またまた羽裏です。以前「おすし」や「ういろう」などの染められた襦袢を
ご紹介したことがありましたが、これは「茶店」の様子も描かれています。
右の看板には「まんじや」と屋号が入っていて「お茶所」の文字。
暖簾には宿場の名前「蒲原」とか「油井」とか、
看板の後ろの壁に、紙が貼ってあり「くわな駅まで二里半」とあります。
左下には「桑名名物」のシール?つき「蛤」が・・。
こうしてみると、当時の茶店は、お茶を飲むだけでなく、
観光案内所のような役目も果たしていたのかもしれませんね。
旅なれない人は、距離は二里半でも険しいところはあるかとか、
女の足ならどれくらいでいかれるかとか、時には安くていい旅籠の情報なども
もらえたかもしれません。
両脇の「そろばんつなぎ」の地のところには、「川崎大師」のわらびもち、
当時の「観光地」とか「名物」の情報は、ガイドブック仕立てで、
草紙やから販売されていました。
もう一枚、もうひとつの柄です。
こちらは「まり子名物とろろ汁」、これ、昨日の襦袢にもありましたね。
「小田原ういろう」に「うばもち」「名物白酒」・・どこでしょう。
その右側、ちょっとかけていますが、円のてっぺんが山の絵になっています。
書いてある字は「筆捨山」、これは今では「岩根山」と呼ばれているそうで
鈴鹿峠近くの低い山です。今でももちろんある山ですが、
写真を見ても富士山のように美しいというような山ではありません。
ただ、昔の東海道から見ると、岩が重なり複雑な形をしていたり、
松が曲がりくねってフシギな形をしていたり、面白みのある山だったようです。
広重の「東海道五十三次」の中にも「坂ノ下、筆捨嶺」の名前で、
茶店の向側に、遠くこの山を望む絵があります。
筆捨山の名前の由来は、昔、絵師狩野元信が鈴鹿峠を越えるとき、
山があまりに美しかったので、自分にはこの山の美を描く力がない・・と
筆を折る(絵をやめる)ことを考えた・・という逸話によります。
この山の絵の上は「名物あべかわ餅」日本橋とか府中名物などの文字。
左側の笠の横はさかさまですが「淺草海苔」。
以前も書いたことがあるかと思いますが、江戸時代は「旅」が盛んになりました。
五街道が整備され世の中が落ち着き「物見遊山」の旅が可能になったからです。
「○○参り」というような「信仰」が関わる旅が多かったのですが、
どちらかというと信仰は「ついで」だったんじゃないかと・・??
箱根や草津への湯治、江ノ島などはお参りをかねて「景色見物」、
これまた今とかわりません。合間にあれこれ土地の名物を食す・・・、
今も昔も「おいしいもの」食べ歩きはあったんですね。
お伊勢参りというのは、ものすごい話がありますね。たとえば子供が親に、丁稚が店主に、何も言わずふらりとお伊勢参りにでかけても「お伊勢参りなら」と許されたそうで、ひしゃくを一本持っていれば、道中必ず誰かが助けてくれる・・つまり助けることで自分も善行をつんだことになるため、家に泊めたり食事をさせたり、着るものを与えたりして、決して行き倒れになどはしなかったそうです。犬が主人の変わりにお伊勢参りに行った・・などという話もありましたねぇ。今でも四国八十八箇所のお遍路さんには、道路沿いの人たちが、お茶を振舞ったりするそうです。それの最たるもの・・だったんでしょうね。平和な時代です。