我が家のモデル「お福ちゃん」は、薄幸な身の上でして…。
着たきりスズメはアタリマエ、時には補正のタオルを巻いただけのあらわな姿で、
玄関開けたところに立たされたり…。
この前、ずっぱり切れ目の入った着物のあとは、それっきりこれっきりで、
急に寒くなったというのにほったらかし…。
というわけで、シアワセになってもらおうと(急に思い立つんでないっ!)
寒くなってきたことでもありますし、袷の小紋を着てもらいました。
今回は帯もちゃんと名古屋です。
紺地の紅型は、おとなしい地色でも色が華やかで、
柄の内容や細かさ、挿し色の違いで年代幅広く着られます。
この着物は、現代ものの中古なのですが、実は胴裏が見事に茶色くなってます。
それをかえれば、十分着られます。
柄アップです。平安貴族のおでかけ風景。
菊や梅、もみじなどがちりばめられてますから、通年着られます。
御所車が止まっていて、従者があれこれやっているところ。
ふつう、こういう柄には、公達や十二単のお姫様…なんですが、
これは「高貴な方」を描くより、車は道具として、
働く人たちのさりげない日常風景を描いたというところですね。
どうやら狩に行くところだったり、お出かけの護衛だったりしているみたいですよ。
絵が小さくて分かりにくいのですが、箙(えびら)という「矢」を入れる道具を
方にかけているお付きの人がいます。
被り物に「おいかけ」という飾りをつけています。(字がでません、おいかけは糸偏に委員会の「委」です)
お雛様の「隋臣(右大臣左大臣)」が耳のところにつけている扇方の羽みたいな飾り
といったらわかりやすいでしょうか。馬の毛でできているそうです。
あれをつけているのは検非違使とか近衛とか、いわゆる「武官」です。
あ…色がヘン…すみません。
さて、柄のお話しはこれくらいにして、京紅型。元々は琉球紅型が始まり。
琉球というのは、今の沖縄ですが、元々小さな島の集まった一角で一つの国となっていました。
但し、本土と同じであれこれ争いがあり、国として落ち着いたのは1400年代、
そこからは本土より、お向さんの中国の方が国が大きかったですから、
当時の中国(明、そのあとの清)の「冊封国」となりました。
「冊封」というのは、国としては認めてもらえますから、王国としての自治はできますが、
「あんたんとこは小さいんだから、ウチより下ね」といわれるわけで、国まるごと「臣下」となるわけです。
かわりに自分のところが大変なときは「助けて」といえます。
その後「薩摩藩」に侵略されてからは薩摩藩の支配下になりましたが、
琉球は地の利から中国との交易にたいへん便利であったため、
そのまま琉球国として残してはもらったものの、結局は薩摩の一部…にされたんですね。
琉球そのものは、本土に攻め入る気はなかったのに、
その地の利から「足場」にされ、戦争では、唯一の地上戦の現場になってしまった。
私はあの華やかな紅型を見ると、それでも残そうとする人がいてくれたことに、感動します。
元々紅型は、琉球の王族やそれに連なる人たちのために作られたものですが、
中国の図柄や色合いなども当然はいってくるわけですね。
王家の庇護の下、首里城のそばで南国特有の色鮮やかな紅型を染めていたのに…、
結局薩摩藩に支配されるようになると、王家の庇護も今までどおりとは行かなくなり、
場所を移したりして、薩摩藩の用命のものを作るようになりました。
そのあたりから、本土の意匠なども取り入れるようになったようです。
国の歴史としては、他国に翻弄される厳しい状況ではあったわけですが、
「紅型」という文化としては、その位置から、様々な文化を受け入れ、
それを独自のものとして確立していって素晴らしいものなったわけです。
明治維新、戦争、とイロイロなことに巻き込まれ、一時紅型は絶滅かといわれましたが、
戦争中に本土で保管されていた型紙を使って復活しました。
そういう努力をした人がいたというわけですね。
琉球紅型と京紅型は、細かく言うと染の技法には共通点も違う点もあるのですが、
京はその辺は省略です。
柄行、ということでは、京友禅は都のみやびさを取り入れたモチーフを使いつつ、
紅型の柄や色使いなどうまく取り入れています。
小紋としては、明るい色も入りますし、柄は小さくてもはなやかで、
一枚持っていると便利な小紋です。
帯ですが、こちらは京都の骨董市で入手したもの。
細かい刺繍がはなやかなのですが、ちょっと糸が解けているところなどがあります。
締めてみましたら、昔の帯にはよくあるタイプで「短い…」、どうしてですかねぇ。
几帳に花、とてもかわいらしい感じですが、
お太鼓のたれの柄合わせにまた苦労するような妙な長さでした。
こんな組み合わせなら、お正月にちょっとおでかけ…なんてのもいいかと思います。
私の紅型…20代半ば…なんてふけてるんでしょ。
この着物は、ただいま行方不明なんです。
誰かに譲った覚えもないのに、どこへしまいこんでいるのか…。
もしかしたら実家に置いたままかもです。
いくらなんでもちとハデめなので、羽織にでもしようかと思っているのですが…。
ちなみにこれの柄は、梅にうぐいす…など花柄です。
着たきりスズメはアタリマエ、時には補正のタオルを巻いただけのあらわな姿で、
玄関開けたところに立たされたり…。
この前、ずっぱり切れ目の入った着物のあとは、それっきりこれっきりで、
急に寒くなったというのにほったらかし…。
というわけで、シアワセになってもらおうと(急に思い立つんでないっ!)
寒くなってきたことでもありますし、袷の小紋を着てもらいました。
今回は帯もちゃんと名古屋です。
紺地の紅型は、おとなしい地色でも色が華やかで、
柄の内容や細かさ、挿し色の違いで年代幅広く着られます。
この着物は、現代ものの中古なのですが、実は胴裏が見事に茶色くなってます。
それをかえれば、十分着られます。
柄アップです。平安貴族のおでかけ風景。
菊や梅、もみじなどがちりばめられてますから、通年着られます。
御所車が止まっていて、従者があれこれやっているところ。
ふつう、こういう柄には、公達や十二単のお姫様…なんですが、
これは「高貴な方」を描くより、車は道具として、
働く人たちのさりげない日常風景を描いたというところですね。
どうやら狩に行くところだったり、お出かけの護衛だったりしているみたいですよ。
絵が小さくて分かりにくいのですが、箙(えびら)という「矢」を入れる道具を
方にかけているお付きの人がいます。
被り物に「おいかけ」という飾りをつけています。(字がでません、おいかけは糸偏に委員会の「委」です)
お雛様の「隋臣(右大臣左大臣)」が耳のところにつけている扇方の羽みたいな飾り
といったらわかりやすいでしょうか。馬の毛でできているそうです。
あれをつけているのは検非違使とか近衛とか、いわゆる「武官」です。
あ…色がヘン…すみません。
さて、柄のお話しはこれくらいにして、京紅型。元々は琉球紅型が始まり。
琉球というのは、今の沖縄ですが、元々小さな島の集まった一角で一つの国となっていました。
但し、本土と同じであれこれ争いがあり、国として落ち着いたのは1400年代、
そこからは本土より、お向さんの中国の方が国が大きかったですから、
当時の中国(明、そのあとの清)の「冊封国」となりました。
「冊封」というのは、国としては認めてもらえますから、王国としての自治はできますが、
「あんたんとこは小さいんだから、ウチより下ね」といわれるわけで、国まるごと「臣下」となるわけです。
かわりに自分のところが大変なときは「助けて」といえます。
その後「薩摩藩」に侵略されてからは薩摩藩の支配下になりましたが、
琉球は地の利から中国との交易にたいへん便利であったため、
そのまま琉球国として残してはもらったものの、結局は薩摩の一部…にされたんですね。
琉球そのものは、本土に攻め入る気はなかったのに、
その地の利から「足場」にされ、戦争では、唯一の地上戦の現場になってしまった。
私はあの華やかな紅型を見ると、それでも残そうとする人がいてくれたことに、感動します。
元々紅型は、琉球の王族やそれに連なる人たちのために作られたものですが、
中国の図柄や色合いなども当然はいってくるわけですね。
王家の庇護の下、首里城のそばで南国特有の色鮮やかな紅型を染めていたのに…、
結局薩摩藩に支配されるようになると、王家の庇護も今までどおりとは行かなくなり、
場所を移したりして、薩摩藩の用命のものを作るようになりました。
そのあたりから、本土の意匠なども取り入れるようになったようです。
国の歴史としては、他国に翻弄される厳しい状況ではあったわけですが、
「紅型」という文化としては、その位置から、様々な文化を受け入れ、
それを独自のものとして確立していって素晴らしいものなったわけです。
明治維新、戦争、とイロイロなことに巻き込まれ、一時紅型は絶滅かといわれましたが、
戦争中に本土で保管されていた型紙を使って復活しました。
そういう努力をした人がいたというわけですね。
琉球紅型と京紅型は、細かく言うと染の技法には共通点も違う点もあるのですが、
京はその辺は省略です。
柄行、ということでは、京友禅は都のみやびさを取り入れたモチーフを使いつつ、
紅型の柄や色使いなどうまく取り入れています。
小紋としては、明るい色も入りますし、柄は小さくてもはなやかで、
一枚持っていると便利な小紋です。
帯ですが、こちらは京都の骨董市で入手したもの。
細かい刺繍がはなやかなのですが、ちょっと糸が解けているところなどがあります。
締めてみましたら、昔の帯にはよくあるタイプで「短い…」、どうしてですかねぇ。
几帳に花、とてもかわいらしい感じですが、
お太鼓のたれの柄合わせにまた苦労するような妙な長さでした。
こんな組み合わせなら、お正月にちょっとおでかけ…なんてのもいいかと思います。
私の紅型…20代半ば…なんてふけてるんでしょ。
この着物は、ただいま行方不明なんです。
誰かに譲った覚えもないのに、どこへしまいこんでいるのか…。
もしかしたら実家に置いたままかもです。
いくらなんでもちとハデめなので、羽織にでもしようかと思っているのですが…。
ちなみにこれの柄は、梅にうぐいす…など花柄です。
季節の花が色々描かれていて時季を
選ばず着られる、こういう小紋は
本当に重宝ですね。
とんぼ様の紫色?の小紋も素敵ですね。
本当に素敵な紅型!
私の古い着物 どうやら花織ではなかったようなの。。
結局 なんなのかわからずじまい。。
昔は案外自由で個人の気の向くままに織ってたらしく産地を特定するのは老舗の呉服やさんでも・・というようです
残念でしたが 琉球のこと少し勉強しました
本日昭和41年発行の琉球の工芸についての本も届いたので、後でゆっくり読みたいと思います。
白黒の写真付きでちょっと見ただけで なんか感動でドキドキしました(汗)
しかし とんぼさんは物知りですね☆
いつもビックリします☆
教えていただかなかったら京友禅と見間違えて見過ごしてしまいそうです(><)
柄のモチーフが違うんですね。
琉球紅型は、やはり色使いの妙と南国的柄が魅力ですが、京ものははんなりした雰囲気が、さすが「みやこ」ですね。
刺繍の帯も素敵です。
日本刺繍ができる職人さんが減っていると聞きましたが。安い蘇州刺繍におされていると。
何とか守りたいですが、何ができるのでしょうか。
とんぼ様のお着物姿、コートとの色合わせがやっぱりはんなり。
最近は小紋に人気がないそうで…。
こういうのは一枚あると重宝ですよね。
私の、古い写真で調整していませんが、
これも紺地です。どこにあるんじゃーです。
文明が進むと「はっきりさせる」ってのが
あれこれ始まるんですよね。
またそうしないとまがい物がでたりしますから。
私は物知りというより、単なる「知りたがり」なのです。
だから知らないことと知ってることの差が激しいんですよ。
実物が全部一枚ずつ見られたら…なんて、夢見ています。
江戸紅型はきりっと、今日紅型ははんなりと、
大元の琉球紅型は鮮やか…でしょうか。
こんなふうにいいところを尊重しあって、
きれいなものが生まれるのは、ステキだと思います。
一枚ずつ全部ほしい…と、どうもそっちに行くのが、
イカンところですー。
着物の色んな事が分かり、特に素材の話は、私も染め織りに関わっているので、大変興味深いです。
今日の写真の京紅型の着物はあでやかですね。
私も似たような着物を持っていまして、紅型とは違うのですが、雰囲気がこんな感じなんです。
しかも、それがウールなんですよ。
華やかなので、ちょっとしたお出かけにいいし、ウールなので雨の日も大丈夫だし、家で洗えるしで重宝しています。
ご無沙汰してます
最後のお写真、素敵ですねぇ。白い肌に豊かな結い髪~こんな女性を見かけたら、後をつけてしまいそうです
はじめまして。コメントありがとうございます。
私もブログ拝見させていただきました。
アームウォーマー、いいなぁ!と、
思わずテをもみもみ。
ヌクヌクがうれしい季節はすぐそこですね。
ウールは単でも暖かいですよね。
さすが「ひつじさん」です。
もっと気楽に着られるウールなんか、たくさん売ってくれればいいんですけどねぇ。
今後ともよろしくお願いいたします。
35年前ですよ。過去の栄光です。
いまや振り返ってもらえる状況にアリマヘン。
なんで10キロ以上もふとったかねぇ…。