
写真は全く関係ない画像ですみません、例の「ラピュタいも」です。
小さかったのにこんなに大きくなっちゃいました。
さて「原則として」ってのは、けっこう都合のいい言葉でして、
「ほんとはこうなんだけど、まぁ場合によっちゃさ…」というのができる…。
いえ別に何をごまかすということではないのです。
都合がいいといっても「ごまかすのにちょうどいい」のではなく、
許容範囲を広げる…という意味で、です。
いろいろバリエーションも広がるっていう意味ですね。
「そりゃわかったから、何のバリエーションよ」…はいはい、すみません。
つまり「着物」のことです。
昨日いただいたコメントで「なぜ『羅』には、華やかな柄がないか」という
お話がありました。「具象柄もないよね」というお話…。
私も、以前から「ひとつくらい羅の帯とかほしいものだわ」と思いつつ、
その数の少なさとお値段の高さに、手をかざして遠くから見てるだけぇ…。
実は「羅」というのは歴史は古いのですが、一度廃れてしまっているのですね。
これはたぶん「技術的に難しい」こと「手間がかかること」
そして、元々は貴族のものであったから、ということではないかと思っています。
これじゃあんまりぼや~んですから、ちっと手前の部分からお話してみましょう。
まず、服飾の歴史、というとなんか堅苦しいですが、
ともかく、そこにその「原則」とか「法則」というものがあるわけです。
つまり「学術的に分析すると…」というわけで、私にゃ難しいことはさーっぱり。
まぁ「そういうもんなんだー」という程度でのお話ということでご理解ください。
たくさんあるのですが、和服について言うならば
「漸変・形式昇格・表皮脱皮」この三つが「原則」といわれています。
なんか難しそうですが、いわれてみりゃ「あぁそーゆーこと」なんです。
まず「漸変」は「そーなっちゃえば慣れて気にならない」です。
最初見たときは「何これ」とか「おかしい」が、見慣れてくると気にならない。
これは洋服のファッションでは、すぐわかります。
私がハタチ前後に出てきたのが、ミニ・スカート、
最初に見たときは、度肝を抜かれ、なんかヘン…といってました。
でも結局私もあっという間にはきましたし(はいたんですよっ!)
ミニスカートなんて、いまや珍しくも無いですね。
これが「漸変」、つまり「現れて・受け入れられて・定着する」です。
次の「形式昇格」というのは、下のものが上にあがる…です。
たとえば、普段着にしていたものが、だんだん認められて、
きちんとしたものになり、やがては礼装になってゆく。
つまり、毎日の暮らしの中で、便利に着ていたものが
「こりゃいいね」と認められ、だんだんそれを普通に着るようになること。
狩衣なんてのはその典型で、読んで字のごとく元は「狩」のためのもの、
それが形を整えて、結局は貴族の「通勤服」になりました。
結局庶民の着ているものの方が実用的ってことですね。
そして「表皮脱皮」、なんかサナギから蝶へって感じですが、
要するに「だんだん簡素になっていく」です。
典型は「十二単の一番下が小袖になった」ですね。
元々十二単とう言い方は、いわば「いっぱい重ねて着る女房装束の俗称」で、
正式にはあの正装は「五衣唐衣裳(いつつぎぬ、からぎぬ、も)」といいます。
裳というのは、最後に腰の後ろにつけるもの、これ全部つけると正装です。
これをつけるときは、髪もかぐや姫ではなく「おすべらかし」に結います。
普段は全部くっつけるわけではありませんで、重ねて着るだけ。
それでも緋の袴をはき、たくさんの重ね着をしていました。
それがだんだん脱皮して…、結局一番下の小袖を残して、
袴もはかなくなり、一番上に「掻取(かいどり)」関西では「打掛」ですね、
あれを着るようになりました。鎌倉時代以降の武家の婦人たちの姿です。
ねねさんや淀君アタリがそうですね。掻取が「五衣」のかわりをしたわけです。
表皮脱皮は近代でもあります。昭和の初期くらいまで、
花嫁さんは三枚、五枚と重ねた振袖を着ました。留袖も下に白い着物を
重ねて着ました。これは、実は十二単の「主旨」の名残。
つまり、重ねて着ることはステイタスであり、更に盛装としては重ねることで
格式を高く保ち、礼を尽くすことになるわけです。
帯はもちろん金銀豪華な「丸帯」、それも織らずにまんま締める形です。
これが時代とともに帯は「袋帯」になり、重ねるのも留袖は
実際重ねるのではなく「らしく」見える「比翼仕立て」というものになりました。
振袖は、重ねて着ないかわりに「伊達衿」というものをつけるように
なったわけです。つまり、比翼も伊達衿も「元をたどっていくと、
十二単のしきたりにたどりつく」というわけです。
だから私は「ただの普段着チャキチャキのゆかたで伊達衿」というのは、
ミョーチキリンでおかしいなぁと思うわけです。
ただの「かわいいニューファッション」で片付けては、
もったいないようなそういうことではないかと思うのですよ。
話がそれましたが新しいものが、最初は「えぇっ、うっそぉ」と迎えられ、
やがてそれに慣れてしまい、それがだんだん下から上に広がり
(今は身分差はありませんけれど、礼装が簡略化されていくのは形式昇格ですね)
形は簡素化されてゆく…着物はそういう歴史の積み重ねで
今にいたるものなんですね。
さて、これでやっと「羅」の話に戻ります。
羅は紗や絽といった薄物のなかでは、伝わってきたのは早いのだそうですが、
それよりもあとからの紗や絽のほうが重宝された…らしいのです。
これは上でも書きましたが、たぶん作るのがたいへんということも
あったと思います。元々はそういういいものは「貴族や身分の高いもの」
だけのものですから、つまりは「装束」として夏物のなかで
作られ使われたわけです。
宮中というところは、身分制度やしきたりを強く重んじるところですから、
それぞれの身分によって、使われる色柄や季節によっての素材なども、
きまりごとがたくさんありました。それが「原則」で、
以前「風俗博物館」のところで「一日晴れ」というお話をしましたが、
その日だけは、裏にすきなものを使っていい…で、規則をたがえて、
いろいろな布を使い、お洒落みやびを競ったわけです。
そんな中で、羅というのも夏の衣装として織られたのでしょうが、
先日の「絽」のところで「普通の機ではなく捩機を使う」と書きました。
この「羅」は、その捩機でも織れず「うすはた」と呼ばれる機を
使うのだそうです。私は機織の機械そのものについては、
回数みたことがありませんで、機の違いも説明されないとよくわかりません。
それでこの「うすはた」というものがどんなものなのか、わからないのですが、
「羅」の織り目を見ますと、経糸を何度もわけたり隣とあわせたり、
それのあいまに模様を入れるなど、たいへん複雑です。
織り目から見ただけでも、これは作るのも面倒だろうし、その特別の機を
操ることのできる人も限られるだろうと想像しました。
つまり、あまりにも手がかかるのと、季節的に装束としては夏しかありませんし、
いまのように、庶民が帯にしたいだの、コートがいいだのという需要は
なかったわけです。そうなると、廃れていくのはムリのないことだと思います。
羅は最終的には、冠として使われたそうですが、結局は廃れて
それもなくなって、紗が代用されたと…ほら、お雛様の冠のあの黒いヤツです。
これもひとつの「簡素化」ではなかったかと思います。
この「羅」の復元については、有職文様の復元の第一人者喜多川平朗氏が、
力を尽くされたのだそうです。元々が有職文様を扱うおうちの方ですが、
平安時代の有職文様を、正倉院に残るハギレから復元した方です。
昭和30年代のお話で、今は息子さんがついでおられます。
復元で人間国宝となったのですが、更に「羅」を復元したことでも
再び「人間国宝」となられたそうで。すごいですよね。
私たちは元は貴族しか使えなかった有職文様そのものは、
今や、自由に使っています。でも「羅」というのは、とちゅうで途切れた分、
まだまだこれからなのだと思います。
江戸小紋は、角通しや鮫など、武家からでたものですが、庶民がまねをして、
「外食(料亭など)するときは大根や大根おろし柄の江戸小紋を着てゆく」、
なぜなら大根は、薬にもなるから何を食べても『あたらない』から…。
羅は、ここまで洒脱になる「時間」を過ごしていないのだと思います。
羅は大きな織り目ですから、なかなか細かい柄はムリですが、
それでも有職文様として使われたものの中には、大柄や細かい細工があります。
そういう技術が、まだまだ「再出発」して間がないのですね、きっと。
芭蕉布などが、数が少なく高いのは、材料が少ない、高価すぎるため、
と思いますが、羅については、まだまだ数が出せないのだと思います。
もちろん私の言うのは「本物」のことです。
何百年も眠っていた技術が復元され、たとえ機械織りであっても、
いろいろ織れるようになったのですから、コレからが楽しみ…ですね。
原則・法則の流れで、いろいろなものが現れ、使われ、淘汰され、
そうやって今の着物があるわけですが、らはそれから少し外れてしまったもの、
ということではないかなと思っています。
なんか結論がでたよーな出ないよーな、あいまいな記事になってしまいました。
まぁとんぼのブログは「原則として」お勉強ブログじゃないってことで!?
気楽ーにそーなんだぁへぇぇ…と楽しんでいただければと思います。
なんたってアータ、書いてる本人がいっちばん
「原則」からとっぱずれてるんですから。
なんだか雷さんがゴロゴロ言い始めました、今日はほんとに降り始めてます。
コメントのお返しは後ほど書きます。大急ぎでアップ!
「ねっこ」の写真です。
「飛行石」がみえなくなっちゃいました。

小さかったのにこんなに大きくなっちゃいました。
さて「原則として」ってのは、けっこう都合のいい言葉でして、
「ほんとはこうなんだけど、まぁ場合によっちゃさ…」というのができる…。
いえ別に何をごまかすということではないのです。
都合がいいといっても「ごまかすのにちょうどいい」のではなく、
許容範囲を広げる…という意味で、です。
いろいろバリエーションも広がるっていう意味ですね。
「そりゃわかったから、何のバリエーションよ」…はいはい、すみません。
つまり「着物」のことです。
昨日いただいたコメントで「なぜ『羅』には、華やかな柄がないか」という
お話がありました。「具象柄もないよね」というお話…。
私も、以前から「ひとつくらい羅の帯とかほしいものだわ」と思いつつ、
その数の少なさとお値段の高さに、手をかざして遠くから見てるだけぇ…。
実は「羅」というのは歴史は古いのですが、一度廃れてしまっているのですね。
これはたぶん「技術的に難しい」こと「手間がかかること」
そして、元々は貴族のものであったから、ということではないかと思っています。
これじゃあんまりぼや~んですから、ちっと手前の部分からお話してみましょう。
まず、服飾の歴史、というとなんか堅苦しいですが、
ともかく、そこにその「原則」とか「法則」というものがあるわけです。
つまり「学術的に分析すると…」というわけで、私にゃ難しいことはさーっぱり。
まぁ「そういうもんなんだー」という程度でのお話ということでご理解ください。
たくさんあるのですが、和服について言うならば
「漸変・形式昇格・表皮脱皮」この三つが「原則」といわれています。
なんか難しそうですが、いわれてみりゃ「あぁそーゆーこと」なんです。
まず「漸変」は「そーなっちゃえば慣れて気にならない」です。
最初見たときは「何これ」とか「おかしい」が、見慣れてくると気にならない。
これは洋服のファッションでは、すぐわかります。
私がハタチ前後に出てきたのが、ミニ・スカート、
最初に見たときは、度肝を抜かれ、なんかヘン…といってました。
でも結局私もあっという間にはきましたし(はいたんですよっ!)
ミニスカートなんて、いまや珍しくも無いですね。
これが「漸変」、つまり「現れて・受け入れられて・定着する」です。
次の「形式昇格」というのは、下のものが上にあがる…です。
たとえば、普段着にしていたものが、だんだん認められて、
きちんとしたものになり、やがては礼装になってゆく。
つまり、毎日の暮らしの中で、便利に着ていたものが
「こりゃいいね」と認められ、だんだんそれを普通に着るようになること。
狩衣なんてのはその典型で、読んで字のごとく元は「狩」のためのもの、
それが形を整えて、結局は貴族の「通勤服」になりました。
結局庶民の着ているものの方が実用的ってことですね。
そして「表皮脱皮」、なんかサナギから蝶へって感じですが、
要するに「だんだん簡素になっていく」です。
典型は「十二単の一番下が小袖になった」ですね。
元々十二単とう言い方は、いわば「いっぱい重ねて着る女房装束の俗称」で、
正式にはあの正装は「五衣唐衣裳(いつつぎぬ、からぎぬ、も)」といいます。
裳というのは、最後に腰の後ろにつけるもの、これ全部つけると正装です。
これをつけるときは、髪もかぐや姫ではなく「おすべらかし」に結います。
普段は全部くっつけるわけではありませんで、重ねて着るだけ。
それでも緋の袴をはき、たくさんの重ね着をしていました。
それがだんだん脱皮して…、結局一番下の小袖を残して、
袴もはかなくなり、一番上に「掻取(かいどり)」関西では「打掛」ですね、
あれを着るようになりました。鎌倉時代以降の武家の婦人たちの姿です。
ねねさんや淀君アタリがそうですね。掻取が「五衣」のかわりをしたわけです。
表皮脱皮は近代でもあります。昭和の初期くらいまで、
花嫁さんは三枚、五枚と重ねた振袖を着ました。留袖も下に白い着物を
重ねて着ました。これは、実は十二単の「主旨」の名残。
つまり、重ねて着ることはステイタスであり、更に盛装としては重ねることで
格式を高く保ち、礼を尽くすことになるわけです。
帯はもちろん金銀豪華な「丸帯」、それも織らずにまんま締める形です。
これが時代とともに帯は「袋帯」になり、重ねるのも留袖は
実際重ねるのではなく「らしく」見える「比翼仕立て」というものになりました。
振袖は、重ねて着ないかわりに「伊達衿」というものをつけるように
なったわけです。つまり、比翼も伊達衿も「元をたどっていくと、
十二単のしきたりにたどりつく」というわけです。
だから私は「ただの普段着チャキチャキのゆかたで伊達衿」というのは、
ミョーチキリンでおかしいなぁと思うわけです。
ただの「かわいいニューファッション」で片付けては、
もったいないようなそういうことではないかと思うのですよ。
話がそれましたが新しいものが、最初は「えぇっ、うっそぉ」と迎えられ、
やがてそれに慣れてしまい、それがだんだん下から上に広がり
(今は身分差はありませんけれど、礼装が簡略化されていくのは形式昇格ですね)
形は簡素化されてゆく…着物はそういう歴史の積み重ねで
今にいたるものなんですね。
さて、これでやっと「羅」の話に戻ります。
羅は紗や絽といった薄物のなかでは、伝わってきたのは早いのだそうですが、
それよりもあとからの紗や絽のほうが重宝された…らしいのです。
これは上でも書きましたが、たぶん作るのがたいへんということも
あったと思います。元々はそういういいものは「貴族や身分の高いもの」
だけのものですから、つまりは「装束」として夏物のなかで
作られ使われたわけです。
宮中というところは、身分制度やしきたりを強く重んじるところですから、
それぞれの身分によって、使われる色柄や季節によっての素材なども、
きまりごとがたくさんありました。それが「原則」で、
以前「風俗博物館」のところで「一日晴れ」というお話をしましたが、
その日だけは、裏にすきなものを使っていい…で、規則をたがえて、
いろいろな布を使い、お洒落みやびを競ったわけです。
そんな中で、羅というのも夏の衣装として織られたのでしょうが、
先日の「絽」のところで「普通の機ではなく捩機を使う」と書きました。
この「羅」は、その捩機でも織れず「うすはた」と呼ばれる機を
使うのだそうです。私は機織の機械そのものについては、
回数みたことがありませんで、機の違いも説明されないとよくわかりません。
それでこの「うすはた」というものがどんなものなのか、わからないのですが、
「羅」の織り目を見ますと、経糸を何度もわけたり隣とあわせたり、
それのあいまに模様を入れるなど、たいへん複雑です。
織り目から見ただけでも、これは作るのも面倒だろうし、その特別の機を
操ることのできる人も限られるだろうと想像しました。
つまり、あまりにも手がかかるのと、季節的に装束としては夏しかありませんし、
いまのように、庶民が帯にしたいだの、コートがいいだのという需要は
なかったわけです。そうなると、廃れていくのはムリのないことだと思います。
羅は最終的には、冠として使われたそうですが、結局は廃れて
それもなくなって、紗が代用されたと…ほら、お雛様の冠のあの黒いヤツです。
これもひとつの「簡素化」ではなかったかと思います。
この「羅」の復元については、有職文様の復元の第一人者喜多川平朗氏が、
力を尽くされたのだそうです。元々が有職文様を扱うおうちの方ですが、
平安時代の有職文様を、正倉院に残るハギレから復元した方です。
昭和30年代のお話で、今は息子さんがついでおられます。
復元で人間国宝となったのですが、更に「羅」を復元したことでも
再び「人間国宝」となられたそうで。すごいですよね。
私たちは元は貴族しか使えなかった有職文様そのものは、
今や、自由に使っています。でも「羅」というのは、とちゅうで途切れた分、
まだまだこれからなのだと思います。
江戸小紋は、角通しや鮫など、武家からでたものですが、庶民がまねをして、
「外食(料亭など)するときは大根や大根おろし柄の江戸小紋を着てゆく」、
なぜなら大根は、薬にもなるから何を食べても『あたらない』から…。
羅は、ここまで洒脱になる「時間」を過ごしていないのだと思います。
羅は大きな織り目ですから、なかなか細かい柄はムリですが、
それでも有職文様として使われたものの中には、大柄や細かい細工があります。
そういう技術が、まだまだ「再出発」して間がないのですね、きっと。
芭蕉布などが、数が少なく高いのは、材料が少ない、高価すぎるため、
と思いますが、羅については、まだまだ数が出せないのだと思います。
もちろん私の言うのは「本物」のことです。
何百年も眠っていた技術が復元され、たとえ機械織りであっても、
いろいろ織れるようになったのですから、コレからが楽しみ…ですね。
原則・法則の流れで、いろいろなものが現れ、使われ、淘汰され、
そうやって今の着物があるわけですが、らはそれから少し外れてしまったもの、
ということではないかなと思っています。
なんか結論がでたよーな出ないよーな、あいまいな記事になってしまいました。
まぁとんぼのブログは「原則として」お勉強ブログじゃないってことで!?
気楽ーにそーなんだぁへぇぇ…と楽しんでいただければと思います。
なんたってアータ、書いてる本人がいっちばん
「原則」からとっぱずれてるんですから。
なんだか雷さんがゴロゴロ言い始めました、今日はほんとに降り始めてます。
コメントのお返しは後ほど書きます。大急ぎでアップ!
「ねっこ」の写真です。
「飛行石」がみえなくなっちゃいました。

ほんとに申し訳ないのですが、
私、夏物すごく弱いのです。
知ってる限りのことを、
今日の記事にいたしました。
今、粗紗が羅として売られているというのは、
私としては、やっぱりん代だなと
思っています。買うがわの知識が、
追いついていませんから。
だますつもりがないのに、結果的にそうなる
なんてことのないようにと思っています。
陽花様
高台でもできるのかもしれません。
ちと言葉が足りていないのですが、
捩機でないもので、手間かけて織っている方も
いらっしゃるようなんですよ。
羅の場合は「筬」を使う機では織れない、
というのが私の知識ですが…、
アタマのなかでかんがえているだけで、
あやしいですー。
こんなんで記事かいてていいんでしょうか。
りら様
少しでも「ああそうなの」と
思っていただけるところがあったら、
とても嬉しいです。
知る楽しみって、つっかかったり
訂正したりばっかりですが、
とてもいいものだと思っているんです。
こちらこそ、今後ともよろしくお願いします。
(こういう粗忽者です。)
ブックマークに加えていただいて、光栄です。
ありがとうございました。
今回もまた、頭の中のモヤモヤがすっきりしました。
済みません!「お勉強」などと無粋な表現してしまいました~。
でも、やっぱり私には「学ぶ」部分がいっぱいです。
謎が解ける、不安定な知識が安定する、これはもう、本当に楽しいことだと実感しています。
(あ、なんだか頑固に言い張るような具合になってしまって済みません!)
聞いたと思うのですが、記憶が定かじゃないので間違えていたらごめんなさい。
さつまいもの根のはり具合透明でよく見えて
いいですね~
またまた登場してしまいました。
いつも本当に楽しく拝見しています。
羅について調べていくと、
当然、本物の羅、近年になって復活した本羅が
取り上げられることが多いですね。
装束に使われた格の高い生地ですから
セミフォーマルの袋帯なんかも見かけます。
でも、羅は普段使いとされることも多くないですか。
本羅とは別に、もう一つ通称の羅、
目の粗い紗の別名としての羅がありますよね。
斜めの組織になっていないけれど、
目が粗いので網のように見える粗紗。
お値段も格段に違いますし、
本羅と違って、普段使いしかできない。
かく言う私も、母に羅の帯をあげると言われて
ぬか喜びをした一人です。
実際には涼しくて便利な帯なんですが、
同じ呼び方をされるのは混乱の元ですよね。
これ、薄くて透けている織の生地が一緒くたに
通称で紗と呼ばれるのと似ていませんか。
最近は紗より絽のほうが格が高いとか、
染の絽は礼装になるが紗は織なので普段着とか
書いてあるのを見ることがあって混乱します。
染め下地には絽のほうが便利で、
紗の染めの訪問着など最近は少ないですが、
装束に使われるのは絽ではなく紗ですよね。
このあたりのことも
とんぼさんに解説していただけないかなあ。
きちんと整理してくださるとうれしいです。
紗紬というのはからみ織の紗なんでしょうか。