子供の着物柄のようですが、けっこうこういう柄の男物見かけます。
これで珍しいのは武者が「正面顔」であること。ハンサムですぅ~~。
いつもフシギに思うのは、こういう図で、すんごく上手に描けていて、
細部にいたるまでみごとだなーと思うのに、バックがけっこういいかげんで、
子供の描いた絵みたいな場合があること。
たとえばこれは過去記事の中の「子供着物」、
祇園祭の長刀鉾で、とても細かくてきれいなんですが、
間の町並みの「家」がねぇ…いくら背景だから目立たないようにったって、
ちっと寂しいと思いません?
この絵も、後ろのお城はこの若武者に比べると「稚拙」に見えます。
こんな感じ。背景だからぼけっとしてるのはわかるんですけど。
こういうものの染めはどうやってするのか知りませんが、
なにかバックにあたるものは、テンプレートみたいなものがあって、
それに「染め足す」のかなぁ…なんて思っています。
だって同じ人がやったとは思えないんですもん。
さて、ではその「ハンサム」アップを…。
武者も馬も、どっちもハンサムでしょ。
なかなかの描写だとおもいますが、素描はうまいけど「染め」としては
ちっと手抜き部分もあります。これが留袖(こんな柄ありえないけど)などだと
もっと細密に全身手を抜かず…だと思いますけれど…。
たとえば着物の部分だけ、やけに黒々と輪郭がとってあったり、
馬の顔部分だけが陰影を強く描いてあったり…。
着物の柄としてみたときに、そこだけがボケたりしないように、
あるいはそこが一番ぱっとめだって締まって見える…ということなのかもしれません。
私は戦装束については明るくないんですが、
着物の柄で、こういう「戦装束」の絵柄の場合、「母衣(ほろ)」まで
細かく描かれているものは、そんなにないんじゃないかと思っています。
「母衣」というのは、この柄で言うと背中に翻っているマントみたいなもの。
これは「かけぼろ」(すみません漢字を忘れました)といわれたもので、
「母衣」の原型、平安時代の戦のやり方から生まれたものです。
当時は騎馬戦で「矢の射掛け合いから一騎打ち」というのが戦法。
この「かけぼろ」は、長い布でして背中にマントのようくくりつけ、
たわませておくと風をはらんでこの絵のように膨らむわけです。
要するに、攻め込むとき、後ろから飛んでくる味方の射た矢をよけるためのもの。
いまでいうところの「防弾チョッキ」ですが、味方の矢よけってのが切ないですね。
元々、大昔の日本の戦というのはけっこう優雅でして、
戦というより「試合」という感じ…始まるのにも合図があり、
まず双方向かい合い、名だたるものが順に前に出て名前を名乗り、自分とこ自慢をやりあう…。
「やぁやぁ遠からんものは音にも聞け、近くばよって眼にも見よ、
わぁれこそは、ほばりんぐ家が一の家臣、みなもとのたろーとんぼのすけなりぃ」
とかなんとかやるわけですね。それぞれ自分の武勇伝などを言い合うわけです。
それからせーので始まるわけですが、馬を駆って矢を射掛けあい、
だんだん近づいて「好敵手」をみつけると一騎打ちとなる…。
こんなですから、あの屋島の戦いで平家の船に扇が立てられ、
それを那須与一が見事射抜き、平家の軍も船べりをたたいて喝采した…
なんてぇのんきな話もできるわけです。
この「かけぼろ」がその後「母衣(ほろ)」と呼ばれるようになったわけです。
戦法がかわって、室町ころには布袋に竹で編んだかごのようなものを入れて
これを背負いました。色を決めておけば敵・味方がわかるわけですし、
戦国時代になると、この「母衣」をつけられるのはエリートになり、
伝令や偵察といった重要な役目を仰せつかりました。
織田信長の「母衣衆」は有名です。
さてさて、こうしてみますと、装束や武具などから見て、
この騎馬の若武者は、着物の柄というところからでも
たぶん「義経」じゃないかと思いますが、装束とお城の形が一致していません。
「城」というものにも歴史がありまして、要するに「偉い殿様の家」ですが、
今のようなカタチに近いお城が出てきたのは戦国時代。
このころは「山城(やまじろ)」と「平城(ひらじろ)」で、
山城は戦用、つまり敵を監視し、攻略の拠点となるような場所の山に建てられました。
だから「展望台」みたいに高いものも作られたわけです。
「平城」は、自分の治める領地の中の平らなところに建て、
領民の様子や情報を集める、いわば「役所」の役目で
「まつりごと」をする場所でした。
ですから、城というより「大きな屋敷」、館と呼ばれるタイプですね。
だからこの二つのお城は当然建て方も違っていたわけです。
私なんぞは「お城」といったら「シンデレラ」…コレコレ。
いえ、ちょっと話がそれちゃうんですが、子供のころ「お城」というと、
あのシンデレラの挿絵のような、高い塔がある石造りのとか、
もしくはロシア正教の血の上の救世主教会のような
「たまねぎアタマの飾り」のついたエキゾチックな建物とか…
そんなものだと思っていました。
だからクレムリンだとかヴェルサイユなんてのを見たときには
「なにこれ、ただのお飾りつきビルじゃん」なんて…。
ディズニーランドで初めて「シンデレラ城」を見たときは、
「そーよ、お城ってこれでなくちゃ!」と単純に感激しちまった私です。
閑話休題、日本のお城というものが、今に残る姫路城とか、
復元ではありますが大阪城とか、そういう形になったのは秀吉以降です。
つまり、城、イコール、砦、であったものが、戦が終わりかけ、
「戦うことも考慮した砦」と「政治用住居」を合体させ、
領地を治めるのに情報や人心のつかみづらい山を降りて、
平地に作るようになったわけです。だから「ただの大きな屋敷」ではなく、
堀や石垣をめぐらしたりも始まり、更に「装飾」に時間をかけるように
なったわけですね。
あっこれは、もうホントにかいつまんだものの、更にてっぺんだけ
つまみ上げたようなお話ですので、そのつもりで…。
実際には地方地域によって、いろんなお城がありますから。
これはもう「帯しかないっ!」と思っているのですが…いかが?
こんな感じで…。
ところで、日本の主要都市のお城は、戦争で爆撃を受けて
ことごとく破壊されていますが…あれは、主要都市に残っていた「城」に、
帝国陸軍が駐屯したからです。まぁ気持ちはわかりますけどぉ…、
皮肉ですよね、城は戦国時代と同じように、攻める標的になったわけです。
え~そんなわけでして、何も着物の柄のそんなところまで、
細かく見んでもええやん…とも思うのですが、
義経さんたちのように「かけぼろ」をしょって騎馬戦やっていたころには、
姫路城のようなお城はなかった…ってことです。
ほんまにどーでもいいことですが。
いやー、もうひとつ馬の前足の「蹄」部分の絵がきになっちゃいるんですがねぇ…。
日本には「蹄鉄」はありませんでした。明治になってからはいったものです。
それでも、馬の蹄を守る方法は奈良時代から考えられていました。
ただ、鉄をうちつけるということはなくて、
保護になるものを塗りつけたり履かせたり、です。
この絵のおんまさんの蹄、なんかくりぬかれているみたいに見えちゃって…。
あーやめときます、ただの図柄じゃないのよぉ~~~そーだそーだ気にしない!
これで珍しいのは武者が「正面顔」であること。ハンサムですぅ~~。
いつもフシギに思うのは、こういう図で、すんごく上手に描けていて、
細部にいたるまでみごとだなーと思うのに、バックがけっこういいかげんで、
子供の描いた絵みたいな場合があること。
たとえばこれは過去記事の中の「子供着物」、
祇園祭の長刀鉾で、とても細かくてきれいなんですが、
間の町並みの「家」がねぇ…いくら背景だから目立たないようにったって、
ちっと寂しいと思いません?
この絵も、後ろのお城はこの若武者に比べると「稚拙」に見えます。
こんな感じ。背景だからぼけっとしてるのはわかるんですけど。
こういうものの染めはどうやってするのか知りませんが、
なにかバックにあたるものは、テンプレートみたいなものがあって、
それに「染め足す」のかなぁ…なんて思っています。
だって同じ人がやったとは思えないんですもん。
さて、ではその「ハンサム」アップを…。
武者も馬も、どっちもハンサムでしょ。
なかなかの描写だとおもいますが、素描はうまいけど「染め」としては
ちっと手抜き部分もあります。これが留袖(こんな柄ありえないけど)などだと
もっと細密に全身手を抜かず…だと思いますけれど…。
たとえば着物の部分だけ、やけに黒々と輪郭がとってあったり、
馬の顔部分だけが陰影を強く描いてあったり…。
着物の柄としてみたときに、そこだけがボケたりしないように、
あるいはそこが一番ぱっとめだって締まって見える…ということなのかもしれません。
私は戦装束については明るくないんですが、
着物の柄で、こういう「戦装束」の絵柄の場合、「母衣(ほろ)」まで
細かく描かれているものは、そんなにないんじゃないかと思っています。
「母衣」というのは、この柄で言うと背中に翻っているマントみたいなもの。
これは「かけぼろ」(すみません漢字を忘れました)といわれたもので、
「母衣」の原型、平安時代の戦のやり方から生まれたものです。
当時は騎馬戦で「矢の射掛け合いから一騎打ち」というのが戦法。
この「かけぼろ」は、長い布でして背中にマントのようくくりつけ、
たわませておくと風をはらんでこの絵のように膨らむわけです。
要するに、攻め込むとき、後ろから飛んでくる味方の射た矢をよけるためのもの。
いまでいうところの「防弾チョッキ」ですが、味方の矢よけってのが切ないですね。
元々、大昔の日本の戦というのはけっこう優雅でして、
戦というより「試合」という感じ…始まるのにも合図があり、
まず双方向かい合い、名だたるものが順に前に出て名前を名乗り、自分とこ自慢をやりあう…。
「やぁやぁ遠からんものは音にも聞け、近くばよって眼にも見よ、
わぁれこそは、ほばりんぐ家が一の家臣、みなもとのたろーとんぼのすけなりぃ」
とかなんとかやるわけですね。それぞれ自分の武勇伝などを言い合うわけです。
それからせーので始まるわけですが、馬を駆って矢を射掛けあい、
だんだん近づいて「好敵手」をみつけると一騎打ちとなる…。
こんなですから、あの屋島の戦いで平家の船に扇が立てられ、
それを那須与一が見事射抜き、平家の軍も船べりをたたいて喝采した…
なんてぇのんきな話もできるわけです。
この「かけぼろ」がその後「母衣(ほろ)」と呼ばれるようになったわけです。
戦法がかわって、室町ころには布袋に竹で編んだかごのようなものを入れて
これを背負いました。色を決めておけば敵・味方がわかるわけですし、
戦国時代になると、この「母衣」をつけられるのはエリートになり、
伝令や偵察といった重要な役目を仰せつかりました。
織田信長の「母衣衆」は有名です。
さてさて、こうしてみますと、装束や武具などから見て、
この騎馬の若武者は、着物の柄というところからでも
たぶん「義経」じゃないかと思いますが、装束とお城の形が一致していません。
「城」というものにも歴史がありまして、要するに「偉い殿様の家」ですが、
今のようなカタチに近いお城が出てきたのは戦国時代。
このころは「山城(やまじろ)」と「平城(ひらじろ)」で、
山城は戦用、つまり敵を監視し、攻略の拠点となるような場所の山に建てられました。
だから「展望台」みたいに高いものも作られたわけです。
「平城」は、自分の治める領地の中の平らなところに建て、
領民の様子や情報を集める、いわば「役所」の役目で
「まつりごと」をする場所でした。
ですから、城というより「大きな屋敷」、館と呼ばれるタイプですね。
だからこの二つのお城は当然建て方も違っていたわけです。
私なんぞは「お城」といったら「シンデレラ」…コレコレ。
いえ、ちょっと話がそれちゃうんですが、子供のころ「お城」というと、
あのシンデレラの挿絵のような、高い塔がある石造りのとか、
もしくはロシア正教の血の上の救世主教会のような
「たまねぎアタマの飾り」のついたエキゾチックな建物とか…
そんなものだと思っていました。
だからクレムリンだとかヴェルサイユなんてのを見たときには
「なにこれ、ただのお飾りつきビルじゃん」なんて…。
ディズニーランドで初めて「シンデレラ城」を見たときは、
「そーよ、お城ってこれでなくちゃ!」と単純に感激しちまった私です。
閑話休題、日本のお城というものが、今に残る姫路城とか、
復元ではありますが大阪城とか、そういう形になったのは秀吉以降です。
つまり、城、イコール、砦、であったものが、戦が終わりかけ、
「戦うことも考慮した砦」と「政治用住居」を合体させ、
領地を治めるのに情報や人心のつかみづらい山を降りて、
平地に作るようになったわけです。だから「ただの大きな屋敷」ではなく、
堀や石垣をめぐらしたりも始まり、更に「装飾」に時間をかけるように
なったわけですね。
あっこれは、もうホントにかいつまんだものの、更にてっぺんだけ
つまみ上げたようなお話ですので、そのつもりで…。
実際には地方地域によって、いろんなお城がありますから。
これはもう「帯しかないっ!」と思っているのですが…いかが?
こんな感じで…。
ところで、日本の主要都市のお城は、戦争で爆撃を受けて
ことごとく破壊されていますが…あれは、主要都市に残っていた「城」に、
帝国陸軍が駐屯したからです。まぁ気持ちはわかりますけどぉ…、
皮肉ですよね、城は戦国時代と同じように、攻める標的になったわけです。
え~そんなわけでして、何も着物の柄のそんなところまで、
細かく見んでもええやん…とも思うのですが、
義経さんたちのように「かけぼろ」をしょって騎馬戦やっていたころには、
姫路城のようなお城はなかった…ってことです。
ほんまにどーでもいいことですが。
いやー、もうひとつ馬の前足の「蹄」部分の絵がきになっちゃいるんですがねぇ…。
日本には「蹄鉄」はありませんでした。明治になってからはいったものです。
それでも、馬の蹄を守る方法は奈良時代から考えられていました。
ただ、鉄をうちつけるということはなくて、
保護になるものを塗りつけたり履かせたり、です。
この絵のおんまさんの蹄、なんかくりぬかれているみたいに見えちゃって…。
あーやめときます、ただの図柄じゃないのよぉ~~~そーだそーだ気にしない!
絵を見て時代考証出来るって素晴らしい
ですねぇ。
時代やいわれ、色んな事を知っていると
絵をそんな風に楽しめてうらやましい!
私は歴史も絵もまったくダメなんですもの。
帯、すてきです!
後ろにいる人がぎょっとしそうですね
かっこいい!
長刀鉾のバックの町並み。爆笑してしまいました。
それなら、私も描ける!気がする。
帯にすると迫力ありますね~。素敵です。
これは長襦袢にしても面白そうだなぁと思って拝見してました。
フェミニストの長襦袢・・・・
この武者のお顔、張り切ってますけど、赤い唇なんぞ、女だてらと言っちゃっても良いんじゃないかと・・・
「母衣」について、初めて知りました。
とんぼさん、戦装束についても十分よくご存知だと思います。
勉強になるなぁ・・・・
このまま襦袢でもいいですけど、これはやっぱり見せたいですね。
ホントだ、武者とお城の時代が全然合ってなくて勿体ない。
どっちかで良かった気も・・・。
描いた人、人物はいいけど、建物は不得手だったのかもしれませんね。
私もなんですが・・・
正面はかえって難しいのに、馬も迫力があって素晴らしいですね。
葦毛(連銭葦毛?)だし、鎧も萌黄縅だから敦盛かもしれないですね。
熊谷に討ち取られた時、薄化粧もしていたし。
戦の中でも風雅がある、そんな時代だったのですよねぇ。
武者の拡大写真を見ると型染めの様ですね。
実物を見ないとはっきりはしませんが。
でもお城は手描友禅つまり糸目友禅の様に見えます。
しかし、併用する事は本当に稀なので矢張り城も型染めであろうと思われます。
今や昔の型染めに使った型は殆ど消滅しました。
着物を着る男がワンサと増えれば、復活するのでしょうが。
オットよりハンサム!
いろんなことがわかると確かに楽しいですね。
でも、こういうのは、ただもう見ているだけで
シャーワセェな気分になれます。
帯、やってみようと思って解いてます。
後姿で勝負!?ですね。
きっとびっくりするでしょうね。
羽織を着ない季節にしめたいものです。
ホレボレして、よだれとともに?に見ています。
帯の予定…早くっ!
あの家並み、笑えるでしょう。
ないほうが絶対いいって。
もぉ~ためつすがめつしています。
たまたま呉服屋さんがきたので、
薄い平絹だけど帯にいける?ときいたら、
まだ布力あるから大丈夫でしょうって。
さっそく今解いてます。
昔のいいかただと「美丈夫」?
なんともつやっぽいです。