着物のように見えますが、衿の後ろに別布をつけたじゅばんです。
半衿そのままで重ねてしまってますすみません。
こういう柄行のちりめんは、今の時代にはない柄行なので、
手芸をなさる方などには人気が高いのですが、
着物のままでは量も多いし、使い勝手が悪いので解かねばなりません。
状態のいいものだったら、小さくして子供の着物とか帯とかも考えられますが、
たいがいは弱りがあって、いいとこ取りになります。
元々は着物として着られていたものを、いいとこ取りして
じゅばんにした…というものが多く、鮮やかな色柄のじゅばんは、
このまま着たい…と思ってしまいます。
最近のじゅばんは綸子地がほとんどですが、昔はちりめんが主でした。
特にいろいろ重ねて着るのがアタリマエだった江戸時代などは、
一番下のじゅばんは「赤」、緋ぢりめんが主流でした。
時代がさがっても、こんなふうに着物としてきていたちりめんを、
じゅばんにするのはアタリマエだったわけです。
空気を良く含み、体の動きになじむちりめんに裏をつけて着れば、
暖かいと思います。今よりずっと寒かったころは、
当然の「繰り回し」だったでしょうね。
柄のアップです。こういうのも流行があったのだと思うのですが、
同じような紫地の「元着物」は、けっこう多く見られます。
このほか多いのは「紺地」、赤はどちらかというと「錆朱」とか「海老茶」、
渋めの色を見かけます。思うに、薄い地色のものも当時あったのでしょうが、
保存の面で残らなかったのかもしれません。たまに薄いピンク地の裏とか、
クリーム地のハギレなどを見ますが、やはり汚れも目立ちますし、
わずかな糸穴やヒケなども、濃い地色のものより目立ってしまいます。
汚れの目立たない、穴やシミのわかりにくい濃い目の色のものを
こういうじゅばんにしたりして、色の薄いものは小さいものに使ったり、
染めてしまったのかなぁ、と思っています。
ところで、この時代のものも当然「ピンキリ」あったと思いますが、
このじゅばんも実は「袖」のところにこんな「ポカ」が…。
牡丹の花びらのぼかしに乗せるはずの色が、隣の桜に「遠征」してます。
こういった「ズレ」とか「こすり」「かすれ」のある部分、けっこう見ます。
技術的なことでいうなら「染め職人」としては、
こういうのは恥ずかしいものかもしれません、今なら検品ではねられる??
でも「難あり」として安く売られるなら、買う側としては有難かったでしょうね。
今の時代、若い女性の着物の晴れ着、というとどうしても「振袖」「訪問着」を
考えます。つまり「絵羽付け」(模様が絵画のように染められていて、
下から上に向かうように染められているもの)になっている豪華なものです。
しかし、着物で過ごしていた時代の若い女性の着物は、振袖もありましたが、
いわゆる「よそいき」、洋服で言うなら「振袖」がフォーマルドレスなら、
その下のちょっとオシャレなスーツやワンピースにあたるもの、
これも着物だったわけで、そういう時は華やかな小紋、総柄のものを着ました。
この写真のタイプの着物は、袖は当然今より長かったと思いますが、
それにしても振袖のような正装ではなかったわけです。
そういうものの場合は、多少の傷物でも安ければ親としてはうれしいですよね。
それにしても大柄で華やか、今の時代にはない柄であると同時に、
こういう「シボの大きい」ちりめんの着物も数が減りました。
たしかにさらりとした一越や梨地は薄手で着易いですけど、
ポッテリとしたちりめんの着物も、お正月などにはいい感じです。
さて、本日のもうひとつのお話、今月6日に片付け物をしたことを書きました。
古いものがいろいろ出てきたわけですが、こちらは義父の遺品です。
かなり大きなもの、私の手のひら二つ分くらいです。
岩手の大船渡の一部でしか取れないという「紫雲石」という石です。
硯も有名だそうで、裏にちゃんと「東山紫雲岩石」と彫がありました。
入っていた箱も、何の飾りもないシンプルなものなのですが、
よくよく見れば、ただの空き箱に入れていたというわけではなく、
ちゃんとした「硯箱」でした。こんなのです。
以前にも書きましたが、義父は「シベリア抑留」から生還したヒト。
異国の凍土でなくなった戦友を思って、残りの人生で積極的に
「遊ぶ・楽しむ」ということをしなかったヒトでした。
植木いじりが好きなことは知っていたのですが、
書道の段持ちとは知りませんでした。練習書きらしいものも何枚かあり、
結構な達筆に、ちと驚きましたわん。
前述の通りの理由で、贅沢をせず質素に暮らした父ですが…、
そりゃあね「弘法は筆を選ばず」ともいいますけどね、
これだけの硯使って…、
50円の筆ってのは…せめて300円くらいのを…おとーさま。
半衿そのままで重ねてしまってますすみません。
こういう柄行のちりめんは、今の時代にはない柄行なので、
手芸をなさる方などには人気が高いのですが、
着物のままでは量も多いし、使い勝手が悪いので解かねばなりません。
状態のいいものだったら、小さくして子供の着物とか帯とかも考えられますが、
たいがいは弱りがあって、いいとこ取りになります。
元々は着物として着られていたものを、いいとこ取りして
じゅばんにした…というものが多く、鮮やかな色柄のじゅばんは、
このまま着たい…と思ってしまいます。
最近のじゅばんは綸子地がほとんどですが、昔はちりめんが主でした。
特にいろいろ重ねて着るのがアタリマエだった江戸時代などは、
一番下のじゅばんは「赤」、緋ぢりめんが主流でした。
時代がさがっても、こんなふうに着物としてきていたちりめんを、
じゅばんにするのはアタリマエだったわけです。
空気を良く含み、体の動きになじむちりめんに裏をつけて着れば、
暖かいと思います。今よりずっと寒かったころは、
当然の「繰り回し」だったでしょうね。
柄のアップです。こういうのも流行があったのだと思うのですが、
同じような紫地の「元着物」は、けっこう多く見られます。
このほか多いのは「紺地」、赤はどちらかというと「錆朱」とか「海老茶」、
渋めの色を見かけます。思うに、薄い地色のものも当時あったのでしょうが、
保存の面で残らなかったのかもしれません。たまに薄いピンク地の裏とか、
クリーム地のハギレなどを見ますが、やはり汚れも目立ちますし、
わずかな糸穴やヒケなども、濃い地色のものより目立ってしまいます。
汚れの目立たない、穴やシミのわかりにくい濃い目の色のものを
こういうじゅばんにしたりして、色の薄いものは小さいものに使ったり、
染めてしまったのかなぁ、と思っています。
ところで、この時代のものも当然「ピンキリ」あったと思いますが、
このじゅばんも実は「袖」のところにこんな「ポカ」が…。
牡丹の花びらのぼかしに乗せるはずの色が、隣の桜に「遠征」してます。
こういった「ズレ」とか「こすり」「かすれ」のある部分、けっこう見ます。
技術的なことでいうなら「染め職人」としては、
こういうのは恥ずかしいものかもしれません、今なら検品ではねられる??
でも「難あり」として安く売られるなら、買う側としては有難かったでしょうね。
今の時代、若い女性の着物の晴れ着、というとどうしても「振袖」「訪問着」を
考えます。つまり「絵羽付け」(模様が絵画のように染められていて、
下から上に向かうように染められているもの)になっている豪華なものです。
しかし、着物で過ごしていた時代の若い女性の着物は、振袖もありましたが、
いわゆる「よそいき」、洋服で言うなら「振袖」がフォーマルドレスなら、
その下のちょっとオシャレなスーツやワンピースにあたるもの、
これも着物だったわけで、そういう時は華やかな小紋、総柄のものを着ました。
この写真のタイプの着物は、袖は当然今より長かったと思いますが、
それにしても振袖のような正装ではなかったわけです。
そういうものの場合は、多少の傷物でも安ければ親としてはうれしいですよね。
それにしても大柄で華やか、今の時代にはない柄であると同時に、
こういう「シボの大きい」ちりめんの着物も数が減りました。
たしかにさらりとした一越や梨地は薄手で着易いですけど、
ポッテリとしたちりめんの着物も、お正月などにはいい感じです。
さて、本日のもうひとつのお話、今月6日に片付け物をしたことを書きました。
古いものがいろいろ出てきたわけですが、こちらは義父の遺品です。
かなり大きなもの、私の手のひら二つ分くらいです。
岩手の大船渡の一部でしか取れないという「紫雲石」という石です。
硯も有名だそうで、裏にちゃんと「東山紫雲岩石」と彫がありました。
入っていた箱も、何の飾りもないシンプルなものなのですが、
よくよく見れば、ただの空き箱に入れていたというわけではなく、
ちゃんとした「硯箱」でした。こんなのです。
以前にも書きましたが、義父は「シベリア抑留」から生還したヒト。
異国の凍土でなくなった戦友を思って、残りの人生で積極的に
「遊ぶ・楽しむ」ということをしなかったヒトでした。
植木いじりが好きなことは知っていたのですが、
書道の段持ちとは知りませんでした。練習書きらしいものも何枚かあり、
結構な達筆に、ちと驚きましたわん。
前述の通りの理由で、贅沢をせず質素に暮らした父ですが…、
そりゃあね「弘法は筆を選ばず」ともいいますけどね、
これだけの硯使って…、
50円の筆ってのは…せめて300円くらいのを…おとーさま。
華やかだけど上品な着物ですね。
お義父様は書道の段持ちだったのですね。
でも、ほんと!硯と筆とのギャップが
すごいですね。
今、こんな着物で七五三とかしたら、
いいでしょうねぇ。
かなり水を通っているようで、
うすくなっているところがあります。
おそるおそる解くようですね。
筆、細筆もあわせて5本くらいはいってるんですが、
一番高いので150円ですよ。
墨と文鎮は、結構それらしいものを使っていたようで
よけいに「50円」が浮いてますー。
こんな襦袢を着てたんですね。華やか!
お袖口からこの襦袢の柄がちょっと覗く・・・
なんて、おしゃれでしょう。
この襦袢の上にどのようなお着物を合わさられるのですか?
お着物は控えめになるのでしょうか?
筆のこと、
私も書道をしていますが、筆は消耗品なので、中国の安い筆を使います。
弘法は筆を選ばずを地で行きます。
私の先生もそうです。
素敵そーなお義父様でしたね。
生き方が素敵。
異国の凍土でなくなった戦友を思って、残りの人生で積極的に「遊ぶ・楽しむ」ということをしなかったヒトでした。
この言葉にグッとくるものがありました・・・
想像出来ない程の大変な思いをされたんでしょうね・・・
上の世界では、会いたい人にも会えると聞きますが義父さんも戦友の方達と戦中には出来なかった事をして楽しんでおられたら良いですね。。。
この紫は、ほんとにきれいですね。
日本の色、という気がします。
じゅばんできていたときは、
やっぱり渋めの着物だったのだと思うのですが。
私ならグレーの無地感覚の江戸小紋か、つむぎ?
帯は抹茶色…どっちも持ってねーわ…。
義父が書道をしていたことをしらなかったので、
ホントに惜しいことをしました。
頑固で厳しいヒトでしたが、
残っていたわずかな書は、やさしい字でした。
くう様
戦争を知らない私ですが、少しは話しにも
聞いている年代です。でも、義父は一度も
戦争の話しをしませんでした。
遺品の中から出てきた写真が、
ほとんど「戦友会」のものでして、
旅行さえも、その集まりのための旅ばかり。
ずっと忘れなかったのでしょう。
今頃は、好きなお酒を
みんなで楽しんでいるかもですね。