もう一度アップしましょうね、こんな着物でした。
小さくてわかりづらいのですが、ごちゃごちゃっと描いてあるのは、
野原とか雑木林、四角ばっているのは「草庵」で、くぐり戸や柴垣があります。
題名は「水辺草庵春景墨絵」青いところは染格子、よーく見ると、
地模様に有職文様の大きな丸紋があります。
白緞子地だそうで、ぜーたくな一品ですね。
それを着たのが上の写真なわけですが、なんかぞろっとしていいですねぇ。
洋服のデザイン画は、前姿がメインですが、着物は後姿がメインです。
着物という直線的な衣装をひろげ、後ろからみた背中と袖、裾を
一枚のキャンバスとして、絵を描いています。
俗に寛文小袖、慶長小袖というのが、特に有名ですが、
身にまとったら柄が全然わかんないじゃん、なんてのもあります。
実際、衣桁にかかっているとすごくいいのに、
着てみたらなんだかわかんない、って着物ありますね。
実はそんなときでも「これを広げたら、こことここがこうだから…」と
想像するのもまた楽しいのですけれどね。
そういえば「山村美沙氏」の推理小説で、広げてあるとわからないけれど、
実際に着用して、おはしょりをして帯をしめることで、犯人の名前がわかる、
なんてのがありました。
次はこちら、あれ?なんかちょっと…、どこがヘンでしょう。
上の写真と比べるとわかりますね。
袖の下から見えている「衿」の長さが違います。
なんか間延びして見えます、これは「被衣(かつぎ)」です。
前から見た被衣の写真です。
最初は普通の着物をアタマからかけていたのですが、
江戸後期に、被ってちょうどいい形が、考案されたわけです。
「被衣」は元々公家の女性が使ったもの、顔を隠すのが目的ですから、
近場への外出に使いました。遠くへの寺院参詣などは、
被衣の上から市女笠か、虫の垂衣でした。
京都ですから当然需要は多かったでしょうね。
やがては庶民も使うようになりました。
江戸と京都で違うのは、江戸ではお公家さんは少なかったわけですから、
一般の女性が「被衣」をかぶることはあまりなかったと思います。
ただし、髪の保護のために綿帽子をかぶりました。
海が近く、風の強かった江戸では土ぼこりがひどかったし、
髪はびんつけ油いっぱいでしたから、汚れを防いだわけです。
もとより顔を隠すなんざ、ございません。
はじめのころの綿帽子はホンモノの真綿をひろげたものです。
真綿は繊維が長いので、木綿の綿のように綿くずがついたりしないからです。
やがて真綿ではなく、布を使うようになりました。
えーややこしいのですが、この綿帽子が今の角隠し型と、
最近「綿帽子」と呼ばれているすっぽり型にわかれました。
角隠し型は「揚帽子」、すっぽり型が「綿帽子」と呼ばれました。
ですから、昔の江戸では、そこいらへんに「角隠し」した女の人が
わんさといたことになります。
ちなみに、この本の説明書きに「綿帽子は、被衣のかわりとなったもので
角隠しなどというのはコッケイの至りだ」とあります。
こあたりがですね、京都と江戸の「綿帽子」の流れと違うところで、
京都では、被衣を被るのに、おでこからすべらないよう、綿帽子を被って、
更に被衣をかぶった…それがやがて綿帽子だけになった…だそうです。
お公家さん関係は、あくまで「被衣」だったと思いますが。
この本によりますと、町方は、その素材や色柄も自由にしたようですが、
お公家さんの女性は年間通して「絽の紺地」だったそうです。
こちらが実際着用の写真、絽の紺地といえども柄はハデですなぁ。
となると、我が家にある「被衣」は、町方のかな?
というわけで、被衣は、袖もきちんとついている着物の形でありながら、
その袖に手が通ることはなかった、いわば「着られることのない着物」
だったわけですね。それならフードつきマントのほうが布の節約だ…
なんてのはやぼですね。
手を通されることのない袖が、風に翻るのもまた風情があったことでしょう。
広げておくだけでも美しい、それが着物ってもんです。
だから、花見の席の小袖幕、なんてモノも、よろこばれたわけで…。
これがワンピースやスカート…では、やっぱり洗濯干しになっちゃいますもんね。
最後に庶民のものを…、またハデでござんしょ。
ちと部分アップで。
これは、ひものところに腕を通して、ランドセルのように
背中にしょいました。この上から着物を着たり、はんてんや綿入れなどを
更に着たわけです。母の子供のころは「真綿」をこうして着たそうです。
これは紙子の下衣、つまり着物の下に着たもの、ですね。
説明によると、やはり「上方」のものだそうです。
紙子は「紙衣(かみころも)」ともいわれましたが、
文字通り和紙で作ったもの、です。
「紙子」というのは、繊維の絡まりのいい美濃和紙などをよーくもんで、
繊維の流れを交差させる向きに重ねて、こんにゃく糊で張り合わせ、
乾かしたものに柿渋を塗利重ねる、というのが、一番よく知られています。
しかし、柿渋を塗らずにそのままの状態で使ったり、
また染めたり絵を描きいれたりしても使いました。
この「下衣」は、寒い時期に着物の上や中に着たものです。
江戸も後期になるまでは、まだ木綿は高価でしたから、
庶民は主に麻を着ました。麻は通気性がよいので、夏はいいのですが冬は寒い。
そこで麻の着物の上や下にこういうものをつけて保温したわけです。
この下衣はシャレた芝居の役者絵などを使っていますから、
ちょっと遊び心もあっての余裕が見えますね。
江戸後期から明治のものだそうです。
さて、写真が使えるとなったら、いろんなお話がしたくて、
毎日やたらと長くなりました。
お付き合いくださって、ありがとうございます。
今の着方は、今の時代にあったもので、
それはそれでいいと思うのですが、基本から応用へ、という、
その一点がどうも突っかかっているのが気になります。
きっちり着る中に、昔の着物の着方のエッセンスなんぞを取り入れて、
「自分流」の着方を広げていっていただきたいと思います。
小さくてわかりづらいのですが、ごちゃごちゃっと描いてあるのは、
野原とか雑木林、四角ばっているのは「草庵」で、くぐり戸や柴垣があります。
題名は「水辺草庵春景墨絵」青いところは染格子、よーく見ると、
地模様に有職文様の大きな丸紋があります。
白緞子地だそうで、ぜーたくな一品ですね。
それを着たのが上の写真なわけですが、なんかぞろっとしていいですねぇ。
洋服のデザイン画は、前姿がメインですが、着物は後姿がメインです。
着物という直線的な衣装をひろげ、後ろからみた背中と袖、裾を
一枚のキャンバスとして、絵を描いています。
俗に寛文小袖、慶長小袖というのが、特に有名ですが、
身にまとったら柄が全然わかんないじゃん、なんてのもあります。
実際、衣桁にかかっているとすごくいいのに、
着てみたらなんだかわかんない、って着物ありますね。
実はそんなときでも「これを広げたら、こことここがこうだから…」と
想像するのもまた楽しいのですけれどね。
そういえば「山村美沙氏」の推理小説で、広げてあるとわからないけれど、
実際に着用して、おはしょりをして帯をしめることで、犯人の名前がわかる、
なんてのがありました。
次はこちら、あれ?なんかちょっと…、どこがヘンでしょう。
上の写真と比べるとわかりますね。
袖の下から見えている「衿」の長さが違います。
なんか間延びして見えます、これは「被衣(かつぎ)」です。
前から見た被衣の写真です。
最初は普通の着物をアタマからかけていたのですが、
江戸後期に、被ってちょうどいい形が、考案されたわけです。
「被衣」は元々公家の女性が使ったもの、顔を隠すのが目的ですから、
近場への外出に使いました。遠くへの寺院参詣などは、
被衣の上から市女笠か、虫の垂衣でした。
京都ですから当然需要は多かったでしょうね。
やがては庶民も使うようになりました。
江戸と京都で違うのは、江戸ではお公家さんは少なかったわけですから、
一般の女性が「被衣」をかぶることはあまりなかったと思います。
ただし、髪の保護のために綿帽子をかぶりました。
海が近く、風の強かった江戸では土ぼこりがひどかったし、
髪はびんつけ油いっぱいでしたから、汚れを防いだわけです。
もとより顔を隠すなんざ、ございません。
はじめのころの綿帽子はホンモノの真綿をひろげたものです。
真綿は繊維が長いので、木綿の綿のように綿くずがついたりしないからです。
やがて真綿ではなく、布を使うようになりました。
えーややこしいのですが、この綿帽子が今の角隠し型と、
最近「綿帽子」と呼ばれているすっぽり型にわかれました。
角隠し型は「揚帽子」、すっぽり型が「綿帽子」と呼ばれました。
ですから、昔の江戸では、そこいらへんに「角隠し」した女の人が
わんさといたことになります。
ちなみに、この本の説明書きに「綿帽子は、被衣のかわりとなったもので
角隠しなどというのはコッケイの至りだ」とあります。
こあたりがですね、京都と江戸の「綿帽子」の流れと違うところで、
京都では、被衣を被るのに、おでこからすべらないよう、綿帽子を被って、
更に被衣をかぶった…それがやがて綿帽子だけになった…だそうです。
お公家さん関係は、あくまで「被衣」だったと思いますが。
この本によりますと、町方は、その素材や色柄も自由にしたようですが、
お公家さんの女性は年間通して「絽の紺地」だったそうです。
こちらが実際着用の写真、絽の紺地といえども柄はハデですなぁ。
となると、我が家にある「被衣」は、町方のかな?
というわけで、被衣は、袖もきちんとついている着物の形でありながら、
その袖に手が通ることはなかった、いわば「着られることのない着物」
だったわけですね。それならフードつきマントのほうが布の節約だ…
なんてのはやぼですね。
手を通されることのない袖が、風に翻るのもまた風情があったことでしょう。
広げておくだけでも美しい、それが着物ってもんです。
だから、花見の席の小袖幕、なんてモノも、よろこばれたわけで…。
これがワンピースやスカート…では、やっぱり洗濯干しになっちゃいますもんね。
最後に庶民のものを…、またハデでござんしょ。
ちと部分アップで。
これは、ひものところに腕を通して、ランドセルのように
背中にしょいました。この上から着物を着たり、はんてんや綿入れなどを
更に着たわけです。母の子供のころは「真綿」をこうして着たそうです。
これは紙子の下衣、つまり着物の下に着たもの、ですね。
説明によると、やはり「上方」のものだそうです。
紙子は「紙衣(かみころも)」ともいわれましたが、
文字通り和紙で作ったもの、です。
「紙子」というのは、繊維の絡まりのいい美濃和紙などをよーくもんで、
繊維の流れを交差させる向きに重ねて、こんにゃく糊で張り合わせ、
乾かしたものに柿渋を塗利重ねる、というのが、一番よく知られています。
しかし、柿渋を塗らずにそのままの状態で使ったり、
また染めたり絵を描きいれたりしても使いました。
この「下衣」は、寒い時期に着物の上や中に着たものです。
江戸も後期になるまでは、まだ木綿は高価でしたから、
庶民は主に麻を着ました。麻は通気性がよいので、夏はいいのですが冬は寒い。
そこで麻の着物の上や下にこういうものをつけて保温したわけです。
この下衣はシャレた芝居の役者絵などを使っていますから、
ちょっと遊び心もあっての余裕が見えますね。
江戸後期から明治のものだそうです。
さて、写真が使えるとなったら、いろんなお話がしたくて、
毎日やたらと長くなりました。
お付き合いくださって、ありがとうございます。
今の着方は、今の時代にあったもので、
それはそれでいいと思うのですが、基本から応用へ、という、
その一点がどうも突っかかっているのが気になります。
きっちり着る中に、昔の着物の着方のエッセンスなんぞを取り入れて、
「自分流」の着方を広げていっていただきたいと思います。
袖も通さず、着物として着れない
なんて本当にもったいないとつい、
思ってしまいます。
着物を着ている上にもう一枚頭から
着物を被るなんて重いでしょうね。
そんな事を考える私って風情が無い
のでしょうね。
上の真綿の背負子(笑)ですが、昔から母が
「真綿をしょって(背負って)いるように暑い」
と言う言葉を使いましたから、私もいまでも時折そんな言葉が自然に出てきます。
母のそのずっ~と以前からの言葉なのでしょうね。
着物って面白くて素敵ですね。
あのお茶の先生(私もテレビを見ました)のおっしゃるように、自分の楽しみとして色々な縛りにとらわれず、自然に普通にキモノを着たいものだと切に思います。
ありがとうございます。
今、名古屋市博で、江戸時代の着物の展覧会をやっています。まだ行っていないのですが・・
http://www.museum.city.nagoya.jp/tenji080426.html
おもしろそうです。
被衣をかぶってのお出かけ、荷物が少ない人ですね。
資料とか教科書で殆ど行商寸前のワタクシには無理だわ・・・・
すでにない美意識と時間が存在しているんだなぁと
思います。
私の持っているのは、向こうが透けて見える
うすーい絹です。かるいですけれど、
ずーっと手で持っているのも
疲れますよゼッタイ。
昔の人ってしんぼう強かったんですねぇ。
キャット様
母も「しょい綿」っていってました。
考えてみると「ホツカイロ」より、
ずっとあったかいと思います。
着物がアタリマエだった暮らしの中では、
今よりずっと自由だったのだと思います。
蝸牛様
おもしろそうな展覧会ですねー!
近かったら通うのにー。
ぜひ、行ってみてくださいね。
zizi様
ゆったりで全身包む、という点で、
共通点がありますね。
どこかでつながるのかもしれません。
被衣をかぶっておでかけするよーな人は、
そのうしろに、汗だくで荷物を持つ
下男や侍女がいるわけですわいなぁ。
えみこ様
なくなってしまったのが惜しいようなものが、たくさんあります。
別の形で残っているものももちろん
あるんですけどね。
ゆったり暮らしたいものです。