こんなものも、出てきました。浴衣地です。
3本とも頂き物、一番下になっているのは大きな市松に区切られた中に、
藍染の花がはいっているもの、下の右は見たとおりの「まとい」、
左下は表と裏で別染めになっているもの、表は細い竹柄、裏は縞です。
大きな市松は、チビの私には似合わないし、竹&縞は、色目と柄の細かさで、
ちょっと老け気味かな・・でも、もらってからすでに15年くらい経ってる・・。
ちょーどよくなっちゃてるかなー・・。
まといは男物です。こういうのは、難しいですから、のれんにしようかと。
主人?いーんです、あのヒトは。結婚するとき浴衣もじんべも縫って
持ってきたのに、いーーっかいも着てくれないっ・・。
こちらは、すでにいろいろ作った残りです。
一番下の薄青の「麦柄」は、とても気に入って買ったのですが、
少し柄が大きかったのと、当時別の浴衣が何枚かあったので、
ブラウスとキュロットパンツにしました。パンツはヨレボロで
すでにありません。白地の2枚と右下の紺は息子の小さいときの
じんべさんとパンツセットの残りです。左のもの写真ではわかりづらいですが、
「やじろべぇ」の連続柄です。紺地は「とんぼ柄」の綿絽。
そして左下のグリーン地の竹柄は、母からもらったもの、
母が、居間と客間のさかいに丈の短い4枚つなぎののれん、
台所の入り口に丈長のれん、父と二人分のランチョン・マットに、
お茶櫃の上にかけるカバーを作った残りです。
浴衣と言うのは、浴衣以外にも使い道がいろいろあって、
自分では着られないかな・・というような柄があったら
別のものに仕立てるのも楽しいものです。
では、本日は「浴衣」の本来の使用目的だった「おふろ」について。
日本には1300年も前から「サウナ」がありました。
壬申の乱の折に、背中に矢傷を負った大海人皇子のために里人が
「かまぶろ」とよばれる雪国の「かまくら」みたいな形のサウナを作りました。
このふろのおかげで平癒したといわれています。
京都の八瀬というところに復元されたものがあり、
その形を模したお菓子は八瀬名物になっています。
日本のおふろは、この「サウナ」が多く、湿気のない高温のサウナでした。
湯気でやけどをする心配はありませんでしたが、壁などに触れて
やけどをすることがあるため「湯帷子」を着たわけです。
江戸の「湯や」も湯を使う湯やとサウナのふろやがありましたが、
結局いっしょになり「湯や」となりました。
元々江戸は水に恵まれていた土地ではありません。
海が近いので、井戸を掘っても塩分が強くて飲み水にはなりませんでした。
真水の出る深い井戸を掘るには、たいへんなお金がかかりましたから
幕府は多摩川などから「水道管」をひいて「上水」の設備を作ったのです。
人々は、必要なところに「浅井戸」を掘り上水を引いて使いました。
水は貴重だったのです。それと、江戸で怖いものは「火事」でしたから、
たくさん火を使うふろは、家の中には作りませんでした。
贅沢三昧の裕福な商人でも、内風呂はないのが普通だったのです。
今のような舗装がされていない道路が入り組んでいるうえ、
よく風の吹く江戸の町では「土ホコリ」もひどく、
街の人たちは毎日シゴトが終わると「湯や」に通ったわけです。
湯やにはいろいろな種類がありまして、最初は湯女を置いて、
どちらかというと男性の遊興場の傾向がありましたが、
お上が「湯女は3人まで」とか、そのうち「女は置いてはいけない」とか、
いろいろ規制をかけると同時に「おふろ」が老若男女を問わず、
必要なものになっていきましたので、今の「銭湯」に近い形になったわけです。
湯やの2階はいわば「庶民の社交場」で、風呂上りにお茶したり、
囲碁や将棋に興じたり、と健康ランドみたいな場所になっていました。
また今のように一軒の湯やで、仕切りを作って男女の湯をわけるところ、
どちらか専用、時間でくぎっての入れ替制、そして「入り込み」と呼ばれた混浴、
この区切りがないとかあいまいと言うのは「風俗上よろしくない」、と
たびたびお上から禁止令が出ましたが、いまいち徹底されなかったようです。
もともと、昔は今よりおおらかといいますか、「やぁねぇ」と言いながら、
区切りがなきゃしょーがない、と男女で入ってたりしたわけですね。
そういえば、私が20歳くらいからでしょうか、修学旅行で
旅館のお風呂に入るのに「水着持参」と言うのが話題になったことがありました。
人前で裸になる、と言う経験がないから、温泉も入れない・・お気の毒・・。
さて、この湯やですが、蒸気を逃さないために、風呂場の入り口は
「ざくろ口」と呼ばれる低い作り、中は薄暗くあまりよく見えなかったようです。
そこで、あとから入ってきた人は「イナカものが入ります、冷え者が入ります」
と声をかけて入ったそうです。つまり「ホコリだらけです、外からきたので
体が冷えております」と言う意味ですね。そうやって、人とぶつからないように
気を使ったわけです。また、湯やの七不思議のひとつとして、
「女湯の刀掛」かがありました。これは、奉行所の定町周りの同心が、
朝、まだダレもいない女風呂でゆっくり入った・・と言う説と、
男湯には、昼間から湯やで遊ぶ道楽者やご隠居などがくるため、
世間話の多い客の話を女湯に入って聞き取り、世情のことや噂話などを
シゴトに役立てたという説があります。
湯女が禁止されてからは、男の人がふろばで背中を流すとか、
今でいうところのマッサージなどをしたわけですが、
これは「三助」と呼ばれ、常客が付くまではこっぱ拾い(湯を焚くためのまき)
から始まって、年季が入らないとなれないという商売でした。
湯やには、お客が使う「丸い桶」が常備されていましたが、
年間契約すると、それより大きい小判型の「留め桶」を置くことができました。
ボトルいれるようなもので、いわば「マイ・フロオケ」ですね。
さて、浴衣は元は「湯帷子(ゆかたびら)」とよばれるもので、
前述のとおり最初は「サウナ」に入るためのもの、
木綿が普及するまでは「麻」でした。
そのあとは、浴衣は体をふくための「バスローブ」になりました。
ただし、これは身分の高い人の話、庶民は男は「湯褌」女は「湯文字」をつけて
入りましたが、やがて裸で入るようになりました。
そうなると、浴衣は「湯上り着」ということになるわけで、
着替えとして持っていって、お風呂上りにこれをきて帰ったわけです。
白地は昼間から、紺地は夜・・というような使われ方もしていましたが、
結局さわやか、着やすい、洗濯がきく・・と、いいことづくめでしたので
「夏の着物」として定着していったわけです。
また、今は浴衣というと夏しか着ませんが、たとえば雨の日の「雨コートがわり」
或いは旅をするときの「ホコリよけのコート」としても女性はよく使いました。
昔は着古してやわらかくなった浴衣は「赤ちゃんのおしめ」として使われ、
最後は雑巾・・やっぱり、最後まで使い切ったのですね。
さて、今年の梅雨はどんな梅雨でしょうか。
梅雨の間に縫いたいものですが、今年も息子のじんべさんで終わりそうな気配。
とんぼ柄の浴衣地、さがそっと。
読ませて頂いていましたが、コメントは久し振りです。
私が子供の頃にはお風呂屋さんに三助さんがいました。
背中を流してもらうのに、番台でお金を払って木の札を貰い、流し台に置いておくと三助さんが来て背中を流して最後はポンポンポンと音を立てて背中を叩いていました。
その音がお風呂屋さんに響いていつも嬉しく楽しく聞いていました。
勿論私は洗って頂いた事はございません。
髪を洗うのにも洗髪料を払って木札を貰っていた様な・・・
広いお風呂が良いと言って、時々父にお風呂屋さんに連れて行ってもらっていましたから幼稚園から小学1・2年程度だと思うのですが・・・
三助さんはいつごろ無くなったのかしら。
現代風呂事情、
田舎では各町がきそって立派な風呂を作って利用しやすいことになってます。我が家に24時間風呂を持ちながら、かく町の風呂にいくのが大好きで、これがどうかするとかけながし、天然温泉まであるんです。立派な露天風呂は当たり前、料金500円から800円ぐらいまで、一週間に一回ぐらいはでかけてます。
最近の一番てっとりばやいレジャーです。浴衣、帰りに着ればいいのですが、仕事さぼっていったりするので、そんな格好はできません。
私は初めて銭湯に行ったのは子供が
生まれてからでしたね。
お風呂修理で仕方なく行ったのですが
勝手がわからずうろうろ、おろおろ
ほんと落ち着きませんでした。
子供の頃はやはり母屋から少し離れた
ところにお風呂とトイレがありお風呂は
五右衛門風呂でした。
今の若い方は、入り方知らないかもしれ
ませんね。一人お風呂に入るたび、
おかげんどうですかなんて聞きに行って
薪をくべたりしていましたよ。
そのことを思うと今は極楽です。
因幡国は天然温泉だらけの国なので、ご近所の銭湯も全部天然温泉です♪小さい頃に母と通った銭湯も温泉でしたから、わたしは温泉育ちなのですよ♪江戸時代の文献にも温泉場、湯治場という記録がありましたので、因幡国では温泉の銭湯が一般的だったようですね
私の子供の頃にもいましたよ。背は低いけどガッシリしたおじちゃんで、昼間お風呂屋さんの裏道を通ると、大きな廃材を軽々持ち上げて運んでました。本当に「黙々と・・」というおじちゃんだったなぁ・・。洗髪の木札もなんとなく覚えてます。そうすると一回り大きくて底上げしたような「桶」が使えたような・・。小6くらいで我が家が内風呂になってからもおじちゃんはずいぶん長くやっていた記憶ありますねぇ。その銭湯、まだあるんですよ、いってみようかなぁ。
風呂敷というより、ものを包む布・・というなら、正倉院御物の中にもあるくらい古いものがあります。「風呂敷」というのであれば、足利義満が大きなお風呂に客を招いたときに使われたという話があるそうです。いずれにしても、おふろはそのころは「サウナ」ですから、どうしても湯帷子は必要であったと思います。江戸時代の「湯や」には、いまでいうところの「ロッカー」がありましたが、そこまで持っていくには、やはり風呂敷は入り用だったと思いますよ。私の子供のころの銭湯は「かご」でしたねぇ。懐かしいです。
陽花様
京都の伯母の家が「五右衛門風呂」で、最初は「伯母が作った(すごい!)というもので、やはり母屋からは「外」同然のところ、後年家を建て直してからも、ずっと五右衛門風呂でした。そういえば入っていると、外から「熱ないかぁ、どぉやぁ」と声がかかりましたっけ。あのフタを沈めるのがなんともおもしろくて、大好きでした。
りさこ様
なんとゼータクなこと!土地柄ですねぇ。温泉に縁のない私らの地域では、なんやかやと名前の付いた「薬湯」の日だけが楽しみでしたね。いやー、因幡のお国へは、いつか行くつもりでいますが「銭湯めぐり」ってのもできますかね。
菊?に唐草、竹と縞の両面は長板でしょうか?
私の祖父母の家は温泉町にあったので、皆さん大概は共同温泉にいっていました。内風呂は五右衛門風呂でした。下駄はいて入るんですが、泣きそうなくらい熱くて、まっかっかになっちゃうので、もっぱら温泉のほうでした。記憶がおぼろげなのですが、私が多分5歳くらいまでは、男風呂にはちっちゃいおじいちゃんがいて、旦那方の背中を流してたような気がします。午前中に行くと、せっせとお風呂を磨いてましたね。うちのおじいちゃんは、風呂上りに麻の帷子を羽織ってうちわを使っていましたよ。ぺたっとくっついたかと思うと、あっという間に乾くのが面白くて、じーっとみてました。お決まりのフルーツ牛乳買ってもらって。
長板中型で、母からのもらい物、母はもう少し濃い色が良かったようで、(自分よりは)若向きの色だから・・とくれたものです。今は長板も数が減りましたね。おまけに「お高い」です。
温泉の近くにおすまいのかたは、うらやましいです。最近あちこちにある「おふろランド」みたいなところ、一度だけ行きましたが、銭湯育ちにはあの「大きな湯船」は魅力ですねぇ。銭湯のあと、私は「ラムネ」が好きで、お風呂屋さんを出て少しのところにある「氷や」さんで、カキ氷とかラムネとか・・。冬は「今川焼きやさん」でした。
人には優しく、穏やかな人でしたが、政治家には厳しかったようで、テレビの政治討論会を見て、怒ってました(笑)
私の所属する囃子保存会では毎年正月2日に町内を獅子舞で巡りますが、その中に2軒銭湯があります。
その頃の正月での銭湯の休日は3日ですので、獅子舞に行くと朝湯を楽しんでいる客もおりまして、私らは面をつけて女湯の中で踊ったりしたものでした。
不思議なもので、面を付けなければ追い出されたところでしょうが、面を付けて踊っていると見られても平気なんですね!
数年前からは、休日になってしまい誰もいない脱衣所で寂しく踊っております。(笑)
江戸時代の一般庶民の家では、幕府から度重なる大火の原因になるとの理由から内風呂を作る事を禁止されていた時期もありましたね。
「三助」と言うのは、ほんとになるのがたいへんだったそうです。一番無防備になるところだから、体のほうも、また「金品」のほうも何かあってはいけませんからとにもかくにも「信用第一」ということだったんですね。それにしても、最近は銭湯もお正月休みなんですね。それでなくとも「呉服」と同じで「利用する人」が減ってるし、最近のおふろランドみたいなところに、お客をとられるのかもしれません。大きなおふろがいっぱいあるのもいいけど、あの「銭湯」の雰囲気は独特で、大好きなんですけどねぇ。脱衣所でさびしく踊る千様・・泣けますぅ。