毎年この時期には「赤穂浪士モノ」の羽裏や襦袢などを
お見せしているのですが、さすがにネタ切れ近し…ですし、
たまたま今日これが出てきたので、今日は同じ江戸時代の別の「騒動」のお話。
羽裏なのですが、ドンパ(緞子の羽裏)のため、どうしてもテカテカと光り、
写真が見づらいです。
ちなみに、肩の辺りや袖裏は「鍔柄」…。状態いいんですが、
女性ものにつけるには重さがどうかなぁと…。
絵は「丸橋忠弥」ですね。江戸城を偵察しております。
キセルを立てて、距離とか高さを測っているのでしょうかねぇ。
丸橋さんの詳しい経歴は省きますが、宝蔵院流槍の遣い手で道場を開いてました。
横顔のアップです。
「丸橋忠弥」といっても、ご存知ないかたのために…。
彼は「由井正雪のクーデター計画」に参加した人。
「慶安の変」といいます。これは、三代将軍家光が没した直後、
四代「家綱」がまだ子供だったため、江戸城を攻めて将軍を抑え、
幕府転覆をしよう企てたもの。密告者によって計画が漏れ、
由井正雪も彼も、処刑されました。
ただこのクーデターは、単純に自分が大将になるんだー、
というようなものではありません。
起きたのは1651年ですから、この時期はまだ家康の天下統一からは、
年月が浅いわけです。どんな時代だったかと言いますと、
幕府がキリキリと全国の大名たちに眼を光らせていた時代です。
平定したとはいえ、江戸にいて全部の土地を監視できるわけではありませんから、
疑わしいものや、排除したいと思うものは理由をつけて改易などをしていました。
外様大名などはアンタ関が原のあとからでしょ、信じらんないのよね…
なんて感じかしら…。
ともかく、この時代大名たたき、大名潰しが結構あったんですね。
この時代を「武断政治」という…なんてやりませんでした?
たとえば武家は跡継ぎを決めると、幕府に「これが跡継ぎです」と届け、
許可をもらうことに決めていました。
「末期(まつご)養子の禁止」、なのですが、末期養子というのは、
当主が突然の病などで倒れたりして、急遽「これを跡継ぎに」というような場合です。
子供がいなければ、しかるべき子供を養子として、跡継ぎにするわけですが、
幕府はこれを勝手にやることを禁じたわけです。
今とは時代が違い、一般的な平均寿命も短いし、
死産や子供が小さいうちに亡くなる確率は、今よりずっと高かったのです。
跡継ぎというのは本当に大切だったんですね。
だから「跡継ぎが決まっていない」もしくは「いない」ということで、
誰かが適当に決めてしまったり、場合によっては周囲の人間が
自分の都合のいい人間を跡継ぎとしたり、そんなことのないように。
当主がきちんと自分の意思で「この子です」と証言することが必要、
と決めたわけです。
つまり、届けてなければ「跡継ぎナシ」とみなされ、領地を没収されたんですね。
この「改易」がやたらと行われると、つまり会社の倒産と同じことで、
突然社長はなくなり、一家離散?社員は全員路頭に迷う…
失業者(浪人)が一度にあふれ出るわけです。
昔は再就職なんてやたらできるわけじゃありませんから、
当然巷に失業者があふれ、浪人たちが身過ぎ世過ぎのために、
犯罪者になったりもあり、治安も悪くなったりもしたわけです。
結局は「政治が悪い」ということになるわけで、
由井正雪は塾を開き、今の政治は間違っとる…といったことで、
浪人たちに支持されたわけです。
おおざっぱに言いますと、まず江戸城に火攻めをかけ、
避難してきた老中などお偉いさんを倒し、まだ子供の将軍を誘拐する。
丸橋忠弥は、その「東京拠点のリーダー」というわけです。
由井正雪ともう一人なんといったかな「金井」とかいう人だったと思いますが、
こちらは駿府と京都で決起する…そして御所の帝を奉って、
徳川将軍を倒す「勅命」をとろうとしたわけです。
勅命とは「帝のお言葉」ですから、堂々と討ち取りにいけますから。
つまり「同時多発テロ」の予定だったのが、密告者によりすべて頓挫したわけです。
クーデター失敗で、何も起こらなかったかというとそうでもなくて、
実はほかにも不穏な計画があったりしまして(これまた密告者で頓挫)、
幕府も「やたら締め付けりゃいいってもんじゃないよねぇ」…と、
いろいろ見直しをする、そのきっかけとなりました。
実際には、将軍サマはまだ子供でしたから、おそばに仕えた叔父の保科 正之や
松平信綱などがブレーンとなって補佐したわけです。
実際に改革を進めたのはこの人たちだったわけですね。
さて…ちょっとだけでも「赤穂浪士」のお話を…。
元禄赤穂事件は、この「慶安の変」から、だいたい50年くらいあとのことです。
子供だった家綱さんが跡継ぎがなく、40歳くらいだったかで亡くなって
弟であった綱吉さんが将軍サマになったわけです。
綱吉さんといえば「生類憐みの令」で有名ですが、
この人「儒教」の教えに忠実でして、いろいろ改革されてきていた
武断政治から「文治政治」といわれる
要するに「力じゃなくて頭だよ」的な政治を更に進めました。
善政もしていたんですよ。
ただ、けっこうエキセントリックだったりもしますし、
最初のころは善政してたのに、後年「生類…」なんてのも作りましたしね。
人間ってかわるのねぇというところがあります。
浅野内匠に、即日切腹を申し付けたのも綱吉さんですが、
朝廷を大切に思っていた綱吉さんが、当日は朝廷からの使者を
お迎えする日だったのに、そんな日にこんなことして!という怒りであったとか。
元々浅野さんも、実はかんしゃく持ちだったとか言われています。
今、眼にし耳にする「忠臣蔵」は、庶民の目から見て、
幕府に一矢報いた浪士たちに肩入れしての物語ですから、
たぶんに脚色も創作もあるわけで、実際のところ「松の廊下の刃傷」の原因は
今もわかっていません。浅野さんが吉良さんに斬りかかったとき
「この前の恨み覚えてるだろがぁ!」とどなったってのは本当らしいですけどね。
何の恨みかしりませんが、それをやったら自分は切腹だし、
お家は取り潰されるし、家族はバラバラ、家臣は失業…そんなことは
よくわかっていたはずなのに、やっちゃったんですから、
よほどの恨みか、もしくはイマドキふうに言えば「キレやすいタイプ」だったのか。
いずれにしても、その一瞬のブチきれで、大石さん以下瞬時に失業…だったわけで。
情報や意思の疎通が今のように便利でない時代、
国許の武士たちや江戸詰めの武士やいろんな考えの人がいたでしょうに、
長い時間をかけて討ち入を成功させたのは、やはりすごいと思います。
だって、密告者一人いたら終わりですからね。
将軍というものも、安寧に過ぎていったわけではなく、
たとえばかの家綱さんは、子供だったから叔父さんや見識者のブレーンに頼り、
政治をてつだってもらったわけですが、綱吉さんはそれを嫌って
「自分でやる」という意識が強くなったんですね。
特に家綱さんのブレーンだった大老「酒井 忠清」さんは、
なんかお気に召さなかったんですかねぇ、即刻リストラしました。
文字で書けばこの一行ですが、実際にどうしてそうだったか、は、
いろいろ深いものがあるわけでしょうね。(知りませんけど)
今の政治でも、こちらからみれば「そんなのアンタたちのしがらみでしょ」と
そう思えるようなことでも、結局はそれがあって引っ張られたり落ちてったり。
ようは、ちーとも変わってないってことですよね。
あたしゃあの「小沢軍団中国大観光紀行」を見て、
あれっダレがそーりだっけ…と思っちゃいました。
さて、世もふけてまいりました。かの夜でしたら、
そろそろ皆がそれぞれに打ち合わせどおり、装束など調えて、
決行に向けて気持ちを昂ぶらせていたことでしょう。
実際の討ち入りは夜明け前ですから、実は15日ですが、
当時は「夜明けからがその日」でしたから、明日の朝までは14日なんですよ。
それでは、今夜は彼らの偉業をしのんで…赤穂のお塩で白菜の塩漬けを…
これから作ります、ははは。
お見せしているのですが、さすがにネタ切れ近し…ですし、
たまたま今日これが出てきたので、今日は同じ江戸時代の別の「騒動」のお話。
羽裏なのですが、ドンパ(緞子の羽裏)のため、どうしてもテカテカと光り、
写真が見づらいです。
ちなみに、肩の辺りや袖裏は「鍔柄」…。状態いいんですが、
女性ものにつけるには重さがどうかなぁと…。
絵は「丸橋忠弥」ですね。江戸城を偵察しております。
キセルを立てて、距離とか高さを測っているのでしょうかねぇ。
丸橋さんの詳しい経歴は省きますが、宝蔵院流槍の遣い手で道場を開いてました。
横顔のアップです。
「丸橋忠弥」といっても、ご存知ないかたのために…。
彼は「由井正雪のクーデター計画」に参加した人。
「慶安の変」といいます。これは、三代将軍家光が没した直後、
四代「家綱」がまだ子供だったため、江戸城を攻めて将軍を抑え、
幕府転覆をしよう企てたもの。密告者によって計画が漏れ、
由井正雪も彼も、処刑されました。
ただこのクーデターは、単純に自分が大将になるんだー、
というようなものではありません。
起きたのは1651年ですから、この時期はまだ家康の天下統一からは、
年月が浅いわけです。どんな時代だったかと言いますと、
幕府がキリキリと全国の大名たちに眼を光らせていた時代です。
平定したとはいえ、江戸にいて全部の土地を監視できるわけではありませんから、
疑わしいものや、排除したいと思うものは理由をつけて改易などをしていました。
外様大名などはアンタ関が原のあとからでしょ、信じらんないのよね…
なんて感じかしら…。
ともかく、この時代大名たたき、大名潰しが結構あったんですね。
この時代を「武断政治」という…なんてやりませんでした?
たとえば武家は跡継ぎを決めると、幕府に「これが跡継ぎです」と届け、
許可をもらうことに決めていました。
「末期(まつご)養子の禁止」、なのですが、末期養子というのは、
当主が突然の病などで倒れたりして、急遽「これを跡継ぎに」というような場合です。
子供がいなければ、しかるべき子供を養子として、跡継ぎにするわけですが、
幕府はこれを勝手にやることを禁じたわけです。
今とは時代が違い、一般的な平均寿命も短いし、
死産や子供が小さいうちに亡くなる確率は、今よりずっと高かったのです。
跡継ぎというのは本当に大切だったんですね。
だから「跡継ぎが決まっていない」もしくは「いない」ということで、
誰かが適当に決めてしまったり、場合によっては周囲の人間が
自分の都合のいい人間を跡継ぎとしたり、そんなことのないように。
当主がきちんと自分の意思で「この子です」と証言することが必要、
と決めたわけです。
つまり、届けてなければ「跡継ぎナシ」とみなされ、領地を没収されたんですね。
この「改易」がやたらと行われると、つまり会社の倒産と同じことで、
突然社長はなくなり、一家離散?社員は全員路頭に迷う…
失業者(浪人)が一度にあふれ出るわけです。
昔は再就職なんてやたらできるわけじゃありませんから、
当然巷に失業者があふれ、浪人たちが身過ぎ世過ぎのために、
犯罪者になったりもあり、治安も悪くなったりもしたわけです。
結局は「政治が悪い」ということになるわけで、
由井正雪は塾を開き、今の政治は間違っとる…といったことで、
浪人たちに支持されたわけです。
おおざっぱに言いますと、まず江戸城に火攻めをかけ、
避難してきた老中などお偉いさんを倒し、まだ子供の将軍を誘拐する。
丸橋忠弥は、その「東京拠点のリーダー」というわけです。
由井正雪ともう一人なんといったかな「金井」とかいう人だったと思いますが、
こちらは駿府と京都で決起する…そして御所の帝を奉って、
徳川将軍を倒す「勅命」をとろうとしたわけです。
勅命とは「帝のお言葉」ですから、堂々と討ち取りにいけますから。
つまり「同時多発テロ」の予定だったのが、密告者によりすべて頓挫したわけです。
クーデター失敗で、何も起こらなかったかというとそうでもなくて、
実はほかにも不穏な計画があったりしまして(これまた密告者で頓挫)、
幕府も「やたら締め付けりゃいいってもんじゃないよねぇ」…と、
いろいろ見直しをする、そのきっかけとなりました。
実際には、将軍サマはまだ子供でしたから、おそばに仕えた叔父の保科 正之や
松平信綱などがブレーンとなって補佐したわけです。
実際に改革を進めたのはこの人たちだったわけですね。
さて…ちょっとだけでも「赤穂浪士」のお話を…。
元禄赤穂事件は、この「慶安の変」から、だいたい50年くらいあとのことです。
子供だった家綱さんが跡継ぎがなく、40歳くらいだったかで亡くなって
弟であった綱吉さんが将軍サマになったわけです。
綱吉さんといえば「生類憐みの令」で有名ですが、
この人「儒教」の教えに忠実でして、いろいろ改革されてきていた
武断政治から「文治政治」といわれる
要するに「力じゃなくて頭だよ」的な政治を更に進めました。
善政もしていたんですよ。
ただ、けっこうエキセントリックだったりもしますし、
最初のころは善政してたのに、後年「生類…」なんてのも作りましたしね。
人間ってかわるのねぇというところがあります。
浅野内匠に、即日切腹を申し付けたのも綱吉さんですが、
朝廷を大切に思っていた綱吉さんが、当日は朝廷からの使者を
お迎えする日だったのに、そんな日にこんなことして!という怒りであったとか。
元々浅野さんも、実はかんしゃく持ちだったとか言われています。
今、眼にし耳にする「忠臣蔵」は、庶民の目から見て、
幕府に一矢報いた浪士たちに肩入れしての物語ですから、
たぶんに脚色も創作もあるわけで、実際のところ「松の廊下の刃傷」の原因は
今もわかっていません。浅野さんが吉良さんに斬りかかったとき
「この前の恨み覚えてるだろがぁ!」とどなったってのは本当らしいですけどね。
何の恨みかしりませんが、それをやったら自分は切腹だし、
お家は取り潰されるし、家族はバラバラ、家臣は失業…そんなことは
よくわかっていたはずなのに、やっちゃったんですから、
よほどの恨みか、もしくはイマドキふうに言えば「キレやすいタイプ」だったのか。
いずれにしても、その一瞬のブチきれで、大石さん以下瞬時に失業…だったわけで。
情報や意思の疎通が今のように便利でない時代、
国許の武士たちや江戸詰めの武士やいろんな考えの人がいたでしょうに、
長い時間をかけて討ち入を成功させたのは、やはりすごいと思います。
だって、密告者一人いたら終わりですからね。
将軍というものも、安寧に過ぎていったわけではなく、
たとえばかの家綱さんは、子供だったから叔父さんや見識者のブレーンに頼り、
政治をてつだってもらったわけですが、綱吉さんはそれを嫌って
「自分でやる」という意識が強くなったんですね。
特に家綱さんのブレーンだった大老「酒井 忠清」さんは、
なんかお気に召さなかったんですかねぇ、即刻リストラしました。
文字で書けばこの一行ですが、実際にどうしてそうだったか、は、
いろいろ深いものがあるわけでしょうね。(知りませんけど)
今の政治でも、こちらからみれば「そんなのアンタたちのしがらみでしょ」と
そう思えるようなことでも、結局はそれがあって引っ張られたり落ちてったり。
ようは、ちーとも変わってないってことですよね。
あたしゃあの「小沢軍団中国大観光紀行」を見て、
あれっダレがそーりだっけ…と思っちゃいました。
さて、世もふけてまいりました。かの夜でしたら、
そろそろ皆がそれぞれに打ち合わせどおり、装束など調えて、
決行に向けて気持ちを昂ぶらせていたことでしょう。
実際の討ち入りは夜明け前ですから、実は15日ですが、
当時は「夜明けからがその日」でしたから、明日の朝までは14日なんですよ。
それでは、今夜は彼らの偉業をしのんで…赤穂のお塩で白菜の塩漬けを…
これから作ります、ははは。
芝居先行になっちゃいましたからねぇ。
実際には治水とかいろいろ実績のある
名君ですよね。
いつのまにかわるものにされちゃって…。
なんか仲直りのイベント、なんてのも
ありましたね。
そうなんです。
毎年少し前からテレビなどで
「今年別の視点からみた赤穂浪士」なんて
いろいろやるんですけどねぇ。
今年は映画も何もなし。
もう古いんですかしら。
今の若い人は「忠臣蔵」なんてきいても
わからないでしょうねぇ。さみしー。
東京には泉岳寺がありますから、
義士祭が行われます。
また「ウォーキング」などで、
吉良の屋敷から泉岳寺まで歩こうなんてのも
けっこうあるみたいですよ。
砥の粉は、昔父が使ってました。
下地にはいいものですけどね。
今はなんでも化学物質なんですかねぇ。
あたくしの母校はずばり吉良高等学校!
吉良さんといえばドラマなどではにくったらしいじいさんにえがかれていますが地元では名君だったそうです。
高校の近くには吉良さんの菩提寺がありましたが一度も訪れることなく卒業・・・そのまま現在に至っております。
しなくなりましたね。
歴史は苦手なんですが、こんな風に
教えてもらっていたら、もう少し
歴史に興味を持ったかもしれません。
京都の山科には大石神社があってこの日は四十七士の行列があります。
我が家もこの近くにありました。
勿論、本家の赤穂ではもっと盛大な催しがある事と思います。
砥の粉産地で大石神社周辺は有名なんですが、その砥の粉を生産している進藤家が大石内蔵助の親戚だった様で、その縁で山科に住まいしたそうです。
進藤家の保護下にあった様です。
今でも進藤家は大石神社周辺に数軒あります。
砥の粉は時代と共に廃れてきましたが、本当は凄い物なんですがね。