toshinSHINANO's blog

ようこそtoshinSHINANOへ
https://toshin-shinano.com/

追分宿散策

2019年07月04日 | 歴史の道/中山道

6/13(木)晴れ
追分宿郷土館→追分宿→分去れ周辺(昼食)―<戻り)―油屋(休憩)→堀辰雄文学記念館→駐車場
浅間根腰三宿(軽井沢・沓掛・追分)のひとつ。江戸から20番目の宿場で、北國街道と中山道の分岐点で交通の要衝でした。
江戸時代に入り、貞享[じょうきょう]年間(1684~1688)の記録には、旅籠71軒、茶屋18軒、商店28軒、他5軒と参勤交代や善光寺参りなどの旅人で大いに賑わいました。(本陣1軒、脇本陣2軒)
「おいわけ」が記された古い資料は、諏訪神社の神庫[ほくら]収納された「大般若経(全600巻)」の奥書に、「佐久郡長倉逐分[おいわけ]大明神御宝収蜜 嘉応元年(1169)巳丑正月奉 斎藤家臣」と記されています。このことから、「おいわけ」古くから栄えていたのではないかと思われます。

浅間神社前
明治になり、参勤交代がなくなり通行人も減少しました。
しかし、人力車が追分宿70台と外国人観光客などで、それなりの賑わいはあったようです。(軽井沢宿7台)
その後、日本を旅する外国人向けのイギリスのガイドブックで追分の対応の悪さが指摘され外国人観光客は減少します。
明治21年の直江津~軽井沢間が開通しましたが、当時、駅のなかった追分は、訪れる人がさらに減少してしまいました。

明治42年、初代総裁、副総裁の別荘がが追分にでき、臨時停車場が設けられたことや折からの登山ブームにより賑わいを取り戻すことになりました。
<明治後期~昭和初期>地価の上昇する軽井沢を避け、学生、文人や中産階級の人々には避暑を目的とする宿泊や別荘地としての人気がありました。


浅間[あさま]神社:祭神は大山祇神と磐長姫神の二神
湯の平の「浅間大明神」の里宮とされる説もある。
この場所には、いくつかの石造物があり、いつかこれを調べたいものである。

ここで詠まれたとされる芭蕉の句碑は、広く知られている。
「婦支飛寿 石裳浅間能 野分哉[ふきとばす いしもあさまの のわけかな]」「更科紀行」貞享5年(1688)春秋奄二世長志翠の書
寛政5年(1793)芭蕉百回忌に佐久の句会「春秋庵」により建立された。


御嶽[みたけ]座王大権現碑
「御嶽山」は、山岳仏教(修験道)の総本山「金峯山[こんぷせん](奈良県吉野)」の別名。7世紀末、役行者[えきのぎょうじゃ]が当地で感得した「蔵王権現」を祭祀して建立した。
当初、自性院境内あったが、江戸後期に流行した石尊信仰を勧請したため、不要となりこの場所に移された。

不動明王像
台座は油屋の寄進によるもの。こちらも自性院境内あったが、移されたもの。


ルートマップ 散策場所は、青い線で示された部分

まもなく、宿場に入りますが「桝形」がありません。
桝形の目的は、宿場内が覗けないように道を曲げるものですが、この場所は登り坂で峠のような地形になっており、外から中が見えないために桝形が必要なかったと云われる。この先は、「昇進橋」を通過します。

昇進橋をさらに進みます。
精進橋の由来
江戸時代の中山道分間延絵図では、「精進場橋」と記されている。
近くにあった修験道堂「自性院」から由来したものだと思われる。
現在の名前に変わったのは、昭和初期に町が学校法人に対し、夏季の学生寮を沢山誘致した。当地で学んだ学生が高等文民試験(国家試験の上級職)に合格する確率が高かったことから、音が似ている昇進に変わっと伝えられる。(真偽微妙)


諏訪神社
鎌倉時代の軍神として逐分[おいわけ]大明神が上社(この場所)に、下社が中山道の反対の南側に勧請されたとされる。下社は、浅間山の噴火を鎮めるため、明治天皇の勅裁をおこなうため現在のこの場所の境内に移され、その後、明治4年に合祀された。

一茶の句碑(諏訪神社境内)
「有明や 浅間の霧が 膳を這う」

油屋の庭
追分宿の脇本陣として、文化の中心的役割を担っていた。
元の場所は、道の反対側にあった。


泉洞寺の裏にある弥勒菩薩半跏思惟像[みろくぼさつはんかしゆいぞう]は、堀辰雄の「大和路・信濃路」により「歯痛地蔵」として親しまれている。

堀辰雄文学記念館 追分宿郷土館とセットで訪れたい。
門は、本陣の裏門を移築したもの。
敷地内には居宅、書庫や多恵夫人の住居(資料館)などが立ち並び、優雅な雰囲気を醸し出す。

これはおまけ編。
(御代田駅近くの栄町交差点から旧中山道を南下100m程度)
昭和39年にここに住居された方によりこの石碑が建てられた。
小田井城主小田井又六郎の長男、市村弾正の谷地城がこの地にあったと伝えられる。
弾正は、武田軍の攻撃を逃れ、遠江の渥美郡市村に逃げて、市村姓を名乗ったとされる。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 青田南葉山 | トップ | 五郎兵衛用水の現地学習会 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

歴史の道/中山道」カテゴリの最新記事