ほばーりんぐ・とと

ただの着物好きとんぼ、ウンチク・ズッコケ・着付けにコーデ、
あちこち飛んで勝手な思いを綴っています。

1日はやいんですけどね…

2007-12-13 15:21:24 | 着物・古布
私はいつもアップが遅いので、明日の夜中では間に合わない…。
討ち入りの時間にあわせることもあるまいと?一日はやめです。
いや、実際の討ち入りは14日深夜と言うよりは15日未明ですが…。
あっひとつややこしいんですが、当時の暮らしでは
「夜明け」からが一日の始まりでしたから、
「15日夜明け前の討ち入り」は、ちゃんと「14日」でいいんです。
さぁ、今日の記事は長くなります。おのおの方お覚悟めされい??
「赤穂浪士」に興味のナイかた、スルーしてくださいねー。

毎年この時期には「赤穂浪士」モノの柄をご紹介しております。
上の写真は「羽裏」です。赤穂浪士「武林唯七」が、呼子を吹いているところ。
この図では衿の名前が「竹林」になっているのですが、
「武林」のほうが正しいようです。
とりあえず、この絵は、討ち入って探し回り「炭小屋」に隠れていた
「吉良上野介」をみつけたところで呼子を吹いている…という場面ですね。

映画やお芝居では「盛り上がり」のため、炭小屋から引き出した老人を、
本人と確認し大石内蔵助が切腹を迫り、拒否したため殺害する、
苦労が報われた全員が男泣きして…というのが多いのですが、
実際にはそうではなく、炭小屋に隠れていた上野介が斬りかかってきた、
それを間十次郎が槍でついて、この武林唯七が切り捨てた…。
当時は「顔写真」がありませんから、とりあえず討ち取って「どうもそうらしい」
ということで呼子を吹いて皆を集め、額や肩先の傷(刃傷事件のときの)と、
僅かに上野介と面識があった者によって確認された、というわけです。
「斬っちゃったけどさー、こいつそーじゃない?じゃ確かめよー」だった…。
事実なんてそんなもんさ…。
このとき槍で真っ先に相手を突いた間十次郎はいわゆる「一番手柄」、
これを「初槍をつける」と言いますが、それで相手が死ぬか死なないかではなく、
最初に相手と交戦してダメージを与えたってことです。
討ち取ったのは「武林唯七」、この功績により、泉岳寺では、
この二人が真っ先に浅野内匠頭の墓前で焼香を許されたそうです。

探してみると「赤穂浪士」「忠臣蔵」は、よく使われる柄でして、
襦袢や羽裏などでは小柄・大柄、いろいろ見かけます。
「源義経」と合わせて、日本人の「ねっこの部分」を刺激するのでしようね。
但し、忠臣蔵に関しては史実よりも事件から50年くらいあとに発表された
「仮名手本忠臣蔵」が世に広まって、事実と違うところがたくさんあります。

こちらは「マンガっぽい羽裏」、以前にもマンガっぽいのだしましたが、
こちらは、もう柄が小さくて小さくてアップしてもこんなです。
まずは「松の廊下」ですね。
コケてる吉良さんと、抑えられてる浅野さんの衣装が違います。
映画などでは、大事な式典の衣装について、吉良さんがウソを教えたので、
浅野さんは激怒した…となっていまして、機転をきかせた家臣のおかげで
衣装を着替えることができ、そのあと廊下で出会った吉良さんに、
堪忍袋の緒がブチッといっちゃった浅野さんが切りかかるってのが多いです。
この絵は着替えてないまま、つまり暗に「原因」を表しているのでしょう。





後ろから必死で抑えているのは「梶川与惣兵衛」、この人、物語ではかわいそうに
「なんでとめちゃったのよ、切らせてやりゃよかったのに」と皆に恨まれ、
「浅野さん」びいきの武士たちにイヂめられます。
状況からいって、当たり前のことしたんですけどねぇ。
元々浅野さんは、このときの遺恨になった「饗応役」ってのも、
以前にやってますから、吉良さんばっかり頼らなくても、
大丈夫だったはずなんです。本人は「ただ遺恨アリ」としか言わないまま
切腹しちゃいましたから、ほんとのところは何だったのか、いまだに謎です。
次はこちら、長い手紙ですねぇ…。読んでいるのは大石さんです。





大石さんが放蕩して敵の目をごまかしつつ、妓楼で密書を読んでいるところ。
床下の怪しげなのは「九太夫」という山賊の親父。
これは歌舞伎ですといわゆる「七段目」とよばれる芝居で、
実際にはないエピソードでフィクションです。

ややこしいのですが「実際の名前」でいうと、
浅野さんの家臣である萱野三平、この人をモデルにした「早野勘平」と、
浅野さんの奥さん実名「阿久里」、この人に仕えていた腰元がおかる、
この二人がこっそりデートしている間に浅野さんが「傷害事件おこしちゃった」
責任感じて勘平は武士を捨てますが、おかるの父親が「お金があれば」と
なんと娘のBFのために、おかるを売ってしまいます。
ところがそのお金を持って帰る途中に山賊にお金をとられ殺されてしまうのです。
その山賊をイノシシと間違えて勘兵衛が撃ち殺したあげく、
懐のお金を「帰参(武士に返り咲く)用」として盗んでしまう、
ところがおかるの父親の死体が発見され「お金がない」ということになって、
勘平は自分がイノシシと間違えて殺してお金を取ってしまったと思い込み
切腹してしまうわけです。一方おかるは妓楼で大石さんの密書を読んでしまう、
また勘平の兄は兄で「仇討ちにいれてくれろ」と大石に直談判、
結局この絵の「床下で密書を読もうとしている男」は
実はおかるの父を殺した山賊の父親…で、ああややこしい…あれやこれやあって
大石はおかると兄にこの父親の仇の山賊の父親「久太夫」を討ち取らせる…
とまぁそんな「挿話」なんです。歌舞伎特有の「そりゃないだろう」も
いっぱいありますが、昔はそういうのも「納得済み」だったんでしょうね。

ともあれ、そんな話しで「勘平」さんは実に貧乏くじひいたわけですが、
モデルになった人物は「萱野三平」、本当に浅野さんに仕えておりまして、
実は主君の「刃傷事件」を、命がけの早駕籠で「赤穂」に知らせた人。
本当は大石さんたちと一緒に「討ち入り」に加わりたかったのですが、
赤穂城が無血開城したあと、父親に別の就職口を強く勧められるのです。
これが間の悪いことに「吉良さん」とつながりの深い家柄でして、
仇討ちの準備が水面下で進んで行くも、親の言うことも無碍にはできぬ…
主君一筋の熱血漢「萱野さん」は板ばさみに苦しみ、
結局、大石さんに討ち入り不参加の詫びを遺書として送り、
切腹してしまいました。まだ30前だったんですと、もったいない。
お芝居では「参加したくてもできなくなって切腹」のところだけ取ったわけです。
おかるというのは「大石さんのお妾さんの名前」とも言われてます。
けっこう…だったんだなぁ…。

さてお次の写真、こまっかいんですわ、老眼にはキツイ柄ですー。
仇討ち本懐を遂げて、浅野内匠頭の墓前に吉良さんの首を供えるべく、
泉岳寺まで歩いていくところ。
列の先頭は大石さんで、その後ろで槍の先に白いものをぶら下げているのが
潮田又之丞、白いものは当然「首」ですね。
この絵は、凱旋の途中、槍を持って馬でやってきた幕府方の武士、
これがねぇ有名な場面だと思うんですが、名前が出てこないんですよ。
とにかくその人に「自分たちはあやしいものではない(十分アヤシイ)」と、
大石さんが身分と事実説明をしているところです。





赤穂浪士が討ち入った「本所松坂町の吉良邸」は、今の両国駅のちょっと南、
道をはさんで斜め前に「回向院」があります。その回向院のすぐそばにあるのが
「両国橋」、本来ならそこを渡って江戸市中にはいればいいわけですが、
彼らは「途中でややこしいことにしたくない」という思いがありました。
だから裏ルートで吉良邸から南へ下って「永代橋」を渡ったわけです。
映画では「ルート」よりも「凱旋」の様子が描かれて、町中の人が
「よくやった」と、英雄を迎え見送る様子になっていますが、
実際にはそんなことはありえない…でしょうね。
まずは「情報が伝わらない」、それでなくとも隠密裏に運ばれたことです。
実際の討ち入りは午前4時から二時間くらいのものです。
たとえ屋敷内での騒ぎを聞きつけたものがいたとしても、
今の時代のようにケータイで新聞社やテレビ局に知らせるなんてことは
ありませんから、現場から離れれば離れるほど「わかりゃしない」わけです。
なんだか知らないけど朝っぱらから大勢の侍が武装してゾロゾロ行進してきたら、
太平の元禄時代「なんだ!なにがあった」と恐れたでしょうし。
ともあれ全員無事に泉岳寺について、そのあとは皆様御存知のとおりです。

私は特別「忠臣蔵」のファンというわけではないのですが、
古着を扱うようになって、よく見かけるこの「義士柄」がおもしろくて、
「事実と芝居」の違いなどを知ることとなりました。
違いがいろいろあればこそ、また面白い(いや失礼な言い方ですが)もので、
毎年書いても、まだネタに困らない?
浪士様方、槍もってとんぼを襲わないでください、悪気は全くありません!

過去記事では
2005.12に討ち入りの衣装のことなど、
2006.7に「当時の衣装のこと」など、
2006.12に「刃傷事件その後」のことなど書いてます。
よろしかったら合わせてご覧ください。


追記 マンチュウ様より、誤植を指摘していただきました。
   私のうっかりボケと、記憶違いです。ありがとうございました。
   訂正させていただきました。

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10 コメント

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Unknown (陽花)
2007-12-13 20:50:43
本当にお詳しい!ですね~
私なんか読んでいく内、え~ぇ誰だったっけと
何度も戻らなくてはならないほどです。
登場人物が多いともう混乱してダメですわ。
返信する
おはようございます^^ (えみこ)
2007-12-14 06:35:33
陽花様と同じく
入り組んだ人間関係は目が回りますけど
家人の仕事先と実家が泉岳寺に近いので
訪ねるたびに感慨があります。
以前習い事で通っていた某師匠は深夜に奇襲して丸腰の敵に
ふたりがかりで撫で斬りにする策をとった大石は…と
ボロクソにこき下ろしつつも、しっかりファンでした。
年取るごとに共感する義士が変わりまして^^今は
寺坂吉右衛門さんにもののあわれを感じますね。
ドラマで印象に残ったのが、周囲のすすめでしかたなく討ち入りする
たけし(監督)の大石内蔵助でした。
 
返信する
忠臣蔵は面白い (マンチュウ)
2007-12-14 19:46:18
映画、テレビ、小説、ノンフィクションと忠臣蔵に関わるもの大好きです。
そうした中で、一番印象的なのは、やはり受験勉強の最中に放送されたNHK大河ドラマ第2弾の「赤穂浪士」(原作は「鞍馬天狗」の大佛次郎、脚色は「次郎長三国志」の村上元三)です。長谷川一夫の大石内蔵之助、滝沢修の吉良上野介(この二人は大映映画版と同じ配役)、林与一のニヒルな浪人堀田隼人、淡島千景の掏りのお仙、宇野重吉の怪盗蜘蛛の陣十郎、、志村喬の小野寺十内、舟木一夫の矢頭右衛門七、芦田伸介の小林平七など豪華キャストでした。「おのおの方・・」という大石の台詞や「堀田しゃん」という陣十郎の呼びかけは、ビデオが残っていないにもかかわらず、櫻井長一郎の声帯模写ですっかり有名になりました。先月たった1本ビデオが残っていた第47話「討入り」の回がスカパーで放送され、芥川也寸志のビシビシという鞭の音の入ったテーマ曲が流れ出すと、わくわくしてしまいました。

さて、とんぼさんの書き込まれたものについて薀蓄をいくつか。
まず、松の廊下での衣装について、とんぼさんはあえて書かれなかったのでしょうが、吉良上野がうそを教えたのが「長裃(ながかみしも」、そして画像の正しい装束が「烏帽子大紋(えぼしだいもん)」でした。
次に、大石が手紙を読んでいる歌舞伎の七段目「祇園一力(いちりき)茶屋の場」では、この柄には描かれていませんが、舞台では大石の右手に二階があってそこからお軽が手鏡で手紙を盗み読みしています。
お軽の父親与一兵衛を殺してお軽が身売りして作った金を盗み勘平に猪と間違われて撃ち殺されるのが斧定九郎、その父親がもと家老で敵方に寝返り大石の動静を探るのが斧九太夫。そのモデルは、赤穂藩の家老大野九郎兵衛(大石と対立し、逐電したことで悪役として描かれることが多い)とその息子の大野群右衛門。
ちなみに、実在の萱野三平は紅葉のてんぷらと滝で有名な大阪府箕面市萱野で誕生し、この地で切腹して果てました。旧宅は大阪府の史跡に指定され、現在は箕面市が管理し「萱野三平記念館・涓泉亭(けんせんてい)」として開設されています。
 泉岳寺への引き上げのときに両国橋に現れた馬上の武士は目付の多門(おかど)伝八郎。刃傷におよんだ浅野長矩を取り調べた目付けで「役儀により言葉を改める。その方・・・」という台詞が印象的でした。また、庭先で切腹させると聞いて、大目付に異議を唱えるという、きわめて浅野に同情的でした。この両国橋のシーンでは「本懐を遂げられてめでたい」というような労いの言葉をかけ、引き上げの道筋を教えていたように思います。
ついでに、赤穂浪士の処分について、儒学者の大学頭林信篤や室鳩巣など大半は同情的でしたが、ただ一人荻生徂徠だけが切腹を主張したのは、昨年とんぼさんが書いておられました。
最後に、変換ミスです。
浅野匠守→浅野内匠頭
梶川惣兵衛→梶川与惣兵衛

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Unknown (とんぼ)
2007-12-14 21:34:28
陽花様
このごろド忘れが多くて、書こうとして
えーっとあいつの名前は…ホラ、あれあれ、と
毎度やっています。
このお話しは「出演者」多すぎ…?!


えみこ様
実際「不意打ち」ですからねぇ。
テロですよ、ほんと。もちろん大義名分も、
カレラなりの理由もあったわけですが、
吉良さん一人のために、あちらは何人も
死傷者がでたそうですから。
とりあえず「お芝居」としては、おもしろいですね。


マンチュウ様
詳しいお話、ありがとうございます。
名前の誤植も、ご指摘ありがとうございました。
こういうところが注意不足なんですが、
そのまま討てばちゃんと出ているもの…と、
勝手に思い込んで確認もしていませんで…。
梶川さんの名前は、すっかり記憶間違いを
しておりました。
私も「長谷川内蔵助」覚えております。
あの鼻に抜けるようなしゃべり方、
あんまり好きじゃなかったけど。
宇野さんは存在感ありましたね。
後年いろんな人が大石さん浅野さんをやってますが、
そのたびに「この人じゃ似合わない」とか、
「この人いいなぁ」とか、勝手に評価してました。
俳優さんにとっても、吉良、浅野、大石、というのは
これができたら…というのがあるのでしょうね。

萱野さんは、赤穂への「緊急報告」の途中、
偶然実母のお葬式にいきあっても、
「お家が大事」と、そのまま籠を降りなかったと、
こりゃ史実のようですね。
「元禄赤穂事件」は、必ずしも全てのことを
そーだそーだとはいえないことばかりですが、
今は珍しい「男気」とか「心意気」とか、
「プライド」とか…そんなものを感じます。


返信する
おお、こちらで・・・ (ヒロをぢ)
2007-12-14 22:42:21
 マンチュウさんにお目にかかれるとは!相変わらずの博識ぶり、お見事です。補足の補足・・というよりは蛇足ですが、萱野三平記念館があるのは大阪府箕面市萓野3-10-4、地名まで因んだものとしてバッチリ残されています。よく仕事で通りがかるので年中「そうなんだよなあ・・」と思い出しております。
 前にもお聞きしたことがあるかもしれないのですが、《討ち入り》の12月14日って、旧暦ですよねえ・・・。
 私が好きな忠臣蔵関係の読み物は、小林信彦さんの『裏表忠臣蔵』という小説です。面白いですよ、これは。
返信する
Unknown (とんぼ)
2007-12-14 23:50:48
ヒロをぢ様
箕面には、いとこが嫁いでいます。
イナカのほうだけど…。
今度訪ねてみようかな、ついでに。どっちがついで?
討ち入りは旧暦です。太陽暦だと1703年の
1月末だったと思います。
現代では東京の雪なんて積もるほど降るのは
珍しいですが、温暖化かもなくて、
一月末となれば、雪も不思議はありませんね。
返信する
Unknown (伊藤)
2007-12-15 09:53:38
とんぼさん、私つくづく思うのですけど、この「忠臣蔵」って言う物語の第一の功労者はやはり、梶川殿ではないかと思います・・だってあの人が止めなきゃ
吉良殿は絶命して・・「忠臣蔵」そのものが存在しませんからねぇ(笑)
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Unknown (とんぼ)
2007-12-15 10:31:43
伊藤様
仮名手本…は二代目「竹田出雲」がもう一人と合作で
書いたものですが、そこから先、今日に至るまで
赤穂事件題材で「当てた」全てのかたがたは、
ひそかに「梶川家」の墓参に行ってるんじゃ??

ほんとに、吉良・松の廊下絶命だったら、
大石さんは何をしたんでしょうね。
それを想定した物語って、あるのかなぁ。
返信する
罪な人 (iina)
2007-12-16 12:37:27
武家の仇討は、「子供が親の仇を討つ」ことだけ。
親が子の仇を、兄が弟の仇を、は許されてなかった。
家臣が相手方を討つ忠臣蔵は、筋が通らぬという話を読んだことがあります。
また、
吉良家はお家断絶。「不参加」の赤穂浪士は後々までも
不遇だったようで、末代まで影響を引きずったようです。
いずれにせよ、罪なはなしでした。
返信する
Unknown (とんぼ)
2007-12-16 21:58:57
iina様
はじめまして、ようこそ。
おっしゃるとおりです。
上記の「過去記事」にそのことを書いておりますが、
大学という弟がいましたから、
「親がすでにいないという特別な事情考慮」で、
弟が兄を討つというのが順序です。
彼らが許されなかったのは、
それからいっても当然、という記事を読みました。
身分制度の厳しい時代ですから、
「思い」だけではとおらないことが
たくさんあったんでしょうね。
そしてまたその「意地」のために、残った人たちが
後々不遇をかこったことは、誰の責任なのか、と
そんなことを思います。
お芝居として楽しむ分においては、
年末行事のようで、楽しいんですが…。
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