よそ様のブログでも、七五三の話題が出始めまして…。
かわいいですよねぇ、小さい子の着物姿。
だからというわけではなく、いえほんとに…たまたまHPにのせる着物とか
あれこれ物色していましたら、小物の引き出しの奥に風呂敷に包まれたものが…
あら懐かしい、私の七五三に着た着物の解きです。
こちらへ越してきてしばらくしてから、バサマが「記念に持っとき」と
届けてくれたものでした。
こんな色の着物です。実際はもっと濃いです。
地模様は織りの鹿の子の間に花籠、です。
この着物は私より母のほうが思い出があると思います。
実は私の七五三は、本番は洋服でした。
千歳あめを引きずるようにして写っている写真があります。
私の三歳ですからね、昭和28年のことです。
母が京都から横浜に来たのは終戦直後のこと、
まだ横浜は焼け野原で、あちこちに今で言うところの
「被災者住宅」の代わりのようなものがあり、そこで焼け出された人や、
疎開先から戻った人、やっと戦争から帰ってきた人などが、
肩寄せあって、ひしめき合って暮らしていたそうです。
まだまだみんな貧しくて、私にも着物は着せてやれなかった、と言ってました。
そんなときに、母方の祖母が京都からはるばると突然家に来たのだそうです。
やってきた祖母は、たった一人の娘に着物も着せられないなんて…と、
自分が着てきた一張羅の絹のじゅばんを解いて
「みやこ染め」で染めて、この着物を縫ってくれたのだそうです。
祖母はその来訪で10日ばかり滞在し、自分の着てきた着物で父のどてらを作り、
絹物をみんな置いて、自分は着替えに持ってきた木綿の着物で
京都へ帰っていったそうです。祖母はそれからすぐあとに亡くなりました。
結局、私が生前の祖母に会ったのはその来訪のときだけでした。
翌年のお正月に両親は「せっかくおばぁちゃんが縫ってくれて、
『お正月にも着ぃや、ちゃんと初詣につれてってもらいや』と
そう言っていたから」と、私に着物を着せて、
当時住んでいた近くの「弘明寺観音(ぐみょうじかんのん)」に行きました。
トップの写真はそのとき写したものです。
両親は、私に七五三当日に着物を着せてやれなかったので、
そのあといろいろがんばって、帯を買い小物をそろえたそうです。
はいているのは黒塗りのポックリです。
写真があるせいでしょうか、小物についての記憶もまだあります。
こちらはその「初詣」の日にとったものです。
帯は金銀のみの子供用作り帯、帯揚げはまだ現存します。
母の着物は、うすーい紫に青か緑で縞と花を染めたもの。
羽織がなくて、はんてん着ています。
この着物、そのあと一回着たでしょうか。
この初詣の年、やっと被災者住宅から市営住宅への転居が進み、
世の中も少しずつ落ち着いて余裕も生まれてきたのでしょう、
30年のお正月の着物はこんなです。
これも覚えています。オレンジの地色に鶴とか花とか…。
帯と小物は、まだおんなじもの使ってますね。
今気がつきましたが、後ろの掛け軸(これ、床の間なんかじゃありまへんでぇ
タンスの脇のあいたとこどすがな)の絵「草紙洗い小町」ですねぇ。
さて、祖母の縫った着物はその後しまわれたままで、一度も眼にしませんでした。
これを母から風呂敷ごと受け取ってちらっと中を見たとき、
懐かしいなぁというのも、もちろんありましたが、あの繰り回し大得意の母が、
よくほかのものにしてしまわなかったものだと思ったのです。
でも、広げてみてわかりました。
実は、おばーちゃんが解いて染めて…とやってくれたときから、
これはもう相当くたびれていたのです。
よくよく広げてみれば、あちこちツギだらけ。
縫い跡ももうヒケがひどくて向こうが見えています。
こんな感じ、
考えてみれば、母の実家も貧しい暮らしでした。
農家でしたから、戦時中もかろうじて食べ物はなんとかなったようですが、
イナカには当時三世帯、10人以上の家族がいましたから暮らしそのものは、
タイヘンだったと思います。そんな中、一人遠くに嫁いだ娘が心配で、
孫の顔が見ておきたくて、一枚しかない絹のじゅばんと絹の着物を
着てきたのでしょう。それとても新品ではなく、あちこち繕ったもの。
ですから繕った布ごと染まっています。
身頃も袖もちゃんと残っていますが、どれもみな反幅がありません。
いたんだところを切り取ってつなげたのでしょう。
祖母は和裁はもちろんですが、見よう見まねで洋裁も編み物も
やったヒトだったそうですから、
着物の繰り回しはお得意だったでしょうが、ボロボロのものを
いかに三歳のものといえども、表から見てわからないように縫い合わせるのは、
さぞタイヘンだったと思います。広げて見て、初めてそれがわかりました。
そんな思いをして縫ってくれた着物ですから、
いくら器用な母でも、これをさらにいいとこ取りして、
何か別のものに作り替えるのは、できなかったのだと思います。
私も残しておいてくれてよかったと思います。
世の中がかわって、一億総中流なんていったのももうずいぶん前のこと、
ゆとりもうまれ、七五三になると新品の振袖や羽織袴を着て、
慣れないポックリや草履、雪駄で神社に向かうかわいい子供たちが見られます。
親の思いおじいちゃんおばぁちゃんの思いを一心に背負って、
誇らしげな子供たちは、いつの時代も夢いっぱいです。
かつて私に向けられた両親と祖母の思いも、全く同じだったでしょう。
期待に応えるような、りっぱなヒトにはなれてませんが、
とりあえず私は元気、夢もまだまだあり、暮らしもそこそこ…。
古ぼけた「元じゅばん」の私の着物、これからも大事にとっておこうと思います。
おばーちゃーん、あたし、シアワセだからねー。
かわいいですよねぇ、小さい子の着物姿。
だからというわけではなく、いえほんとに…たまたまHPにのせる着物とか
あれこれ物色していましたら、小物の引き出しの奥に風呂敷に包まれたものが…
あら懐かしい、私の七五三に着た着物の解きです。
こちらへ越してきてしばらくしてから、バサマが「記念に持っとき」と
届けてくれたものでした。
こんな色の着物です。実際はもっと濃いです。
地模様は織りの鹿の子の間に花籠、です。
この着物は私より母のほうが思い出があると思います。
実は私の七五三は、本番は洋服でした。
千歳あめを引きずるようにして写っている写真があります。
私の三歳ですからね、昭和28年のことです。
母が京都から横浜に来たのは終戦直後のこと、
まだ横浜は焼け野原で、あちこちに今で言うところの
「被災者住宅」の代わりのようなものがあり、そこで焼け出された人や、
疎開先から戻った人、やっと戦争から帰ってきた人などが、
肩寄せあって、ひしめき合って暮らしていたそうです。
まだまだみんな貧しくて、私にも着物は着せてやれなかった、と言ってました。
そんなときに、母方の祖母が京都からはるばると突然家に来たのだそうです。
やってきた祖母は、たった一人の娘に着物も着せられないなんて…と、
自分が着てきた一張羅の絹のじゅばんを解いて
「みやこ染め」で染めて、この着物を縫ってくれたのだそうです。
祖母はその来訪で10日ばかり滞在し、自分の着てきた着物で父のどてらを作り、
絹物をみんな置いて、自分は着替えに持ってきた木綿の着物で
京都へ帰っていったそうです。祖母はそれからすぐあとに亡くなりました。
結局、私が生前の祖母に会ったのはその来訪のときだけでした。
翌年のお正月に両親は「せっかくおばぁちゃんが縫ってくれて、
『お正月にも着ぃや、ちゃんと初詣につれてってもらいや』と
そう言っていたから」と、私に着物を着せて、
当時住んでいた近くの「弘明寺観音(ぐみょうじかんのん)」に行きました。
トップの写真はそのとき写したものです。
両親は、私に七五三当日に着物を着せてやれなかったので、
そのあといろいろがんばって、帯を買い小物をそろえたそうです。
はいているのは黒塗りのポックリです。
写真があるせいでしょうか、小物についての記憶もまだあります。
こちらはその「初詣」の日にとったものです。
帯は金銀のみの子供用作り帯、帯揚げはまだ現存します。
母の着物は、うすーい紫に青か緑で縞と花を染めたもの。
羽織がなくて、はんてん着ています。
この着物、そのあと一回着たでしょうか。
この初詣の年、やっと被災者住宅から市営住宅への転居が進み、
世の中も少しずつ落ち着いて余裕も生まれてきたのでしょう、
30年のお正月の着物はこんなです。
これも覚えています。オレンジの地色に鶴とか花とか…。
帯と小物は、まだおんなじもの使ってますね。
今気がつきましたが、後ろの掛け軸(これ、床の間なんかじゃありまへんでぇ
タンスの脇のあいたとこどすがな)の絵「草紙洗い小町」ですねぇ。
さて、祖母の縫った着物はその後しまわれたままで、一度も眼にしませんでした。
これを母から風呂敷ごと受け取ってちらっと中を見たとき、
懐かしいなぁというのも、もちろんありましたが、あの繰り回し大得意の母が、
よくほかのものにしてしまわなかったものだと思ったのです。
でも、広げてみてわかりました。
実は、おばーちゃんが解いて染めて…とやってくれたときから、
これはもう相当くたびれていたのです。
よくよく広げてみれば、あちこちツギだらけ。
縫い跡ももうヒケがひどくて向こうが見えています。
こんな感じ、
考えてみれば、母の実家も貧しい暮らしでした。
農家でしたから、戦時中もかろうじて食べ物はなんとかなったようですが、
イナカには当時三世帯、10人以上の家族がいましたから暮らしそのものは、
タイヘンだったと思います。そんな中、一人遠くに嫁いだ娘が心配で、
孫の顔が見ておきたくて、一枚しかない絹のじゅばんと絹の着物を
着てきたのでしょう。それとても新品ではなく、あちこち繕ったもの。
ですから繕った布ごと染まっています。
身頃も袖もちゃんと残っていますが、どれもみな反幅がありません。
いたんだところを切り取ってつなげたのでしょう。
祖母は和裁はもちろんですが、見よう見まねで洋裁も編み物も
やったヒトだったそうですから、
着物の繰り回しはお得意だったでしょうが、ボロボロのものを
いかに三歳のものといえども、表から見てわからないように縫い合わせるのは、
さぞタイヘンだったと思います。広げて見て、初めてそれがわかりました。
そんな思いをして縫ってくれた着物ですから、
いくら器用な母でも、これをさらにいいとこ取りして、
何か別のものに作り替えるのは、できなかったのだと思います。
私も残しておいてくれてよかったと思います。
世の中がかわって、一億総中流なんていったのももうずいぶん前のこと、
ゆとりもうまれ、七五三になると新品の振袖や羽織袴を着て、
慣れないポックリや草履、雪駄で神社に向かうかわいい子供たちが見られます。
親の思いおじいちゃんおばぁちゃんの思いを一心に背負って、
誇らしげな子供たちは、いつの時代も夢いっぱいです。
かつて私に向けられた両親と祖母の思いも、全く同じだったでしょう。
期待に応えるような、りっぱなヒトにはなれてませんが、
とりあえず私は元気、夢もまだまだあり、暮らしもそこそこ…。
古ぼけた「元じゅばん」の私の着物、これからも大事にとっておこうと思います。
おばーちゃーん、あたし、シアワセだからねー。
それが普通の人間の普通の心情ではないでしょうか。
可愛い孫の為に自分を犠牲にする愛情は何にも代え難い宝物です。
物心付いた私には父方の婆様しかいませんでしたが、死ぬ直前私を指名して介護を依頼されました。
娘たる叔母達は憤慨していましたが、やはり孫が可愛かったのでしょう。
トンボさんのお婆さま様の気持ちが良く分かります。
それにしても着てきた絹物を10日あまりで
解いて染めて縫って(しかも2枚も)
すごいですね!
私はそれほどのことが孫にしてやれるだろうか。
そう言えば、自分、娘いないし・・・
息子の子にそれすると嫁はんに嫌われそうだし。
テレビでは世界的食料不足予想の話をしています。
手仕事ができるということは
凄いことですから、これからも少しずつ
昔の人を見習っていこうと思います。
こちらのブログは大変参考になりますのでちょくちょく覗き、学ばせていただいておりますが、コメントは初めてです。とても良いお話で、思わず一言寄せたくなりました。
私も祖母から色々なものを譲り受け大切にしておりますが、この様にお祖母様の愛がありありと感じられるお品、大変貴重だと存じます。画像を見ながら胸打たれておりました。これはどの様な高価な着物や帯よりも「宝」なのではないでしょうか。
どうぞこれからも大切になさってください。
京都から横浜まで・・・今の時代とは全く
交通事情も違ったでしょうに、読んでいて
胸打たれました。
お母様が繰り回しせずに大切にとっておかれたのは、親の愛がいっぱい詰まった着物だったからでしょうね。
大切に残してもらって、おばぁさまもきっと喜んでおられると思います。
解いて染めて縫って、ということもすごいですけど、ご自分の絹物を全て置いていかれたという件を拝見して、涙が出てきてしまいました。
私にこういうことができるかなぁ・・・・
あの戦後のような困窮生活を送ることはもう無いでしょうけれど、気持ちとして、ものすごく大きな物を感じました。
良いお話しをありがとうございました。
当時の大人たちの愛情がいっぱいつまった
大事な一着ですね。
なんでもお金で着飾れる時代がさかだちしても
絶対できない思い出にほんのりしました。
こんなおとなになりたいものです。
(って、すでにオトナ)
素晴らしいおばあさまですね。
とんぼ様 チョー可愛いし♪こんなに可愛ければ 飛んできますわ!私は貧民なのでなるべく手作りのモノを姪や知人のお嬢さんに差し上げてます。。。。哀
お祖母様やお母様の深い愛を感じますね。
トンボさんにも受け継がれているのでしょうね。
じわ~ん 老人性いやいや若年性涙腺軟弱症です。
戦時中は父方の実家に疎開していました。
母方の祖母がお世話になっているからと、いろいろな品を
もってはご挨拶かたがた私達に会いにきてくれて
いました。きっと娘が心配だったのでしょう。
二日ぐらいで帰っていくのですが、ミシン仕事を
している母のそばで一緒に手伝っていたのを
思いだしました。
みんなが協力しあい、譲り合いながら貧しくとも
心を通わせ寄り添っていたと思います。
とんぼさんのおばあ様の孫に寄せる愛と
お母様を思う母の気持ちはすばらしく
感動しました。
「なにもいえねえ!」です。
(京都の人は格別かもしれないけれど、)身内に寄せる思いの深いこと、着物に込める思いの強いことは、私には想像も及ばないほどです。
「衣食住」にシンから向き合うことの大切さ、大事な人に幸せであってほしいと思う心の深さ・ですね。言葉にするとちと照れくさいですが…。
いいお話を聞かせてくださってありがとうございます。