<塩名田宿>
中山道の千曲川(ちくまがわ)を渡る東側に、千曲川が氾濫して渡ることができなくなることがあったために儲けられた宿場。
江戸初期は橋が架けられ対岸に渡っていたが、度々、流されてしまうため船渡しに変わったが、それは、18年間(1743~1750年)でその後再び、橋が架けられた。
しかし、橋が流されると人足による川渡りが行われていた。
塩名田宿の中央(中宿)から小諸城下に通じる旧道。
本陣・問屋「丸山家」は、間口8間・奥行11間半と大きな屋敷。現在も居住されている。
裏庭の松は、手入れが良く見ごたえ充分。
休み茶屋跡(川原宿)急坂の途中にある「嘉登屋」。現在の「角屋」は、明治になり架け替えられたもの。木の陰から見える黒い壁には、「嘉登屋」の文字を確認することができる
川魚料理の「竹廼屋(たけのや)」の西側の千曲川河原に、上部に穴の開いた大石がある。
船が流されないようにこの石につないだと伝えられる。
<八幡宿>
塩名田宿から27町。中山道でも宿場間が極めて短いが、中間に千曲川があることと粘土質の土地で、梅雨時や雪解け時期には人馬の歩行が困難になることから、その対応のために設けられたとされる。1861年(文久元年)11月7日、和宮が徳川家茂(いえもち)との結婚のため、江戸へ向かう際に宿泊した。
八幡宿の東側にある石仏・・・誰か知り合いにいそうな親しみの持てる顔ですね。
晴れれば浅間山が見える高台にある大日如来。
ここからの写真は、コンテストでの写真でも使われるらしい。
八幡(はちまん)神社の境内にあり、旧本殿とされる建物。手前の右側に本殿がある。
「柏、菊、葵」紋がある。普通、八幡宮は、高良社には三扉あり、それぞれに金の紋が付けられていた。普通だと八幡宮は、巴か鳩がご紋だと思うが、どうしてでしょうか。
楼門。ここには、「止戈為武(しかいぶ)」と書かれた標札がかかる。
戈(ほこ)を止めることが武の本義なり。ということで、「争いを止め、平和と文化に貢献する、和協の道を表した道徳的な内容をもつ。」と云う意味の説明書きがあった。
本陣・問屋跡(小松家)。中山道宿場本陣で最古の門とされる。