オリンピックは楽しいです。
私にとって子供や孫のような年頃の若い人たちが、一つのことに向かって力の限りを尽くしています。
メダルがとれようがとれまいが、ちっともかまわない…勝っても負けても、涙涙…。
浮き立つ心をありがとう…と思います。
昨夜、日付が変わるころに、カレンダーを見てはっと思い出しました。
8月6日だ…。
毎年、この日と9日、15日は、姿勢をただし、眼を閉じて、心鎮める時間を持つようにしています。
あの日一瞬にして、命を絶たれた人、家族をなくした人、家も何もかも失った人がいました。
そしていまだにそのための病を背負う人もいます。
私より、ほんの少し早く生まれただけで、かの地に暮らしていたというだけで、
大きな運命の分かれ道に、知らないうちに立たされてしまったたくさんの還らぬ御霊。
日本は、世界は、申し訳ないことに、まだまだ子供です。
忘れないようにしています。それだけは続けています。
世の中は便利になりました。
今、この瞬間に1万キロ以上も離れた、夜と昼まで違う遠いところで行なわれている、
メダルをかけた真剣勝負を、家の座敷にいながらにして観ることができるようになりました。
先人たちの、たくさんの積み重ねの上に訪れた今のしあわせです。
その積み重ねの中に、あの日の犠牲者の血も涙も、無念の思いも、あることを忘れてはならないと、
それだけは、毎年必ず、こころに刻んでいます。
小さな個人に何ができるのか、なかなか明確な答えは出ません。
原発事故で、いまだに放射能が高く近づけないところがあります。
原爆と原発は違いますが、その中の「毒」は同じです。
爆弾で焼き尽くされようが、見た目はただののっぱらになろうが、放射能という眼に見えない悪魔のために、
人が逃げなければならないという現実は、同じなのだということを、いまきちんと受け止めています。
静かな、物言わぬ悪魔が、人の体にどれだけの恐怖を、一瞬にして植えつけるのか、
震災以来、私は「朽ちていった命」という本を、いつも手元においています。
あの「東海村」で臨界事故にあい、放射線で体を貫かれた人の、なくなるまでの壮絶な闘病記録です。
もちろん、原爆と同じものではないし、今流れている放射能を浴びることとも違いますし、
さまざまな状況も違いますが、放射能、放射線というものと、人はどう向き合わねばならないのか、考えさせられます。
私は今日も、これからいつものように、せっせと掃除をし、ご飯のしたくにおわれ、
お手玉をチクチクと縫い、テレビの中の白熱戦に、拍手を送るのでしょう。
そうやってすごせることの幸せの足元を、見失わないようにしようと思います。
今朝も「あさになったので」まどをあけました。今日はちょっと曇り空。
ずっと毎日、こうして窓があけられますように、私の子供たちの代も孫の代もひ孫の代も…。
それが答えになるように、忘れないことだと思っています。
何故訪れないのでしょうか?
人間の本質に戦う事を欲する潜在意識があるに違いありません。
だからこそ、強い理性で押さえつける必要があります。
死やそれにまつわる悲しい出来事を繰り返し思い出さないとその理性は萎んでしまうと思います。
行動なくして祈るだけで平和は来ませんが、世界中にある戦争に何も出来ない自分が苛立たしい気がします。
おっしゃるように、それでなくとも「闘争本能」みたいなものは、
人間のみ「本能以外の欲」としても現れます。
浅ましいことです。
だからこそ律することの大切さを思うのに、
昨今は「誰でもいい」と殺すアホがいます。
人の心の乾きを思います。
祈る以外にできることはないかと、それも思うこの季節です。