K先生が、「短歌と俳句の世界」の解釈をしましょうと教材を持ってきてくださいました。
石走る垂水の上のさわらびの萌え出ずる春になりにけるかも
志貴皇子(『万葉集』巻第八)
これを、みなで研究しました。
まず、K先生が
短歌は、作者の喜びや悲しみを歌ったものです。ですから、私はこの短歌から作者が何を喜び(悲しみ)どう感じたのかを、子どもたちに考えさせようと思います。と授業構想を語られました。
では、「この短歌は「喜び」「悲しみ」のどちらを歌った歌だろう」が、最初の課題となりました。
これは全員一致で「喜び」
では、どこで一番「喜び」を感じることができるか、を話し合いました。
漠然と話していてもまとまりません。また、それぞれが違う部分の話をしていても、議論がかみ合いません。(例えばAさんは上の句を根拠に話し、Bさんは下の句を根拠に話したら、どっちがより正しいのか比べようがありません。)
そこで、まずこの句を2つに「切って」議論する範囲を狭めることにします。
石走る①/垂水の上の②/さわらびの③/萌え出ずる春に④/なりにけるかも
①~④のどの/で切って考えるか話し合いました。
これは議論が分かれました。
②だと思います。さわらびの萌え出ずる春になったが、一続きだからです。
③です。ここで上の句と下の句が分かれるし、春は早蕨にかかるわけでなく、全ての自然のことを言っていると思われるからです。
④「の」は接続の意だから、たるみ「の」うえ「の」さわらび「の」もえいずると、たたみ込むように連続させているからです。
ここでそれぞれ意見を出し合いましたが、なかなかまとまりません。そこで後々分かるかもしれないからと言うことで、便宜的に一番人数の多かった③で切ることにしました。
石走る垂水の上のさわらびの ③/萌え出ずる春になりにけるかも
の、どちらから喜びを感じるのかを話し合います。
これは、一同、萌え出ずる春になりにけるかもで一致です。
今度は「萌え出ずる春になりにけるかも」のどこに喜びがあるのかです。
萌え出ずる/春に/なりに/ける/かも (今日はここまで。次回に続きを...)
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