先日の京都行きで、「染工房 遊様」にこれの修正をお願いしてきました。
それがもう戻ってきたんです、はやっ!!
「楠正行(まさつら)四条畷の戦い」の図です。
ドコが変わったかと言いますと…元の方が小さい写真しかなくて…。
入手の時の状態と並べてみますと…小さい上に色まで違っててすみません。
左が修正前、右があとです。「矢」がはっきりしました。
矢の「軸」の部分、何か名前があるだろうと思って調べましたら
専門用語では「篦(の)」というのだそうです。
この「篦(の)」の部分が色が褪せて、地色の濃い色に沈んでしまい、
離れると矢羽しか見えなかったのです。羽だけが飛んでたり転がっていたりで
なんか見た目がおかしいし、残念で…。
それがこんなにきれいに直していただいて…遊様、ありがとうございました!
もうかなり生地の傷みがひどいので、熱をかけたりあれこれはできない…とのことで、
「描き入れて」いただきました。
できあがったものを見て「なるほど」です。
迫力が違いますね。飛んでくる矢をよけながら突き進む「動き」がよく見えます。
ある意味、画竜点睛…ですよね。
矢の部分のアップ、ちょっときれいに撮れてなくてすみません。
「篦」は金色ですが、ただベタッとした金色ではなく、
上品な渋みがあり、角度によって金が沈みます。フシギです。
実は「篦」だけ新しく描きたしたら、どうしてもそこだけ新しさがでるだろう…と、
それは最初から思っていたのです。
ところが、なんとまぁ自然なこと…「矢」としての立体感もある上、
目立たず、それでいてちゃんと「矢」として存在している…。
まるで元からの絵のようです。
日本の職人さんの腕というものは、こういうものかと、改めて感嘆しました。
矢じりも写真では小さくて見づらいのですが、ちゃんと金で描いてくださいました。
なんて細かい…。おかげさまでちゃんと「矢」になりました!
お披露目のアップ画像です。臨場感ありますねぇ。
画像上でクリックすると、もう少し大きいのが見られます。
この修正で、左の太ももに矢がささっていたのもハッキリしました。
痛々しいですね。
何よりもこのお顔、がすばらしいと、ヒトメボレしたのですが、
兜の緒が切れ、腕には傷を負い、刀は刃こぼれしています。
助かろうとか生き延びようとかの思いを捨てた決意の顔です。
(矢印のところが刃こぼれ)
この羽裏をご紹介したのは、最初のころなので、もう一度ご説明をば…。
「楠正行」は楠正成の嫡男、いわゆる「南北朝」の争いで、父親の正成がなくなり、
結局、父の跡を継いで足利勢と戦い、高師直(こうのもろなお)に敗れて自害しました。
まだ23歳だったとか(年齢については諸説アリです)。
お仕えしていた後村上天皇からの「賜嫁(相手は弁内侍・べんのないし)」のお話し、
つまり「弁内侍ちゃんをお嫁にやるよ」のお話しがあったのですが、
自分は早晩、戦で命を落とす運命…と覚悟していたために、お断りしています。
そのときの歌が
「とても世に 永らうべくもあらう身の 仮のちぎりを いかで結ばん」。
この羽裏には、そのあと戦死を覚悟しての辞世が描いてあります。
出陣前に吉野の如意輪寺に赴き、その扉に矢じりで辞世を書き残し、
自分の遺髪を残していったそうです。辞世は
「かえらじと かねて思えば梓弓 なき数にいる 名をぞ留むる」
「篦(の)」を描き入れていただいて、彼の覚悟も鮮やかによみがえった気がします。
清廉潔白で、礼儀を重んじるヒトであったそうです。
楠家は、この戦いで正行と弟が最後に自刃しましたので、
結局三男の「正義」が継ぎましたが、このヒトあまり評判がよくありません。
言ってみれば「先を読むのがうまい」人で、都合であっちについたりこっちについたり
みたいなことをしていまして「武士(もののふ)」という意味ではペケだったのでしょう。
でも、そのおかけで楠家は存続したわけですから…ねぇ。
楠家の子孫で有名なのは「一休さん」などという説がありますが、
こりゃマユツバものではないかと思っています。
ホンモノといわれる子孫で有名なのは「甲斐庄楠音」、日本画の鬼才といわれたヒトですね。
私も、初期のころの「横櫛」や「如月太夫」はけっこう好きなんですが、
だんだん油絵に傾倒してグラマラスな舞妓さんなんて絵になってからの絵は…
ちと逃げ腰です。ありえない美しさ?の日本画美人がが好きなもんで…。
彼は溝口健二監督の元で時代考証の仕事をしていたことでも有名です。
さて、この羽裏ですが部分的に擦り切れやヒケがあり、触ると切れるところまで…。
このままでは使えません。最初はなんとか裏打ちしてでも、
自分の羽織につけたいと思っていたのですが、
こうして広げると、このまま額に入れるとか、屏風とか衝立にするとかして、
眺めて楽しむものにしたいと思うようになりました。
たぶん100年くらいはたっているモノと思いますから、
もう着物にかかわるものとして使わなくてもいいかな…と。
とりあえず「額」をひとつ買うことにしました。
あっ額で思い出しましたが、以前の「ツェッペリン柄羽裏」、
ただいま枕屏風製作中です。蝶番がつけづらくて…苦心しています。
いずれまたお披露目しますので…。
今日は「まさつらさま」のお顔を見ながら、お茶をいただくこととします。
ん~~シアワセ…。
それがもう戻ってきたんです、はやっ!!
「楠正行(まさつら)四条畷の戦い」の図です。
ドコが変わったかと言いますと…元の方が小さい写真しかなくて…。
入手の時の状態と並べてみますと…小さい上に色まで違っててすみません。
左が修正前、右があとです。「矢」がはっきりしました。
矢の「軸」の部分、何か名前があるだろうと思って調べましたら
専門用語では「篦(の)」というのだそうです。
この「篦(の)」の部分が色が褪せて、地色の濃い色に沈んでしまい、
離れると矢羽しか見えなかったのです。羽だけが飛んでたり転がっていたりで
なんか見た目がおかしいし、残念で…。
それがこんなにきれいに直していただいて…遊様、ありがとうございました!
もうかなり生地の傷みがひどいので、熱をかけたりあれこれはできない…とのことで、
「描き入れて」いただきました。
できあがったものを見て「なるほど」です。
迫力が違いますね。飛んでくる矢をよけながら突き進む「動き」がよく見えます。
ある意味、画竜点睛…ですよね。
矢の部分のアップ、ちょっときれいに撮れてなくてすみません。
「篦」は金色ですが、ただベタッとした金色ではなく、
上品な渋みがあり、角度によって金が沈みます。フシギです。
実は「篦」だけ新しく描きたしたら、どうしてもそこだけ新しさがでるだろう…と、
それは最初から思っていたのです。
ところが、なんとまぁ自然なこと…「矢」としての立体感もある上、
目立たず、それでいてちゃんと「矢」として存在している…。
まるで元からの絵のようです。
日本の職人さんの腕というものは、こういうものかと、改めて感嘆しました。
矢じりも写真では小さくて見づらいのですが、ちゃんと金で描いてくださいました。
なんて細かい…。おかげさまでちゃんと「矢」になりました!
お披露目のアップ画像です。臨場感ありますねぇ。
画像上でクリックすると、もう少し大きいのが見られます。
この修正で、左の太ももに矢がささっていたのもハッキリしました。
痛々しいですね。
何よりもこのお顔、がすばらしいと、ヒトメボレしたのですが、
兜の緒が切れ、腕には傷を負い、刀は刃こぼれしています。
助かろうとか生き延びようとかの思いを捨てた決意の顔です。
(矢印のところが刃こぼれ)
この羽裏をご紹介したのは、最初のころなので、もう一度ご説明をば…。
「楠正行」は楠正成の嫡男、いわゆる「南北朝」の争いで、父親の正成がなくなり、
結局、父の跡を継いで足利勢と戦い、高師直(こうのもろなお)に敗れて自害しました。
まだ23歳だったとか(年齢については諸説アリです)。
お仕えしていた後村上天皇からの「賜嫁(相手は弁内侍・べんのないし)」のお話し、
つまり「弁内侍ちゃんをお嫁にやるよ」のお話しがあったのですが、
自分は早晩、戦で命を落とす運命…と覚悟していたために、お断りしています。
そのときの歌が
「とても世に 永らうべくもあらう身の 仮のちぎりを いかで結ばん」。
この羽裏には、そのあと戦死を覚悟しての辞世が描いてあります。
出陣前に吉野の如意輪寺に赴き、その扉に矢じりで辞世を書き残し、
自分の遺髪を残していったそうです。辞世は
「かえらじと かねて思えば梓弓 なき数にいる 名をぞ留むる」
「篦(の)」を描き入れていただいて、彼の覚悟も鮮やかによみがえった気がします。
清廉潔白で、礼儀を重んじるヒトであったそうです。
楠家は、この戦いで正行と弟が最後に自刃しましたので、
結局三男の「正義」が継ぎましたが、このヒトあまり評判がよくありません。
言ってみれば「先を読むのがうまい」人で、都合であっちについたりこっちについたり
みたいなことをしていまして「武士(もののふ)」という意味ではペケだったのでしょう。
でも、そのおかけで楠家は存続したわけですから…ねぇ。
楠家の子孫で有名なのは「一休さん」などという説がありますが、
こりゃマユツバものではないかと思っています。
ホンモノといわれる子孫で有名なのは「甲斐庄楠音」、日本画の鬼才といわれたヒトですね。
私も、初期のころの「横櫛」や「如月太夫」はけっこう好きなんですが、
だんだん油絵に傾倒してグラマラスな舞妓さんなんて絵になってからの絵は…
ちと逃げ腰です。ありえない美しさ?の日本画美人がが好きなもんで…。
彼は溝口健二監督の元で時代考証の仕事をしていたことでも有名です。
さて、この羽裏ですが部分的に擦り切れやヒケがあり、触ると切れるところまで…。
このままでは使えません。最初はなんとか裏打ちしてでも、
自分の羽織につけたいと思っていたのですが、
こうして広げると、このまま額に入れるとか、屏風とか衝立にするとかして、
眺めて楽しむものにしたいと思うようになりました。
たぶん100年くらいはたっているモノと思いますから、
もう着物にかかわるものとして使わなくてもいいかな…と。
とりあえず「額」をひとつ買うことにしました。
あっ額で思い出しましたが、以前の「ツェッペリン柄羽裏」、
ただいま枕屏風製作中です。蝶番がつけづらくて…苦心しています。
いずれまたお披露目しますので…。
今日は「まさつらさま」のお顔を見ながら、お茶をいただくこととします。
ん~~シアワセ…。
覚悟を決めた美男子の表情は確かにグッとせまる何かがありますね。
それにしても、花や景色の美しさを表現したものではなく、戦の血まみれの一歩手前のような
状況でストーリー性もあって・・・書物とか絵とかならあって当然だけどこれを羽織の裏にしちゃうっていうセンスは日本人独特なんでしょうか?血なまぐさい戦いでさえも美化してるんでしょうか?
額にいれてこれ以上劣化しないように大事に保存して後世に伝え残すべきもののように思いました。文化財ですよ、文化財。
矢がハッキリした事でいっそう迫力に
見えますね。
目立たず自然に・・・職人技ですね。
見れば見るほどいいお顔です。
惚れ惚れ。
こうした素晴らしいものに出会うと本当に幸せを感じますよね~~
しかし直して保存するということもできるのですねーーー勉強になりました。
こんなに良くなるものとは!!!!
こちらのサイトにお邪魔するようになって古布の利用に仕方を本当に教えられました。
感謝です。
こういうものを拝見すると、昔の着物の物凄さを再確認しますねぇ。
次に続く言葉は例によって例のごとく・・なんで今は・・・・・ハァ・・・・
友禅染め以前にはなかったでしょうし、洋服のテキスタイルでも考えられないですし。
すてきですねぇ。いいものを見せていただきました。ありがとうございます。
おかげさまでいい絵に戻りました。
羽裏というものは、一種のキャンバスなのだと思います。
「戦」や「流血の闘争」は、羽裏では
珍しくありません。赤穂浪士柄なんて
その最たるものだと思います。
「絵」としてとらえるのでしょうね。
だいたい着物柄は「なんでもアリ」ですよ。
骸骨や妖怪、幽霊の類まで…。
これはこのままの状態で保管したいと思います。
陽にもあてないようにしなきゃ!
おかげさまで…あんなにボケボケだったのが
こんなにはっきりしました。
さすがですねぇ。
毎日広げちゃ眺めています。
日本の色柄、技術はすばらしいですね。
私もとてもシアワセな気持ちになります。
歴史的に意義や価値のあるものなどは、
できるだけ手を加えずそのままとっておくのも
ひとつの方法と思いますが、
この絵はよみがえらせてあげたかったのです。
もうこういう柄はありませんからねぇ。
ブログで何かお役に立つ情報があれば幸いです。
今後ともよろしくお願いします。
名もなき職人のワザモノ、
その人の名前は残らなくても、
こうして作品は残っていくんですね。
今の柄は…残す気にもならん…。
今はどうして…同じく「はぁ~~」です。
みえないところの心意気、といいますか、
こういうものを見ると、
着ることを楽しんでいたことが感じられます。
ストライプやドットも好きですが、
こんな「絵」を見ると、今はないことが
「惜しい」です。