こちらこそ、ありがとうございます。
気が付けばいつも「そういえばおかぁちゃんは…」と
そんな日々です。
私もチクッどころかぶすっとやってますよぉ。
それでも針や糸を触ることって、
なんかいいんですよね。楽しみましょうね。
何か懐かしく ほのぼのとして・・・
わたくしは 年をとってからは 重たいものが着られなくなってしまい 困っていたら
姑が 倉庫の2階の 古いおばあちゃまの箪笥の中から
真綿の入った銘仙のねんねこ(主人が赤ちゃんのころ よそいきに使っていたらしい)(昭和24~25年ころ)を 出してきてくれました!
風呂上がりに着てみると さすが真綿 軽くて暖かくて 気持ちの良いこと!
味をしめて 真綿を買って さらに2枚ほど 着尺や羽尺の反物に長襦袢地の裏を付けて 仕立ててもらいました!
それにしても ねんねこのサイズが 今のわたくしめに ピッタリ!とは・・・・なんとも お恥ずかしい 話です!
まぁ今見ましたら、コメントがへんなところで
切れてましてすみません。
「少しヘタってる方が着易いですね。
私も古いハギレがたくさんあるので、
パズルしたいと思っています」です。
なんだか、おすところまちがえたみたいですみません。
絵になってますかー、うれしいです。
裏庭で「ふきのとう」を数えているところです。
真綿って、ほんとに軽いんですよね。
私も、重たいものはちょっと…になってきて、
母もおなじようなことを言っていたと、
思い出しています。
着物って、体に優しいんですね。
「ねんねこサイズ半天」、あははと笑いましたが、
いや待てよ…です。私もかも…ですって。
着物を着初めて6年程になります。
いつも出勤時の車中で読ませてもらっています。
今日のお話も、ほっこりと心が和みました。
以前は面倒だった半襟付け替えも、幸せの時間と思うようになりました。
お母様の言葉も「なるほど…」ですね。