
先にお詫びを…着物の着方について書く予定でしたが、時間がなくなりまして、
企画変更?着方についてはいずれまた近いうちに…すみません。
写真は本日入手の「じゅばん」です。「太夫道中」ですね。
一番後ろの太夫の顔だけが半分見えています。
なぜ「おいらん」ではなく「太夫」かと申しますと、
帯が「島原結び」、いわゆる「心」という字に結ぶ形ですね、それであること。
上方であることは、男衆(おとこしさんと言います)の貝ノ口が
上方結びであることからもわかります。
歩き方も東のおいらん、西の太夫では「外八方・内八方」と分かれていたり、
なにかとはりあったようですね。
真ん中の二人は顔見えませんがこちら。

禿の方が、顔までしっかり描かれています。
実際の太夫(おいらん)道中は、もっと整然としていて、
禿は太夫の前に、二人並んでいるのが普通です。
現在京都で「太夫道中」が再現されていますが、禿は髪は結わずに
いわゆる「おかっぱ」、着物も模様のない真っ赤なもので、
胸の前で両手を重ねて袖を見せた姿勢で歩きます。
禿と言うのは7~8歳の子供で、口減らしのために売られてきた子供など、
そういう中で見ばえのよい子を、おいらんの身の回りの世話をする子供として
使ったものです。太夫にしろおいらんにしろ、いずれも教養高く、気位高く、
タイヘンな稼ぎ手でしたから、禿もそれぞれのおいらんが、着るものなど、
全ての面倒を見ていたそうです。禿は太夫の世話やお使いなどをしながら
自分もまた太夫になるべく、素養を磨きました。
後ろの太夫の顔、半分だけ見えてます。

なかなかの美人ですね。
さて、こんなじゅばんを着た御仁は、どんな粋な男性だったのでしょうか。
実際には「太夫なんかと遊べる身分じゃないから、せめて背中に」かな?
どちらにしても「太夫」とか「吉原」とか、そういう柄のものは、
最近は見つけるのもなかなかです。
野暮な柄ばかりになりましたねぇ。
帯の結び方だけで、東か西か分かるなんて!
時代考証されながら見ると奥が深くて面白い
のでしょうね。あいにく私は「ふ~ん、なるほど」
と感心しながら見せて頂いているだけですが・・・
吉原も昔日の栄光は有りませんし
まさか、石鹸箱の絵を描く訳にもゆかんでしょうから(笑)
吉原の禿はたしか、花魁の前を、一人は座布団を胸の前で抱え、もう一人は煙草盆を捧げてたような気がするのですが
そうそう、番頭新造とか振袖新造とかもぞろぞろ付いてましたね。
おいらんと太夫はけっこう違うところいが
はっきりしているのでわかりやすいです。
男の人の結びは、元々の帯の巻き方が逆なので、
結び終わりの形が、反対になるんですよ。
神奈様
最近のじゅばんは、男女ともに「無難」なもの、
めだたないものになってしまいました。
実際のおいらん道中は、揚げ屋までの道のり、
つまりはお仕事先までの出張ルートでしたから、
ざぶとんやタバコ盆など、おいらん自前の
最高級品をこれみよがしに持たせたんですね。
番頭新造は「リタイア予備軍」
振袖新造は「おいらん予備軍」ですから、
当時の遊郭はとてもシステム化されてたんですねぇ。
嶋原結び と↑の太夫さんとは少し、結びが違うような・・。
このリボンみたいな結びのはたぶん大坂の「新町」の太夫さんです。
新町は一部お店が嶋原から移転するところから、町ができていったみたいで、嶋原と同じ風俗も多いのですが(暮れの餅つきや太夫道中 など)、服飾等微妙に違ったみたいです。嶋原の太夫の帯は・・なんというかもうちょっと「袋」みたいです→http://bubuchademo.blog.fc2.com/blog-entry-49.html
蝶ネクタイみたいな結びは 新町 ということを、嶋原の角屋の御主人もおっしゃってたので 間違いないと思います。
貴重な情報をありがとうございました。
関東と関西の違いしか知りませんでしたので、
またひとつ新しいことを知ることができました。
島原の太夫は下が下がっているんですよね。
ようするに「紙を結んだ時の結び目」ですから。
最近はこんな図柄がなくて、つまらないです。