イラストは…すんません、いくらなんでもこういう写真はムリなので…。
実は、成人式のあるお話し…テレビに写った女性の中で、
キンキラ帯に黒地の振袖…で片肌脱いでいたんだそうで…。
それを聞いて私は思わず「かたかたはたはた…」とうわずってしまいました。
思い出したのは「幸田ナンタラ」さんのステージ衣装、
振袖をずるりと片肌さげて、裾は両足丸見えで…
今そこで『あれぇやめてけれぇ お代官さまぁ』とやってきました、
みたいなあのカッコです。
まぁね「ファッション」と言ってしまえば、ミニの浴衣もお代官サマーも、
「そんな着方をしてはイケマセン」と、規則で縛るわけにはいきません。
それでもねぇ、それで何が消えうせるかというと「品性・品格」…。
そういうことを言うと古いのカタいのといわれるんでしょうけれど、
品性とか品格というのは、単純に「お上品なこと」ではないんですよね。
つまりはその人の人格や知性や、育ち方、
それがいいか悪いかではなく「良質」か、ということです。
私が子供のころ、親やばーさんたちが、他人の着方がゴテゴテとハデだったり
お色気ばかりを丸出しにしたりという着方だと「『おじょろ』じゃあるまいし」
と言ったものです。決して苦界に身を落としている人を卑下したのではなく、
男に媚びなければならない人のような着方をして、
という意味であったろうと思いますが、玄人(くろうと)堅気(かたぎ)という
そういう意識が一般的にありました。
今、若い男性が「龍のもよう」を好んで浴衣などにつけていますが、
単純にかっこいい、との意識なのでしょう。
でも、私たちの年代からみれば、ああいった柄はやはり「そのスジ」の方々の
定番みたいなもので、素人、つまり一般の人間にとっての粋なゆかたは
菊五郎格子だのかまわぬ柄だの、見事な竹の縞柄だの…でした。
そういう意識がだんだんかわっている今、わたしたちのそういう思いは
すでに「偏見」なのかもしれません。それでも、女性が片肌脱ぐ、というのは、
ファッションの一言で片付けられることではないと思うのです。
もちろん、来年「片肌脱ぎ振袖」が大いにはやるなんてことはないと思いますが、
越えてはいけない一線、というよりも越えたらアホになる一線、を
知っておくのは必要なことだと思うんですよねぇ。
もうひとつ別の話題なのですが、
先日の「成人式」のとき見ていたテレビのニュースでのこと。
ご覧になられた方もあると思いますが、
ある成人式会場で、裏手の控え室のような場所を使って
近隣の中年女性数名による「お直し隊・お助け隊」がおかれた…という内容。
要するにまずは「着崩れ」のお直しがメインだったのでしょう。
ところが、ニュースのときにSOSでやってきていた女性は、
「タビが大きくて…」というのです。ナレーションはサラリといいました、
「まちがって男物のタビをはいてきてしまったのです」…
…はいぃ~?(ここんとこ「相棒」の右京さん口調で)
写った足元は、そりゃもぉぶっかぶか、タビの中で足ジャンケンができそー…。
着物姿の女性で、たまにタビサイズがあっていないかたを見かけます。
よけいなシワがよって、ちょっと見苦しいものです。
その振袖女性の足元は見苦しいなんてものじゃなくて、オキノドク…でした。
どうみても例えば「24サイズのひとが26をはいてる感じ」。
新しいタビの用意などなく、結局「お直し隊」のオバサマたちは、
後ろでダブり分をよせてしまい、糸で縫い付けるという応急処置をしました。
なんでそんなことになったのか、私はフシギでフシギで…。
いろいろご事情もあったのかもしれませんが、
普通、前の日からちゃんと用意して調べてあるとおもうし、
着付け方からして美容院か着付け師さんと思われましたから、
たとえ間違って持ってきても、そこで気がついたはずです。
なんたって着物を着るとき、タビは真っ先に身に着けるものですから。
「これしかないんだからしょうがない」と、それで着せてしまったのでしょうか。
だとしたら、ずいぶんな話だと思います。
昔、年末になると髪を結っていましたから、大晦日には美容院にいきましたが、
大晦日の美容院なんてのは戦場みたいなもの、部屋の隅に箱があって、
その中には肌襦袢や腰紐、タビ等が袋入りのままいくつも突っ込んでありました。
いざ着付けのときに、足りないものがあったときの用意です。
もちろん「お買上げ」のわけですが、そういう用意はなかったのでしょうか。
いくらうしろで縫い詰めたところで、足全体がぶかぶかなのですから、
見苦しさはもとより、歩きにくかったと思います。
着付けをしている知り合いが「腰紐が足りないとか帯板がないなんてのは序の口、
裄も袖丈もあわない襦袢とか、袷の着物に絽の襦袢をもってくるとか、
喪服の着付けだというのに、これしかない、と真っ赤な染の襦袢だったとか」
数え上げたらキリがない、と。
着物はそれだけ忘れられている、ないがしろにされている…のでしょうか。
ここにおいでくださるかたは、皆さん着物が好き、着物を着る、
というかたばかりです。イザ何か着ることになったら、
ひとつひとつ気にするでしょうし、めったに着ないようなものなら、
これでよかったかしらと考えたり確認したりすると思います。
このブログを書き始めたころ、ミニの浴衣だの浴衣に伊達衿だの、
なんでなのよ、これが進んでいったらどうするのよ、という苛立ちがありました。
それでも、ずっと書いてきて、いろいろな方とお話して、
私ごときが歯軋りせんでも、いいものは残っていく、
おかしなものは結局淘汰されてゆく、という安心感も持てるようになりました。
その使い方や、装い方は、それを選ぶ人に認められて、
私たちの時代にはなかったものも、かわいがられて残っていけばいい…
でも、必ず「基本的なもの」は残していかなければ、着物がもったいない、
着物という文化がもったいない、とその思いは今でもかわりません。
私はよく外国の紀行とか紹介番組を見ます。
民族衣装も、いろいろ出てきます。いまだに昔ながらの姿を続けているところ、
日本のように、すっかり洋風だけどイザというときは民族衣装を着るところ、
さまざまではありますが、民族衣装を着る場面では、
必ずといっていいほど、それを自慢にし「誇りを持っている」と言います。
代々大切にしてきた飾り物だとか、これをこんなふうにつけるのが、
昔ながらの決まりだとか、こういう意味があるとか…。
ちゃんと伝わっていることが多いです。
日本の着物はどうでしょう、いまや着方さえもわからなくなって、
なんだか寂しいことです。どんなチャンスでもいいですから、
着始めてくださることは嬉しいのですが、せめて着物ってどういうものなのか、
基本的なことだけでも、親子で意識をもって話し合ってみてほしいですね。
そうすれば「ぶかぶかタビ」を後ろで縫うなんてことは、
きっとなくなると思うのです。
あっ寒いのに片肌脱ぐなんて「快挙」いや「怪挙」も…。
実は、成人式のあるお話し…テレビに写った女性の中で、
キンキラ帯に黒地の振袖…で片肌脱いでいたんだそうで…。
それを聞いて私は思わず「かたかたはたはた…」とうわずってしまいました。
思い出したのは「幸田ナンタラ」さんのステージ衣装、
振袖をずるりと片肌さげて、裾は両足丸見えで…
今そこで『あれぇやめてけれぇ お代官さまぁ』とやってきました、
みたいなあのカッコです。
まぁね「ファッション」と言ってしまえば、ミニの浴衣もお代官サマーも、
「そんな着方をしてはイケマセン」と、規則で縛るわけにはいきません。
それでもねぇ、それで何が消えうせるかというと「品性・品格」…。
そういうことを言うと古いのカタいのといわれるんでしょうけれど、
品性とか品格というのは、単純に「お上品なこと」ではないんですよね。
つまりはその人の人格や知性や、育ち方、
それがいいか悪いかではなく「良質」か、ということです。
私が子供のころ、親やばーさんたちが、他人の着方がゴテゴテとハデだったり
お色気ばかりを丸出しにしたりという着方だと「『おじょろ』じゃあるまいし」
と言ったものです。決して苦界に身を落としている人を卑下したのではなく、
男に媚びなければならない人のような着方をして、
という意味であったろうと思いますが、玄人(くろうと)堅気(かたぎ)という
そういう意識が一般的にありました。
今、若い男性が「龍のもよう」を好んで浴衣などにつけていますが、
単純にかっこいい、との意識なのでしょう。
でも、私たちの年代からみれば、ああいった柄はやはり「そのスジ」の方々の
定番みたいなもので、素人、つまり一般の人間にとっての粋なゆかたは
菊五郎格子だのかまわぬ柄だの、見事な竹の縞柄だの…でした。
そういう意識がだんだんかわっている今、わたしたちのそういう思いは
すでに「偏見」なのかもしれません。それでも、女性が片肌脱ぐ、というのは、
ファッションの一言で片付けられることではないと思うのです。
もちろん、来年「片肌脱ぎ振袖」が大いにはやるなんてことはないと思いますが、
越えてはいけない一線、というよりも越えたらアホになる一線、を
知っておくのは必要なことだと思うんですよねぇ。
もうひとつ別の話題なのですが、
先日の「成人式」のとき見ていたテレビのニュースでのこと。
ご覧になられた方もあると思いますが、
ある成人式会場で、裏手の控え室のような場所を使って
近隣の中年女性数名による「お直し隊・お助け隊」がおかれた…という内容。
要するにまずは「着崩れ」のお直しがメインだったのでしょう。
ところが、ニュースのときにSOSでやってきていた女性は、
「タビが大きくて…」というのです。ナレーションはサラリといいました、
「まちがって男物のタビをはいてきてしまったのです」…
…はいぃ~?(ここんとこ「相棒」の右京さん口調で)
写った足元は、そりゃもぉぶっかぶか、タビの中で足ジャンケンができそー…。
着物姿の女性で、たまにタビサイズがあっていないかたを見かけます。
よけいなシワがよって、ちょっと見苦しいものです。
その振袖女性の足元は見苦しいなんてものじゃなくて、オキノドク…でした。
どうみても例えば「24サイズのひとが26をはいてる感じ」。
新しいタビの用意などなく、結局「お直し隊」のオバサマたちは、
後ろでダブり分をよせてしまい、糸で縫い付けるという応急処置をしました。
なんでそんなことになったのか、私はフシギでフシギで…。
いろいろご事情もあったのかもしれませんが、
普通、前の日からちゃんと用意して調べてあるとおもうし、
着付け方からして美容院か着付け師さんと思われましたから、
たとえ間違って持ってきても、そこで気がついたはずです。
なんたって着物を着るとき、タビは真っ先に身に着けるものですから。
「これしかないんだからしょうがない」と、それで着せてしまったのでしょうか。
だとしたら、ずいぶんな話だと思います。
昔、年末になると髪を結っていましたから、大晦日には美容院にいきましたが、
大晦日の美容院なんてのは戦場みたいなもの、部屋の隅に箱があって、
その中には肌襦袢や腰紐、タビ等が袋入りのままいくつも突っ込んでありました。
いざ着付けのときに、足りないものがあったときの用意です。
もちろん「お買上げ」のわけですが、そういう用意はなかったのでしょうか。
いくらうしろで縫い詰めたところで、足全体がぶかぶかなのですから、
見苦しさはもとより、歩きにくかったと思います。
着付けをしている知り合いが「腰紐が足りないとか帯板がないなんてのは序の口、
裄も袖丈もあわない襦袢とか、袷の着物に絽の襦袢をもってくるとか、
喪服の着付けだというのに、これしかない、と真っ赤な染の襦袢だったとか」
数え上げたらキリがない、と。
着物はそれだけ忘れられている、ないがしろにされている…のでしょうか。
ここにおいでくださるかたは、皆さん着物が好き、着物を着る、
というかたばかりです。イザ何か着ることになったら、
ひとつひとつ気にするでしょうし、めったに着ないようなものなら、
これでよかったかしらと考えたり確認したりすると思います。
このブログを書き始めたころ、ミニの浴衣だの浴衣に伊達衿だの、
なんでなのよ、これが進んでいったらどうするのよ、という苛立ちがありました。
それでも、ずっと書いてきて、いろいろな方とお話して、
私ごときが歯軋りせんでも、いいものは残っていく、
おかしなものは結局淘汰されてゆく、という安心感も持てるようになりました。
その使い方や、装い方は、それを選ぶ人に認められて、
私たちの時代にはなかったものも、かわいがられて残っていけばいい…
でも、必ず「基本的なもの」は残していかなければ、着物がもったいない、
着物という文化がもったいない、とその思いは今でもかわりません。
私はよく外国の紀行とか紹介番組を見ます。
民族衣装も、いろいろ出てきます。いまだに昔ながらの姿を続けているところ、
日本のように、すっかり洋風だけどイザというときは民族衣装を着るところ、
さまざまではありますが、民族衣装を着る場面では、
必ずといっていいほど、それを自慢にし「誇りを持っている」と言います。
代々大切にしてきた飾り物だとか、これをこんなふうにつけるのが、
昔ながらの決まりだとか、こういう意味があるとか…。
ちゃんと伝わっていることが多いです。
日本の着物はどうでしょう、いまや着方さえもわからなくなって、
なんだか寂しいことです。どんなチャンスでもいいですから、
着始めてくださることは嬉しいのですが、せめて着物ってどういうものなのか、
基本的なことだけでも、親子で意識をもって話し合ってみてほしいですね。
そうすれば「ぶかぶかタビ」を後ろで縫うなんてことは、
きっとなくなると思うのです。
あっ寒いのに片肌脱ぐなんて「快挙」いや「怪挙」も…。
いやはや。片肌出して「前帯」でしたからね~、あの瞬間の私は顔のパーツが全部飛んで出てたと思います(笑)
「足袋」も見事です。よく会場までたどり着けたと・・・。不思議ですね。
以前、とんぼさんが紹介してくださった「緊縛」もののような着付け。あそこまでではないにしても、いまだ「着物は息ができない!」のが一般的ですね。そんな風に、淘汰されるには時間を要するものも多くあって、現在の形ができている・・・という、少々弱気な見方もしてしまいます。
着物だけじゃなくて、何においても、モラルの問題かな・・・なんて・・・。
洋服は、カッティングで似合う・似合わないが決まるけれど、着物はそういうものでない・ということが伝わっていないのですね。残念です。
娘が着ると言っても絶対許しませんね。
大きなぶかぶか足袋もどうして?と首を
ひねりそうになりますが、あきらかに
小さい足袋を無理無理履かれた方も
おられます。指先曲げた状態で長時間
さぞかし痛かっただろうにと今でも思います。
毎晩読ませていただいております。
今日のお話は、ウンウンとうなずいたり なんじゃいなとひっくり返りそうになったりでしたた。
>育ち方が「良質」かということ
>越えたらアホになる一線
とても深いお言葉です。心にメモメモしました。
それにしても今の美容院は、"着せるだけ"なのでしょうか。不足の物を用意するという気配りはないのでしょうか。どっちもどっちということでしょうか。
成人式をむかえられた方の親御さんは40代後半でしょうかね。
私は53歳ですが、最低の支度はしてあげられると思います。(残念ながら息子のみ)
親の着物姿を見て育っていない方が親になった時代ですね、きっと。
いつも楽しみに拝見させて頂いております
わたしの着付けの先生が、その「お直し隊」に参加しておられました。
あれは無報酬、ボランティアなのですよ。頭が下がります。わたしも来年はお手伝いにはせ参じたいと思っています。
先生は、振り袖のお袖を引きずっている(袖が長すぎる)お嬢さんのお袖を特急で直してあげたそうです。
でも、先生たちに出逢えたことで、何も知らなかった(教えてもらえなかった)お嬢さんたちがなにか、つかんでくれたら・・・と思わずにはいられません。「きちんとする」ということについて・・・。
片肌脱いだ姿は、見損ねました。(笑)
最近の美容院も、若い人に受けるような着付けをするところが人気のようで。
無理もないです。美容院の人たちも、すでに着物の暮らしを知らない年代。
肌で、着物のことを知らないんですよね。
無理もないです。
こういう私も、おぼろげながら、祖母の着物姿を覚えているだけ。
形よりも、ハートを教えてもらえる人が近くにいないのが残念です。
数年後には、我が娘たちも成人式。
どんなファッションが流行っているんでしょうね。
日本から安心がどうして消えたのか?がシンプルに語られていて
膝を打つ部分も少なくない御本でした。「品格」「武士道」では日本人の心はすくいきれないのではないか?と
問われている部分がありました。ファッションというのは
最先端を表現する、演出する使命があり
そのうえであらためて今回の片肌べろ~んを見ると、どうやら
既成概念としての和服よりも、現代人の心のありようを演出される作り手側の目的だけが先行した結果だと感じました。
外国的ですね。バイヤーに向けられているなと思います。
こういったやり方がすでに廃れて来ているのに…。
だまされやすい若い人向け、というのもしゃらくさいですね。
それにしても、足袋の件、すごいですねぇ。
成人式の着物って、自分で揃えるわけではないでしょうに、そろえた人がもうその辺り全く分からなくなっているということですよね。
大勢の着付けの直しをしようと思ったら、足りない物を持っていくということも大変なことですよね。
そういう時こそ呉服屋が助ければ良いのに・・・・
「片肌脱いで」は衝撃ですー! 読みながら、
「きっと着崩れたのか、お袖を階段の手すりにでも引っかけ破いたのかも・・・」と
打ち消しながら進んだのですが・・・
ご丁寧に帯まで前だったんですねェェェ・・・。 絶望
来年、娘の成人式があります。
市の広報でお直しボランティアの方が紹介されてましたが・・・
写真の、その方の着こなしに不安がよぎりました(汗)。
あの人には直してほしくないなぁ・・・。
直されないように着せなくちゃっ!!
最近はとにかくなんでも「早すぎる」と
思っています。
そんなに急いで…ですよね。
なんかわけがわからないまま、
いろんなことがごっちゃになって、
怒涛のごとく突き進む!
で、たまにあだ花のように「片肌脱ぎ」が…
おぉNO~~~~!
私ももし娘がいたら、ぶんなぐってでも
やめさせますねぇ「恥を知れぃっ!」って。
タビは普段から自分に合うものあうサイズを
履き比べて、決めておくといいんですけど、
今の人じゃムリでしょうねぇ。
小さいタビは、一日はいただけで、
ツメが黒ずんだりしちゃいますね。
そぅです経験者ですー。痛かったです。