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ほばーりんぐ・とと

ただの着物好きとんぼ、ウンチク・ズッコケ・着付けにコーデ、
あちこち飛んで勝手な思いを綴っています。

喪の帯…

2008-06-12 21:17:36 | 着物・古布
写真はピッタリのがなくて「私物」です。
喪の帯は母からもらったもの「雷紋に波頭」、隣が光ってしまうので、
模様がでてませんですみません。朱色のは成人式のときのもの、
当時は着物ばかりが気に入ってて、10年くらいたってから
「この帯、有職文様だったんだ」と気がついたと言うおやふこーものです。

時々友人知人から、冠婚葬祭の着物のルールについての
質問を受けることがあります。
核家族になった今、いざというとき身近で教えてくれる人が、
なかなかいないというのが今の時代ですからねぇ。

我が家でも、この春遠い身内で不幸があったのですが、
年寄りが「最近は遺族も喪主も洋服着とる、せめて喪主は喪服やろ」と
嘆いていたと言う話を聞きました。
私は義父母の葬儀のとき、まだ息子が小さくて世話がかかりましたので、
お通夜の支度のうちに、身内に「申し訳ありませんが洋装にさせていただきます」
と、お断りをしましたら「いいじゃない別に、あたしも洋服だしー」と、
はるか年上の人に言われまして、ホッとしたというか、あららというか。
都会とか地方とか、その家のやり方とかで、さまざまあると思いますが、
今はほんとに「ややこしい」時代なのだと思います。

さて、先日ネットで「喪服で二重太鼓」が○か×かというような記事を
みつけました。書いた人は「ふるさとでは」というお話をしていました。
さてさて、これもまたやっかいなお話しで、
毎度いうように、もしも着物の歴史が、たとえ明治以降、その変化が
スピードアップしたとしても、みんなが着物をきているような状態だったら、
それなりに淘汰はあったと思うのですが…。
実際には突然ポッキリ折れたように廃れてしまいましたから、
たとえば年寄りが「昔はね」とか、母親が「イマドキは」、というような、
変化に必要な「ごちゃ混ぜ」がないわけです。
だから、地方地域のことと、一般にいわれていることが、
出会い頭のように出くわして「どっちがほんと?」なんてことが…。

この場合、喪服に二重太鼓を「否」とするのは、
仏事では「繰り返す」ことを忌むため二重はおかしい、ということだと思います。
確かに、仏事に関する「忌み言葉」は「重ね重ね」とか「たびたび」とか、
繰り返す言葉はいけないとされます。
実は「返す返すも残念で」とか「くれぐれもお力落としのないように」も
「たびたびお世話になって」も、いけないんですよね。難しいでっせ。

しかしですねぇ、帯の歴史から言いますと、
二重太鼓というのはムリもないのです。
つまり、まずは「丸帯」がありまして、ずっとこれが締められてきたわけですが、
大正に入って、重くて太い丸帯にかわって出てきたのが「袋帯」です。
丸帯は、花嫁さんのように幅の広いまま胴に巻きつけるわけですが、
明治以降、着物の着方もかわり、半分に折って胴に巻くようになりましたから、
袋帯は、使いやすくてよかったわけですね。
そこで、袋帯は名前どおり「袋に織られた」わけですが、裏は無地ですから、
やがて柄と無地を別々に織って縫い綴じるものが出ました。
今はあまり区別しませんが袋状を「本袋」、縫い合わせを「縫い袋」といいます。

この袋帯のあと、大正末期に考案されたのが「名古屋帯」です。
これはまず胴に回る部分が軽くなりますし、帯全体の長さも短くて足りるので、
人気が出たわけです。長さの120センチくらいを折り返すので、
一重太鼓になります。

このほかにもシャレ袋などと呼ばれるものがでてきたりして、
元々は「丸帯」とその他特殊なもの「七寸」「細帯」「半幅」などで、
それぞれに結び方も違っていたものが、袋や名古屋などで、
幅もほぼ同じ、結びは「お太鼓(振袖用は別)」と定着したために、
礼装は「袋帯」になっていったわけです。
そして、これは「おそらく」の話しですが、喪服も礼装ですから、
「袋帯」としたのでしょう。それがそのまま使われている地方地域があっても
おかしくはないわけです。そのときは「二重」という「重ねる」部分は、
「礼装」というルールの前に、影は薄かったのでしょう。
時代が下がって、名古屋帯アタリマエ、になったとき、
「二重太鼓」という言葉に「重ねる」という忌み言葉のほうがアップされた…
こんなところではないでしょうか。
歴史がわかれば「そういうのもありか」とか、
「でも今はこうなんだから」とか、いろいろ推敲することも出来るわけです。
それが「語り伝えたり、教え伝えたり」がブツリと切れてしまったがために、
「地元ではこうだった」「だって二重っておかしくない?」と、
そういうことになってしまうのではないかと思います。
だいいちですねぇ、昔は白だった「喪服」が、明治天皇崩御で、
いっせいに黒になったわけで、都会から地方へ、そういうことが流れ広がるには、
時間がかかるものなのです。伝えてきた人たちが「昔日」の知識を
かえようとしなければ、伝わるのは遅くなります。
むしろ、そういうことをはっきり「おかしい」とか「こうなのよ」とか、
そういう意見を持った人たちがいるということは、
着物が着られているってことですよね。


衣服の変遷には、三つの法則がありまして、その中に「表皮脱皮」
という法則があります。そうそう「蛇のように脱皮して…」じゃなくて!
つまりは「簡素化」です。十二単の一番下の小袖がだんだん上にあがってきて、
着物になったり、たくさん重ねてきていた「袿」が、一枚の打掛になったり。
もちろん、逆にあれこれ余分になったものもいろいろあるわけですが、
さまざま淘汰されて、例えば明治のころからは、襲の着物が簡素化されて、
今の留袖の「比翼仕立て」という「らしく見える仕立て」なんてものが、
考え出されたわけです。
帯の変遷も、名古屋帯という丈も短くて締めやすい帯ができたとき、
喪服用の帯は、礼装ではあるけれど華やかさはなくていいわけですから、
黒の名古屋帯、が主流になってきたのでしょうね。
着物の歴史っておもしろいですよね。

こんな風に考えると、今「どうして?」とか「これでいいのかな」とか、
そんな風に悩むことのいくつかは、たどっていけば、そういうことなら、
これでもいいんじゃない?とか、これは変えたくないね、とか、
そんな風に今の時代に着物を着る私たちが決めていくことも、
たくさんあると思います。だから、着物を知ってほしいのです。

ちなみに「冠婚葬祭」の意味は…日本人検定じゃありませんけど、
「冠」、は「戴冠」つまり「位につく」、ということから、
一人前として認められる、で昔は「元服」今は「成人」ですね。
平安時代は「冠(かぶりもの)」は、地位を賜ることであり、
たいへん大きな意味を持ちましたから、幼児期をすぎ少年になって
親のあとを継げる、ということで元服は「初冠(ういこうぶり)」と言いました。
乳幼児の死亡率の高かった昔は、ここまでくれば大丈夫…だったんですね。

「婚」は、そのまま「婚姻」、「葬」もそのままです。
では「祭」は?「浅草三社祭」いやそーじゃなくて、いえそれもありますが…、
祭は「祭祀」、つまり元日の初詣から始まり、暦にしたがって
人日とか小正月とか節分、立春、桃の節句…これはみんな「祭祀・祭事」です。
次の祭は「夏至」、冬至はどこでもカボチャを食べますが、
夏至は地方で違うようですね。うちは…そーめんか??

コメント (3)    この記事についてブログを書く
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3 コメント

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難しいけれど・・・ (陽花)
2008-06-12 22:38:30
小学生の頃、お隣のおばあちゃんの
お葬式でその頃、身内は白装束に素足に
ワラ草履でしたよ。あれから50年近く
随分お葬式事情も変ってきましたね。
最近は会館や葬議場でされる方も多いですが、
地方ではいまだに昔ながらのしきたりにのっとってと言う所もありますからね。
正しいとかおかしいとかじゃなく、その場合は
地域に合わすのがいいんじゃないかと思いますね。
返信する
私の実家は (もなか)
2008-06-12 22:49:18
結婚していない娘も叔父叔母の葬儀では
全員和装・喪服を着ます
20歳も過ぎて洋服だった日にゃぁ
「まだ着物の用意もできてない」と親は陰口叩かれます^^何時代?って感じですよもう^^
私も初めて着たのは高校生の時でした
なので・・・
私が今までで一番袖を通してる着物は喪服です
なんとかもう少し簡素になって頂けないものかと・・・^^
返信する
Unknown (とんぼ)
2008-06-13 11:12:03
陽花様
私は「白」はみたことがないのですが、
バサマは祖母が土葬だったと言ってました。
お葬式事情もさまがわりしますよね。
イロイロやり方はちがっても、こういうものは
「郷に入っては郷に従え」というところ、
ありますよね。


もなか様
やはりいろいろありますね。
私のオットの身内は、
なんか黒きゃいいでしょうって感じ。
気楽といえば気楽なんですが、
両方の身内があつまるのなんのになると、
ちょっとヒヤヒヤすることもあります。
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