たまに通学電車がいっしょになるほかのクラスの女生徒がいました。
気さくな人で、エンエンとたわいないおしゃべりをしながら帰ったものです。
彼女の名前ももう覚えていないのに、今も鮮烈に残っている記憶は「彼女の手」です。
それはそれは美しい手をしていました。
手の大きさ、甲の肉付き、指の長さと形、爪の長さと形…
どれをとっても、まるで絵に描いたように完璧な美しさでした。
「きれいな手だねぇ」…と言うと、彼女は「そぉ?ふつーだよぉ」と、
くったくなく笑いながら、目の前で手をひらひらさせました。
私は自分の手はギュッとかばんの取っ手をつかんで決して広げて見せませんでした。
私の手はブサイクです。全体に小さく指は太く短く、節が高く、
爪ときたら一本ずつ形が違う、しかも横に広くてぺったんこ。
爪の生え際は甘皮をいくら起こしてもかぶってきて、しかもきれいな弧なんかにならない。
かまぼこみたいな形の爪です。人前で手を出すのは大嫌いでした。
ある日、ふと気がつきました。私の手と指は、母そっくりだ…。
そのころずっと母が苦手でした。あまりにもまっすぐできつくて皮肉屋で、
いつもなんでも自分で決めて押し付ける…。
私の顔立ちはなくなった実父似です。母はいわゆる「彫りの深い顔立ち」で、
私は、本当は似たかった顔立ちはまったく受け継がず、無骨な手だけが似ました。
それがよけいに悲しくて、女らしい柔らかい手になりたい…といつも思っていました。
印刷会社にタイピストとして就職したとき、先輩が
「活字を拾うのに爪を伸ばしたほうが便利だ」と教えてくれました。
それまで目立たぬように、きっちり切っていた爪を初めて伸ばしました。
親指と人差し指だけだとバランスが悪いので結局全部の指の爪を伸ばし始めました。
生まれて初めて「手の平がわから見ても、爪が5ミリくらい見える」なんて、
とんでもない指になりました。生爪の部分とのびている部分の境目がなんだか汚い…。
化粧品売り場で、こっそり隠れるように見本のマニキュアを塗ってみました。
目立たぬようにと透明に近いのやら、薄いのやら…ちっともかわりません。
突然後ろから「それだけ伸ばすなら濃い色のほうがきれいよ」
ギョッとして振り向くと、私より少し上かと思える若い店員さんでした。
しどろもどろの私におかまいなく、「これが似合うと思う」と彼女が選んだ1本は
鮮やかな「牡丹色」、「こっこんな派手なの」というと、
「こういう色は手の色を白く見せるの。白い手はそれだけできれいなのよ。
爪は長けりゃ、元のかっこはなんとかなるものよ」
そういうなり、彼女は私の手をひょいととりました。
「いい?まず甘皮を起こして処理をする。それからこういう色をね、こうやって塗るのよ」
そういいながら、彼女はさっさと私の爪の甘皮をスティックできれいに起こし、
形を整えて、その牡丹色のマニキュアを爪の両端1ミリくらい残してまっすぐ塗りました。
急に自分の手が白く見えました。なんだか指の形まで良く見えます。
その日、私は甘皮スティックと「牡丹色」のマニキュアを買って帰りました。
私はその日からマニキュアを手放せなくなりました。
活字を拾うので、1日で爪の先だけははがれてしまいます。
会社から帰るまえにロッカーで、先だけ「補修」しました。
家で家事をするときは、母に「汚らしい」と叱られるので、帰るとすぐに落とし、
寝る前にそっと塗りなおし…。
ある日、会社で昼休みに手を洗っていると、隣の課の女の子が来て、
「とんぼさんの指ってかっこよくてきれいよねぇ」…。
かつて私が友人に言った言葉を、自分が聴こうとは思いませんでした。
長い爪と濃いマニキュアが、目くらまし…になってる?
私はその会社を辞めるまで、のばし続け塗り続けました。
でも、私気がついてました。「目くらまし」はしょせんホンモノではないのだと。
不自然にのばすと日常生活に支障が出ます。
特に私の爪は、異様に硬く厚みがありました。うっかりぶつけると、
バキッとひび割れる…そんな時は必死でセロテープを爪の形に切ってとめつけ、
その上からマニキュアを塗ってごまかしました。
料理をするときは、母ににらまれますからまず爪ブラシできれいに洗ってから。
でも、ひき肉をこねても、粉を練っても、思いっきり爪の中に入り込む…。
髪を洗うのに両手でコシコシやっているうちに、片側の爪が反対の手の爪の間に
つきささる…これがとにかく痛い…。何かとろうとして、爪がジャマでとれない。
縫い物をしても、編み物をしても、邪魔、引っかかる。
便利なことより「不快」なことのほうが多かったのです。
なにより、自分の指先、という当たり前の感覚が爪がジャマしてわからない。
それでも私は「きれいに見えるゴマカシのきく手」をやめられませんでした。
仕事をやめたとき、私はその日のうちに、全部の爪を切りました。
手が軽くなりました。小さいものがつまめます。
ハンバーグもギョーザの具も、こねこねいくらこねても気になりません。
指先にツンと当たる感覚で、あっまだ硬いとか、これは目が粗いとか、
そんな微妙なことが苦もなくわかります。
私は何をあんなにこだわっていたんだろう、
マニキュアの魔力に魅入られていた自分をフシギに思いました。
でも、あの店員さんには感謝しています。
「変身」するというおもしろさを教えてもらいましたから。
それ以来、私は自分の手をみっともないと思うことも、
きれいにごまかすことも一切やめました。
嫁に行くちょっと前に、私がオットになる人の甚平を縫っていると、
母が言いました「ブサイクな手は器用なんやで。
なんでもできる、うまいこと作れる、そういうもんや」
どこからどう出た言葉かしりません。でも母はよくそれを言いました。
「手がブサイクな女は器用」…当たってても当たってなくても、
私はブサイクな手を、恥ずかしさで隠すことはなくなりました。
年をとって、ハリがなくなり、オナカだけは肉ついて出っ張るのに手はやせる…。
シワとシミと浮き出た血管と、益々高くなった節と…。
手は60のオバサン通り越して、おばーさんみたいです。でも気になりません。
この手で、いろんなことをしてきました、よく働いてくれる手です。
パソコンも覚えました。ブラインドタッチとはいかないけれど、
パチパチと、良く動いてくれます。
もちろん、爪は短く切ります。ちょっと伸びると気になって気になって…。
小指だけはちょっと糸などひっかけるのに便利なのでのばしていますが、
相変わらず硬いので、たまにぶつけてバキッと折ってます。
もちろんセロテープの補修はなし。
今日、母の手と腕をなでなでしてきました。もうホネと皮です。
筋も血管も「ここにございます」とばかりに並んでいます。
老人性のシミがいっぱい。年をとるとちょっとぶつけてもあざになります。
そのあざがあっちにひとつこっちにひとつ。
おまけに免疫力が落ちて、皮膚炎が広がり、やっと薬が効いたものの、
あちこちに桜色の斑点と、白く剥けたかさぶた…。
「ややこし色やろ、汚のぅなってしもて」
女としては、見苦しい腕も手もつらいのかもしれません。
母は私が子供のころ、決してやさしい母ではありませんでした。
手をつなぐのは、人ごみの中で迷子にならないようにするときだけ。
やたらと強くひっばられ、引きずられるように歩いた記憶しかありません。
少し大きくなって手を引く必要がなくなってからは、私は母と手をつないだことも、
腕に腕をからめたこともありません。
並んでデパートを歩いても、旅先できれいな並木道を歩いてもいつも少し離れていました。
座っている母に「ねぇおかぁさ~ん」と、甘えて抱きついた記憶もないのです。
そういうことを許さない母でした。
だから母の手をとるようになったのは、母がこんな風になってからなのです。
さわるたび細くなってゆく、チカラがなくなってゆく。
「ややこし色になってもええやん。きれいなもんや」そういいながらなでなですると、
思いのほか肌はつるつるで、ほんのりあたたかかったです。
「もうなんもできへん手ぇや」
「ええやん、いままでよう働いた手ぇやし、休ましたり。
自分でご飯食べるときと、トイレいくときだけ動いたら上出来やで」
そういうと「せやなぁ、それはせなあかんなぁ」
自分の手をじーっと見ながら、母は本当は「良く動いていたときのこと」を
思いだしていたのかもしれません。
「ウチの手ぇはおかぁちゃん似やしなぁ、おかげさんでよう動いてるで」というと
「あんたはウチより器用やで、できのええ手ぇや」とポツンと言いました。
ずっと私のなにもかも認めようとしなかった母が、そういうのを聞いて、
嬉しいより切なかったです。「負け」なんぞ認めるなよ、かーちゃん。
実父がなくなったとき、私は12歳でした。私を甘やかし、手をつなぎ、
頭をなでてくれて、抱っこしてくれた手は、胸で組まれていました。
どんな顔だったか、どんなふとんに寝かされていたのか、何も覚えていないのに、
私はそーっと触ってみた父の手の冷たさだけは覚えています。
血が通わない冷たさというのは、こういうものなのだと、初めて知り、
「人の死」というものを、私はその「手の冷たさ」で、実感したように思います。
今日の母の手は「枯れ木」のようであっても暖かかったです。
母ももう87です。どんなに望んでも、母の残りの人生はそんなに長くはないのでしょう。
私は、父の手の冷たさをわすれなかったけれど、
今度は母の手のあたたかさをずっと覚えていようと思います。
私の手は母そっくりの無骨でブサイクな手です。
でも今は、それが誇りです。
トップ写真は、実家の庭の一角。薄紫の花は野草で名前も知りません。
左の丸い石の台のようなものは「石臼」の半分。
上の丸い平らな皿鉢に入っている黒い石は、どこかの河原で拾ったもの、
苔がぐあいよくかぶっています。植えてあるものは聞くのを忘れました。
気さくな人で、エンエンとたわいないおしゃべりをしながら帰ったものです。
彼女の名前ももう覚えていないのに、今も鮮烈に残っている記憶は「彼女の手」です。
それはそれは美しい手をしていました。
手の大きさ、甲の肉付き、指の長さと形、爪の長さと形…
どれをとっても、まるで絵に描いたように完璧な美しさでした。
「きれいな手だねぇ」…と言うと、彼女は「そぉ?ふつーだよぉ」と、
くったくなく笑いながら、目の前で手をひらひらさせました。
私は自分の手はギュッとかばんの取っ手をつかんで決して広げて見せませんでした。
私の手はブサイクです。全体に小さく指は太く短く、節が高く、
爪ときたら一本ずつ形が違う、しかも横に広くてぺったんこ。
爪の生え際は甘皮をいくら起こしてもかぶってきて、しかもきれいな弧なんかにならない。
かまぼこみたいな形の爪です。人前で手を出すのは大嫌いでした。
ある日、ふと気がつきました。私の手と指は、母そっくりだ…。
そのころずっと母が苦手でした。あまりにもまっすぐできつくて皮肉屋で、
いつもなんでも自分で決めて押し付ける…。
私の顔立ちはなくなった実父似です。母はいわゆる「彫りの深い顔立ち」で、
私は、本当は似たかった顔立ちはまったく受け継がず、無骨な手だけが似ました。
それがよけいに悲しくて、女らしい柔らかい手になりたい…といつも思っていました。
印刷会社にタイピストとして就職したとき、先輩が
「活字を拾うのに爪を伸ばしたほうが便利だ」と教えてくれました。
それまで目立たぬように、きっちり切っていた爪を初めて伸ばしました。
親指と人差し指だけだとバランスが悪いので結局全部の指の爪を伸ばし始めました。
生まれて初めて「手の平がわから見ても、爪が5ミリくらい見える」なんて、
とんでもない指になりました。生爪の部分とのびている部分の境目がなんだか汚い…。
化粧品売り場で、こっそり隠れるように見本のマニキュアを塗ってみました。
目立たぬようにと透明に近いのやら、薄いのやら…ちっともかわりません。
突然後ろから「それだけ伸ばすなら濃い色のほうがきれいよ」
ギョッとして振り向くと、私より少し上かと思える若い店員さんでした。
しどろもどろの私におかまいなく、「これが似合うと思う」と彼女が選んだ1本は
鮮やかな「牡丹色」、「こっこんな派手なの」というと、
「こういう色は手の色を白く見せるの。白い手はそれだけできれいなのよ。
爪は長けりゃ、元のかっこはなんとかなるものよ」
そういうなり、彼女は私の手をひょいととりました。
「いい?まず甘皮を起こして処理をする。それからこういう色をね、こうやって塗るのよ」
そういいながら、彼女はさっさと私の爪の甘皮をスティックできれいに起こし、
形を整えて、その牡丹色のマニキュアを爪の両端1ミリくらい残してまっすぐ塗りました。
急に自分の手が白く見えました。なんだか指の形まで良く見えます。
その日、私は甘皮スティックと「牡丹色」のマニキュアを買って帰りました。
私はその日からマニキュアを手放せなくなりました。
活字を拾うので、1日で爪の先だけははがれてしまいます。
会社から帰るまえにロッカーで、先だけ「補修」しました。
家で家事をするときは、母に「汚らしい」と叱られるので、帰るとすぐに落とし、
寝る前にそっと塗りなおし…。
ある日、会社で昼休みに手を洗っていると、隣の課の女の子が来て、
「とんぼさんの指ってかっこよくてきれいよねぇ」…。
かつて私が友人に言った言葉を、自分が聴こうとは思いませんでした。
長い爪と濃いマニキュアが、目くらまし…になってる?
私はその会社を辞めるまで、のばし続け塗り続けました。
でも、私気がついてました。「目くらまし」はしょせんホンモノではないのだと。
不自然にのばすと日常生活に支障が出ます。
特に私の爪は、異様に硬く厚みがありました。うっかりぶつけると、
バキッとひび割れる…そんな時は必死でセロテープを爪の形に切ってとめつけ、
その上からマニキュアを塗ってごまかしました。
料理をするときは、母ににらまれますからまず爪ブラシできれいに洗ってから。
でも、ひき肉をこねても、粉を練っても、思いっきり爪の中に入り込む…。
髪を洗うのに両手でコシコシやっているうちに、片側の爪が反対の手の爪の間に
つきささる…これがとにかく痛い…。何かとろうとして、爪がジャマでとれない。
縫い物をしても、編み物をしても、邪魔、引っかかる。
便利なことより「不快」なことのほうが多かったのです。
なにより、自分の指先、という当たり前の感覚が爪がジャマしてわからない。
それでも私は「きれいに見えるゴマカシのきく手」をやめられませんでした。
仕事をやめたとき、私はその日のうちに、全部の爪を切りました。
手が軽くなりました。小さいものがつまめます。
ハンバーグもギョーザの具も、こねこねいくらこねても気になりません。
指先にツンと当たる感覚で、あっまだ硬いとか、これは目が粗いとか、
そんな微妙なことが苦もなくわかります。
私は何をあんなにこだわっていたんだろう、
マニキュアの魔力に魅入られていた自分をフシギに思いました。
でも、あの店員さんには感謝しています。
「変身」するというおもしろさを教えてもらいましたから。
それ以来、私は自分の手をみっともないと思うことも、
きれいにごまかすことも一切やめました。
嫁に行くちょっと前に、私がオットになる人の甚平を縫っていると、
母が言いました「ブサイクな手は器用なんやで。
なんでもできる、うまいこと作れる、そういうもんや」
どこからどう出た言葉かしりません。でも母はよくそれを言いました。
「手がブサイクな女は器用」…当たってても当たってなくても、
私はブサイクな手を、恥ずかしさで隠すことはなくなりました。
年をとって、ハリがなくなり、オナカだけは肉ついて出っ張るのに手はやせる…。
シワとシミと浮き出た血管と、益々高くなった節と…。
手は60のオバサン通り越して、おばーさんみたいです。でも気になりません。
この手で、いろんなことをしてきました、よく働いてくれる手です。
パソコンも覚えました。ブラインドタッチとはいかないけれど、
パチパチと、良く動いてくれます。
もちろん、爪は短く切ります。ちょっと伸びると気になって気になって…。
小指だけはちょっと糸などひっかけるのに便利なのでのばしていますが、
相変わらず硬いので、たまにぶつけてバキッと折ってます。
もちろんセロテープの補修はなし。
今日、母の手と腕をなでなでしてきました。もうホネと皮です。
筋も血管も「ここにございます」とばかりに並んでいます。
老人性のシミがいっぱい。年をとるとちょっとぶつけてもあざになります。
そのあざがあっちにひとつこっちにひとつ。
おまけに免疫力が落ちて、皮膚炎が広がり、やっと薬が効いたものの、
あちこちに桜色の斑点と、白く剥けたかさぶた…。
「ややこし色やろ、汚のぅなってしもて」
女としては、見苦しい腕も手もつらいのかもしれません。
母は私が子供のころ、決してやさしい母ではありませんでした。
手をつなぐのは、人ごみの中で迷子にならないようにするときだけ。
やたらと強くひっばられ、引きずられるように歩いた記憶しかありません。
少し大きくなって手を引く必要がなくなってからは、私は母と手をつないだことも、
腕に腕をからめたこともありません。
並んでデパートを歩いても、旅先できれいな並木道を歩いてもいつも少し離れていました。
座っている母に「ねぇおかぁさ~ん」と、甘えて抱きついた記憶もないのです。
そういうことを許さない母でした。
だから母の手をとるようになったのは、母がこんな風になってからなのです。
さわるたび細くなってゆく、チカラがなくなってゆく。
「ややこし色になってもええやん。きれいなもんや」そういいながらなでなですると、
思いのほか肌はつるつるで、ほんのりあたたかかったです。
「もうなんもできへん手ぇや」
「ええやん、いままでよう働いた手ぇやし、休ましたり。
自分でご飯食べるときと、トイレいくときだけ動いたら上出来やで」
そういうと「せやなぁ、それはせなあかんなぁ」
自分の手をじーっと見ながら、母は本当は「良く動いていたときのこと」を
思いだしていたのかもしれません。
「ウチの手ぇはおかぁちゃん似やしなぁ、おかげさんでよう動いてるで」というと
「あんたはウチより器用やで、できのええ手ぇや」とポツンと言いました。
ずっと私のなにもかも認めようとしなかった母が、そういうのを聞いて、
嬉しいより切なかったです。「負け」なんぞ認めるなよ、かーちゃん。
実父がなくなったとき、私は12歳でした。私を甘やかし、手をつなぎ、
頭をなでてくれて、抱っこしてくれた手は、胸で組まれていました。
どんな顔だったか、どんなふとんに寝かされていたのか、何も覚えていないのに、
私はそーっと触ってみた父の手の冷たさだけは覚えています。
血が通わない冷たさというのは、こういうものなのだと、初めて知り、
「人の死」というものを、私はその「手の冷たさ」で、実感したように思います。
今日の母の手は「枯れ木」のようであっても暖かかったです。
母ももう87です。どんなに望んでも、母の残りの人生はそんなに長くはないのでしょう。
私は、父の手の冷たさをわすれなかったけれど、
今度は母の手のあたたかさをずっと覚えていようと思います。
私の手は母そっくりの無骨でブサイクな手です。
でも今は、それが誇りです。
トップ写真は、実家の庭の一角。薄紫の花は野草で名前も知りません。
左の丸い石の台のようなものは「石臼」の半分。
上の丸い平らな皿鉢に入っている黒い石は、どこかの河原で拾ったもの、
苔がぐあいよくかぶっています。植えてあるものは聞くのを忘れました。
似合わない手です。
私も若い頃は、やりましたよ。爪を
伸ばして濃い目のマニキュアを塗って
少しでも指が長くみえるように・・・
若い頃はそんな事も気にしましたが、
手は飾りじゃないんですもの、用事が
出来る手が一番なんですね。
こんな日は落ち着いた気分で過ごせる私です。
とても心情あふれる、母思いのとんぼさんの
お話しが胸に沁みてきています。
改めて母との日々を繰り返しています。
3男1女の子どもを育てた母ですが、1女は私
ですから、繋がりは似通っているかもしれません。
この頃の旅先でふと見せる娘のしぐさに
私は自分では気がつかない老いが彼女には
見えたり、感じたりするのでは、と思うことが
あります。
何も言葉はかわしませんが、お互いで認めていての
優しさと感謝しています。
母と娘、どんな色の糸で紡がれていくのでしょうか。
とてもよいお話をありがとう。
とんぼさん、お体大切になさってください。
お母様と息子さんとの間をつなぐ、大事なとんぼさんの手ぇですね。
私も指輪、似合いません。
最近は関係なく好きなものは漬けてますが、
若いころはいやでしたねぇ。
ほんと「用事のできる手」が一番ですね。
私がこちらに越してきた13年前から、
母は「老い」始めました。
きっとそばにきたので、ほっとしたのでしょう。
子供の目から見ての親の変化は、
切ないばかりですが、
ずっとつながってきたんだなぁと
そんなことを思うだけで、厳しくされたことも
しんどかったことも、みんな流れます。
ふしぎなものですねぇ。
若いということは、親の若さも自分の若さも、
それはそれで荒かったり厳しかったり…。
年をとるということは、流れが穏やかになる、
そんなことを実感します。
私の手もいつか母のような手になるのだろうと
つながっている命のことを思います。
コンプレックス。
母に似ていればと、何度思ったか。
歳を重ね、いつしか母とそっくりに。
とんぼさんの優しさが、
心に響きます。
とんぼさんとお母さんの時間が、
続きますように。
私の母の手もシミだらけで、まだ20代だった私は
汚い手~ などとふざけてからかっていたりしましたが、
今の私の手をじっとみれば、あら不思議
母と全く同じシミだらけの手になっていました。
娘に見せたら、同じ事を言われてしまって
3代でこんな会話かと・・・
トホホな家族でございます。
写真の景色、小人人形を添えてみたくなりますね~
「びゃっこ」というのは、秋田弁で「ちょっと」という意味です。
とんぼさん、文章ウマすぎるわ。
タイピストだったこと、はじめて知りました。
この人はきっといろんなものを吸収しているな、といつも思って読ませていただいていましたが、その一端が垣間見えたような気がします。
私も、ってタイピストじゃないですが、情報紙の編集をしていたとき、和文タイプというものを打ってみたことがあります。あれをガシャ、ガシャと打っている女性の手があまりにすばやく、すてきだったので、真似してみたくなったのです。自分のは力加減がめちゃくちゃで、とてもじゃないが見られたもんじゃない代物でした。改めて、タイピストさんの能力に感服した記憶があります。
なかなかコメントできずにいますが、ずぅ~と読んでます。
これからもすてきなブログ、楽しみにしています。
それにしても、お母様、私と似ています。
ありがとうございます。
残り少ないのに、これといって親孝行もせず
のほほんと暮らしています。
人生のたそがれ時というのは、
だれにとっても穏やかでいありたいものと
そんなことを思います。