これは私が生まれてまもなくに、母が作ってくれた着物の「ネル」生地。
ネルは「フランネル」のネルですね。
私がよちよちと歩き始めたころの冬の着物。
もう「起毛」はもちろんなくなって、ちょっとザラッとした感触が残るのみです。
色は赤だからこれだけ残ったのでしょうね。ピンクや黄色なら色はないでしょう。
この着物は、その後私の洋服になりました。
証拠写真?です。よっちゅのあたち…。(こんなときも…あったんだ…)
この服は私のお気に入りだったらしく、よくこれを着て映っています。
こんなのも…こちらは少しあとなので、さすがに丈が短くなってますね。
洗濯は毎日こんなだったわけで…たいへんだったね、と言ったら
「井戸よりましだ」と…母よアナタはツヨカッタ。
あれこれ使って、残ったのが着物の片身ごろの一部とはぎれ、
ちゃんと洗い張りしてあって「バリバリ」です。
戦後のモノのない時代、一枚のハギレもムダにしなかった、
というよりできなかったのですね。母は自分の着物やじゅばんを壊して、
私の着るものや布団にしたそうですし、それを解いたものは、
また「いいとこ取り」されて小さなちゃんちゃんこや座布団になり、
それがまた、京都のいとこのところに行きました。
使って使って使い倒して、もう雑巾にもならなくなると、
最後は伯母のうちのかまどに入れられた、それで終わりじゃありません。
「灰」は肥料として畑にまかれたり、「灰汁」として使われたり。
ほんとに土に還るまで、人の役にたったわけですね。
そうなる運命を免れて50年の余、大事にしまわれていた布です。
いくらなんでももう何かに使うことはできないけれど、
このままとっておこうと思います。
おまけ画像です。
みっちゅのあたち…(やめんか…)
これは七五三のときの着物です。
口紅もつけてもらってまーす。
母の話によれば、お金がなくて三歳のお祝い着を揃えることができず、
自分の着物では地味すぎて、さてどうしようかと思っていたときに、
京都から祖母が訪ねてきたそうです。
祖母は当時すでに70でしたが、東海道線の列車に13時間揺られ、
住所を書いた紙切れ一枚持って訪ね訪ねてきたくれたのだそうで…。
母の話を聞くと、祖母はすぐに自分の着てきたじゅばんを解いて、
母に染粉を買いにやらせ、小豆色に染めてこの着物を縫ってくれたのだそうです。
色だけは記憶にあるのですが、さすがに地模様までは覚えていません。
帯については母に聞いたところ、着物を作ってもらったので、
帯だけは子供用の作り帯を買ったそうです。
祖母は何もない暮らしをしている母を見て、自分が着ていた縞の着物で
父の綿入れを作り、自分は着替えに持ってきた木綿の着物を着て帰ったそうで…。
母というものは、いつの時代もありがたいものですね。
私が祖母に会えたのは、実はこのときが最初で最後、
次に会ったのは、これからまもなくの祖母のお葬式でした。
自分のことを「こち」とよび、一生束髪に着物で通した祖母でした。
ビンボーライフだった割に、父は妙なものだけは持っていたそうで、
この茶道具もその一部、たぶん父の実家のものだと思いますが、
さてこの茶碗、まだあるのだろうか…たぶん、割ってる、アタシが…。
お茶室のように見えますが、実は当時の「戦災者」の入る「寮」のようなところ
その一室で、うしろの壁のように見えるのは、
エンジニアだった父が使っていた「製図板」です。
父はT定規や「烏口」と呼ばれる墨を入れて使う道具を使って、
いつも図面を描いていました。
今生きていたら「ドラフター」なんて便利なものに、
眼を丸くすることでしょう。今は私が型紙作りやお遊びお絵かきに、
ちび・ドラフターを使っています。(キャドなんかぜってぇムリだかんね)
時代が移り変わり、人は経済的にも豊かになり、モノはあふれ、
ごみも増える一方…、そんなときにこういう布が出てくると、
「あることの幸せ」を感じると同時に「大事なもの、大事なこと」って
なんなんだろう…と考えさせられます。
先日も衣替えで、息子のTシャツを出して整理しました。
ついつい毎年のように買ってしまう…。
小指の爪くらいのシミがあるもの、ちょっと丈の短いものなどまとめました。
サイズは140、まだ2歳の甥っ子にはおおきいけれど、
子供の育つのは早いものです。パジャマ代わりにも着られるかなと、
いとこに電話したら「若い所帯やし助かるわぁ、届けるよって送ってぇ」と
嬉しい返事がありました。ちょっと洗剤でも添えて、送ることにしました。
がんばって、最後までお役にたつんやで、てーしゃつくん。
ネルは「フランネル」のネルですね。
私がよちよちと歩き始めたころの冬の着物。
もう「起毛」はもちろんなくなって、ちょっとザラッとした感触が残るのみです。
色は赤だからこれだけ残ったのでしょうね。ピンクや黄色なら色はないでしょう。
この着物は、その後私の洋服になりました。
証拠写真?です。よっちゅのあたち…。(こんなときも…あったんだ…)
この服は私のお気に入りだったらしく、よくこれを着て映っています。
こんなのも…こちらは少しあとなので、さすがに丈が短くなってますね。
洗濯は毎日こんなだったわけで…たいへんだったね、と言ったら
「井戸よりましだ」と…母よアナタはツヨカッタ。
あれこれ使って、残ったのが着物の片身ごろの一部とはぎれ、
ちゃんと洗い張りしてあって「バリバリ」です。
戦後のモノのない時代、一枚のハギレもムダにしなかった、
というよりできなかったのですね。母は自分の着物やじゅばんを壊して、
私の着るものや布団にしたそうですし、それを解いたものは、
また「いいとこ取り」されて小さなちゃんちゃんこや座布団になり、
それがまた、京都のいとこのところに行きました。
使って使って使い倒して、もう雑巾にもならなくなると、
最後は伯母のうちのかまどに入れられた、それで終わりじゃありません。
「灰」は肥料として畑にまかれたり、「灰汁」として使われたり。
ほんとに土に還るまで、人の役にたったわけですね。
そうなる運命を免れて50年の余、大事にしまわれていた布です。
いくらなんでももう何かに使うことはできないけれど、
このままとっておこうと思います。
おまけ画像です。
みっちゅのあたち…(やめんか…)
これは七五三のときの着物です。
口紅もつけてもらってまーす。
母の話によれば、お金がなくて三歳のお祝い着を揃えることができず、
自分の着物では地味すぎて、さてどうしようかと思っていたときに、
京都から祖母が訪ねてきたそうです。
祖母は当時すでに70でしたが、東海道線の列車に13時間揺られ、
住所を書いた紙切れ一枚持って訪ね訪ねてきたくれたのだそうで…。
母の話を聞くと、祖母はすぐに自分の着てきたじゅばんを解いて、
母に染粉を買いにやらせ、小豆色に染めてこの着物を縫ってくれたのだそうです。
色だけは記憶にあるのですが、さすがに地模様までは覚えていません。
帯については母に聞いたところ、着物を作ってもらったので、
帯だけは子供用の作り帯を買ったそうです。
祖母は何もない暮らしをしている母を見て、自分が着ていた縞の着物で
父の綿入れを作り、自分は着替えに持ってきた木綿の着物を着て帰ったそうで…。
母というものは、いつの時代もありがたいものですね。
私が祖母に会えたのは、実はこのときが最初で最後、
次に会ったのは、これからまもなくの祖母のお葬式でした。
自分のことを「こち」とよび、一生束髪に着物で通した祖母でした。
ビンボーライフだった割に、父は妙なものだけは持っていたそうで、
この茶道具もその一部、たぶん父の実家のものだと思いますが、
さてこの茶碗、まだあるのだろうか…たぶん、割ってる、アタシが…。
お茶室のように見えますが、実は当時の「戦災者」の入る「寮」のようなところ
その一室で、うしろの壁のように見えるのは、
エンジニアだった父が使っていた「製図板」です。
父はT定規や「烏口」と呼ばれる墨を入れて使う道具を使って、
いつも図面を描いていました。
今生きていたら「ドラフター」なんて便利なものに、
眼を丸くすることでしょう。今は私が型紙作りやお遊びお絵かきに、
ちび・ドラフターを使っています。(キャドなんかぜってぇムリだかんね)
時代が移り変わり、人は経済的にも豊かになり、モノはあふれ、
ごみも増える一方…、そんなときにこういう布が出てくると、
「あることの幸せ」を感じると同時に「大事なもの、大事なこと」って
なんなんだろう…と考えさせられます。
先日も衣替えで、息子のTシャツを出して整理しました。
ついつい毎年のように買ってしまう…。
小指の爪くらいのシミがあるもの、ちょっと丈の短いものなどまとめました。
サイズは140、まだ2歳の甥っ子にはおおきいけれど、
子供の育つのは早いものです。パジャマ代わりにも着られるかなと、
いとこに電話したら「若い所帯やし助かるわぁ、届けるよって送ってぇ」と
嬉しい返事がありました。ちょっと洗剤でも添えて、送ることにしました。
がんばって、最後までお役にたつんやで、てーしゃつくん。
もう着ないからポイッとはできませんね。
しまって置く場所が無いのも仕方がないのですが、
実家に行って幼い頃に着ていた生地などを見ると
よく残しておいてくれるなと思います。
とんぼ様はおばあちゃんやお母さんの物を大切に
する心を受け継がれたんですね。素晴らしい!
おばあさまの優しさに涙が出ます。 私も
母が縫ったブラウスとスカートから姪っこの
ワンピースを随分つくりました。
案外 洋服も繰り回しできるものだなぁと思いました。さて わが身を振り返り・・・TT;
今の顔、そのまんまじゃん!(笑)
いやあ~、不思議発見!
まあ、当たり前と言っちゃあ、当たり前なんだけど、
私も含めて、みんな幼い頃の顔がそのまま古くなっただけ?(笑)
根本的に変わらないんだよね?
この目つきが今でも垣間見られるのが面白い!(笑)
2枚目の写真を見た時、
あら~、お母さんの足、長~い!と思ったら、
ワカメちゃんが抱いてるのは、立水栓(りっすいせん)の
凍結防止材を巻いてある部分なのね?(笑)
太ももにしちゃあ細いと思ったけど、心霊写真を見るようだね?
3枚目の写真も、こんな顔で笑うよね?(笑)
間違いない!みんな、とんぼさんの写真だ!(爆)
この時「も」、可愛かったんだね!
幼いころから培われるものなのでしょうね
お写真を拝見して、そう思います。
とても、おしゃれです。
心の引き出しにいっぱい思い出が詰まっていて
豊かなものを感じます。
私も今、母の手作りの洋服を思い出しています。
しかしまあ、これほども「思い出」を大切に残している人、初めてです。
私も、幼い頃のこと、手繰ってみましょう。
改めて、母への感謝が湧いてきそう・・・
若いころは「こんなふるいものを」と思っていたのに
年とともに「思い出すもの」が積み重なり、
よくぞとっておいてくれたと思うようになりました。
私自身も、何か思い入れのあるものは、
何枚かとってあったりしますが、
母にはかないません。そのかわり実家は
「物置」状態でーす。
zizi様
祖母のことは何も覚えていないのですが、
母が「話」としてたくさん聞かせてくれました。
母の口癖はお説教のときでも「ばぁば(祖母)が
よう言うてた、○○やでってな」の言葉。
私は母を通して、記憶にはない祖母と、
会い続けてきたのかもしれませんね。
萬屋千兵衛様
この時「も」ってのは、おせじじゃないよねぇ。
いやいやほんとに土台的なものは、
結局あんまりかわりませんよね。
私はいっときやせたんですが、
最近太ってまた「まん丸顔」に戻ってしまったので、
輪郭だけはまんまですがな。
ワカメちゃんのところ(ワカメってゆーな!)
外の共同水道なんですが、
こういう蛇口、ふる~い学校とか病院とかで
未だにありそうですね。
もも様
母は、あの時代の生まれの割には、
オシャレな人です。私よりずっと…。
ほとんど手作りが当たり前でしたけど、
私の希望はまず「聞いてくれない」でしたねぇ。
それで私の好みも養われたのかもしれません。
「ババクサ好み」…。
お目にかかれます日が更に楽しみになりました。
母の世代は、みなさん本当に 小さな端切れでも大事に取っておきましたね。
うちにも端切れが ひしめいております。
不思議と、「これは、だれの何」と、思い出すものですね。
わが母は、少し多目に生地を買って、子供のワンピースを縫うついでに自分のものも縫っていました。(逆か?・・・)
だから、私たち子供はいつもババ臭い色柄の服を・・・。
その当時です。
「シックで素敵!」という言葉を覚えさせられたのは。
愛されて育ったんですね。
ご両親は大変な時代だったかもしれませんが、
みっちゅのあたちも、よっちゅのあたち(笑)も、
幸せが溢れている表情です。
人格って、持って生まれたものを
親に磨いてもらってできるものなんですね。
あたちの人格も、
今から誰かに磨いてほちいな…(←お前も止めえ)
どっどーしよー!おめにかかったとたんに
「あれがこーなるのか…」なんていわれそうです。
そのときは驚かないでくださいましー。
母の時代の人はモノを捨てませんね。
実家の押入れには紙袋や包装紙、紐が
箱に詰まっています。
それが生活にこまごまと役立った時代も
確かにあったのですよね。
使い捨てはできない私、整理しつつ、
母の思いも受け継いで生きたいと思います。
みやざえもん様
昔はねぇ…なんとかなってたんですねぇ。
今じゃ…ははは。
親はほんとにみを削るようにして、
知恵を絞って…でしたが、子供はそんな苦労など
気づかないまま大人になって、やっとこのごろ
改めて感謝しているような按配です。
みやざ様だって、ピカピカじゃありませんか。
がんばってお仕事続けてくださいね!
応援してますからっ!
兎を抱っこしているおかっぱ頭でそれも白黒写真。。。可愛い~!
私も幼い頃に着たであろう(記憶がない)黄色地にカラフルなチューリップのアンサンブルが手元になぜか有るのですが、捨てられずにあります。
若いときはポイポイ平気で捨てる癖があったのですが、思い出が深くしみこんだ品物が増えるにつれて捨てられなくなってきました。
貴重なとんぼさんの幼きモノクロ写真を拝み、今夜は寝ます~う。
・・・また明日きますー。
おやすみなさいませ。
子供のころ着たものって妙に覚えていたりしますね。
私の場合は写真と「ハギレ」のおかげです。
今はほとんど残っていませんが、
田舎のイトコが、私より覚えていたりします。
「小さいころ、こんなのもらった」って。
懐かしいものですね。
写真は、こんなころもあった…の写真でして、
今は見る影もありまへーん。