大出早池峯神社のお祭りが終わって一週間。やっと、宵宮が終わって例大祭話題です。笑
10時からの御神輿渡御前に町内の芸能団体が奉納するのを狙うべく、
9時過ぎには到着。
なんだか例年?と雰囲気が違います。御神輿がセットされている位置も違えば、
担ぐ人の姿もまだありません。
この後、何がどう変わるのかは、この時点でまだわかりませんでした。
本殿の表に張られた幕は例年通り。この校長先生、私の近所です。
昨年11月に亡くなりました。何年も寝たきりだった奥様を送ったのは
その20日ぐらい前のこと。
ここで校長をしていた時、子供達に神楽を習得させるべく尽力したそうです。
10時、社務所から一定の役割の方々と一緒に本殿前に来るはずですが、
単独で神事が始まりました。
宮司の後を少し遅れて、大出早池峰神楽さん、そして、献幣使が本殿へ向かいます。
今年も東禅寺しし踊りと上柳しし踊りの姿は無く、渡御の時、川で清める御神輿は
そのままで、皆さんがこの場で清め始めました。
今まで清めていた川の上流に魚の養殖場が出来たようで、それも渡御無しの原因の
ひとつのようでした。
10時から神事なので、もっと早くスタンバイした方が体裁が良いのに、
と思っていたのに、今年も10時スタートの張山しし踊りさん。
まあ、奉納する芸能が少ないから良しとしましょうか。笑
今年は特にもお祭りの数日前が連休だったので、この日も仕事を休むのが
難しい人が多かったのも事実です。
さて、いつもは渡御ですが、この後は・・・
おや、ここでは馴染みのない衣装の団体が見えます。
今年は、本殿廻りを三周して渡御は終了ということになりました。
この渡御、川の問題だけではなく、担ぎ手確保も大変なようです。
そして、大出では馴染みのない衣装の団体は、
な!なんと!大迫の早池峰岳神楽さんではありませんか!
大出の関係者が揃う前から神社に到着しており、勝手がわからない様子でしたが、
なんとか行列に参加できたようです。
早池峰山が開山し大迫と遠野に妙泉寺が出来て以来、大迫の神楽が大出に奉納するのは、
もしかして、初めてのことではないでしょうか!
また、大出早池峰神楽では、これまで見たことのない人数でのシンガク
これもまた、恐れ入りました!
前の晩、宵宮での神楽が終わった後、片付けをしてから、たぶん反省会、
皆さん、かなり反省をしたようです。笑
昭和7年3月、民俗芸能研究の第一人者である本田安次氏が大出を訪れています。
その時、社務所で鶏舞、翁舞、三番叟、天女、鞍馬、五穀、権現舞が演じられました。
この時、胴取りをしていた佐々木安成氏の話では、2、3代前に岳神楽を伝授され、
立派な伝授目録も始閣家に伝えられていたが、火事で焼失したと云う事です。
遠野には同じ岳系統の神楽のひとつとして平倉神楽さんがありますが、
ここも明治34年に同系統の塚沢神楽さんから習得して、後、中断。
およそ100年後に石鳩岡神楽さんから習い直しをしています。
ちなみに大出が2,3代前に岳から習得した時期を当時の100年ぐらい前と仮定すると、
天保の初め頃になります。
この頃、何があったかと云うと、大飢饉が続いていた時代です。
それ以前の元禄年中(1691~1695)にも、飢饉で大出では神楽が
出来なくなった時代があります。岳では神楽巡業に里に下りたといいます。
神事に必要とされたことで、何度も復活してきた神楽です。
今回、附馬牛町に三団体あるしし踊りから唯一参加の張山しし踊りさん。
今回は、のっぴきならない事情でメンバーのやりくりをしたようです。
これからも、どこがどうなるのか、わからなくなりつつある、しし踊り、
奉納だけでの参加は危ういという一例です。
最後は恒例によりまして、餅撒き。これも、とても重要なことです。笑
手紙ではないですが、追伸です。
今度の27日土曜日は、宮守町下宮守6地割にある塚沢神社の宵宮です。
午後6時から神社の割拝殿で神楽の奉納があります。
塚沢早池峰神楽さんと平倉神楽さんが舞います。演目数は7,8番とのこと。
お酒を飲みながらでも、ヤジを飛ばしながらでも、和気あいあいと見られると思います。
土曜は岳の弟子神楽として私、座中共々ベストを尽くしたいと思います
両妙泉寺があった時代のもめ事については、今も語られますが、裁定以後の早池峰山の行事では、両方から人が出て神事をしていたことについては、話す人がいません。
また、そこで神楽を一緒にやったかどうかわかりませんが、神事にその関係者が同席していたことは事実のようです。
今回は宮司さんが招聘したようなので、同じように招聘されれば大変なことですね!笑
今回は本当にびっくり!でした。
塚沢に岳神楽が伝えられたのは寛政年間(1789~180)なので、その10年ぐらい前が天明の大飢饉にあたり、餓死と病死で南部藩では6万4000人ぐらいが亡くなっています。
おそらく、天明の飢饉の際に、里へ下りた岳神楽の廻る里の一つに塚沢も入っていたのかもしれません。
一方の大出は、里への巡行が許されていなかったがために、何度も中断、断絶を繰り返しながら、復活してきたんでしょう。
本当に遠野は歴史のある町なんですね。千葉は成田山のお祭り等々はありますが、地元の神社でも神楽はあまり聞きません。ところで遠野は朝晩はちょっとは涼しいのでしょうか。笛吹さんのアドバイスでウオーキングを試みてみましたが、朝でも30度超えこの暑さで断念し、アマゾンで室内健康ステッパーというのを買って二日続けています。これが結構足と腰にきます。いつまで続くか?と思っています。頑張ります。長々すみません。千葉の寅
ここのところ、ずっと雨模様です。お陰様で暑くて寝られないということはないです。
また、梅雨で良かったことに、朝、散歩せずにすみます。笑
お祭りは千葉県内でも神社や人の人数の多い分、沢山ありそうですね!山車なんかも立派そうだし。
>岳の祭礼ではたびたびお会いしていますね。
>大出の神楽はなぜ稼ぎに出られなかったのでしょうか?岳の神楽を禁止されたことはあったようですがそのために稼ぎに出たと言う事らしいですね。黒森のように判例を基に霞越えの巡行が出来たのでしょうが、やはり大出は集落内だけだったのでしょうかね。やはり遠野の修験の霞が厳しかったとか。岳にしても大償にしても霞が外に弟子?神楽が有るわけですがなんじょして行けたんでしょうね
寛政9年(1797)、岳から宮守の塚沢へ神楽が伝授された同じ時代、早池峰権現に帰依したいと青笹村の人が同村で神楽を行うことを依頼。
社家神楽は、他村で行ってならない決まりだということで、山伏から舞台の注連縄や飾り付けを取り払われるという事件がありました。そこで遠野の妙泉寺と山伏の元締め大徳院とのやりとりが、遠野の早池峰山妙泉寺文書に収録されています。
大出妙泉寺の神事には、山伏が依頼されて補助することがあったようですが、社家が山伏の処へ助太刀に行ったと云う事は無かったと思われます。
>岳なども早くに吉田神道になってるし大出もそうでしょうし岳との相違は大きいですね。自光坊がどの様な役割を果たしていたのか・・史料が少ないようですね。