totoroの小道

「挑戦することで、きっといいことがある」  http://www.geocities.jp/totoroguide/ 

指示するから 育つ

2008-07-15 05:42:29 | 学級づくり
朝は、毎日ほぼ4時半に起きることにしている。

特にこの時期、朝は気持ちがいい。空気もさっぱりしてじとじとしていない。このまま日が出なければよいと思う。懐かしい音楽をかける。今日は財津和夫さん。昨日は、ビリージョエル。一昨日は、小田和正。ほっとするなあ。

家内との会話も、朝が多い。夜は、互いに疲れて話せないが、朝なら家内とコーヒーを飲みながら少しゆっくり話しができるのだ。

夜は帰りがおそくなった。最近は子ども達と一緒に食事ができるのも朝食だけになった。

しかし、朝は、やっぱりなかなか忙しい。

ブログを見たり、気になるニュースを調べたり、持ち帰った仕事を進めたりする。昨日自分の行った授業や、見てきた授業を振り返る。それから今日の授業のプランを立てる。

それから、犬のチロンの散歩に行き、ウサギのエサ用の草をとり、鶏とヒヨコの世話をする。畑の野菜に水をかけ、ブドウの木についている虫をとりのぞく。

ところで、犬の散歩、私はリードを使わない。言葉一つで、彼女を動かすことができる。近所の方が、「賢い犬ですね。」と褒めてくれる。しかし、それは違う。指示を出すから、彼女は動くのだ。「よし」「だめ」「こっち」「止まれ」「ストップ」「入れ」「おすわり」「来い!」・・・これらの言葉をチロンは聞き分け、嬉しそうに従う。彼女は、私の意志を知りたいのだ。そして、それに従うことがこの上なく嬉しいことなのだ。褒めてもらえるから。

それを、リードで毎日引っ張ると、私の意志は一本のひもでしか伝えられない。だから伝わらない。犬がリードを引っ張り、人がそれにくっついていく。

犬はみな賢いのだ。その犬にきちんと指示をしないから、その賢さが出てこないと思うのだけど。

教育も同じだと思う。

きちんと指示しなければいけない。私はこうなってほしいとまず意志を持たなければならない。何を、どうしたらいいのか、子ども達は知りたいのだ。「子供の主体性」は、その後のことだ。


夜、その日あったことや、その日見た授業について、よく教頭先生と話し合う。この先生は、先見性もあり、また、頑固なまでに本当の教育にこだわっている。私が、「指導案や生徒指導など、先生方も大変だからもうこの辺りでよしにしましょう。」と言うが、「いや、それはかえって、先生方や子ども達のためにならない。」と納得するまで一歩も引かない。毎夜、遅くまでうんうんうなりながら公務をこなしている。(朝も速い。よく体がもつものだ。)

また、よく教育情報も流してくれる。

最近「ほら、見てごらん。これ、今まで非難されながらも、本校がやってきたことだよ。」という情報がいやに多い。

その一つは、コミュニケーション能力について。

来年度から試行が始まる新指導要領によって、外国語活動が始まる。「外国語を通じて、言語や文化について体験的に理解を深め、積極的にコミュニケーションを図ろうとする態度の育成を図り、外国語の音声や基本的な表現に慣れ親しませながら、コミュニケーション能力の素地を養う」と書いている。

これは、可笑しいと教頭はいう。本校は、コミュニケーション能力を高めるために、国語のの追求方式の授業に取り組んでいるだろ。英語で、コミュニケーション能力の素地が養えるのか?と問われる。本校が行っているように、言語や文化について体験的に理解を深め、積極的にコミュニケーションを図ろうとする態度の育成を図れるのは、国語だろ。

ただ、時代が、やっと我々が向いている方向が正しいと認識し始めたんだ。それを英語でやろうとしているのは、間違ってるけどな!


もう一つは、国語の学習について。

最近の国語は、主人公の「思ったこと」を問題として話し合われる。もちろん、国語だから、「言葉」を根拠に話し合われるのだが。思ったことなら、何をいっても合っている。ともかく、この言葉からこう思ったのだ。へえ~、そういう読みもあるね。で終わってしまう。

しかし、特に文学作品において、作者は言葉を巧みに縦糸横糸に織り込んでいる。それを、丁寧にひもとくことで、作者が仕掛けた布石や、本来の訴えが見えてくる。それには、もっと文を分析し、言葉一つ一つを吟味しなければならない。また、言葉を吟味することで、言葉を覚え、日本人として時と場に応じて正しい言葉遣いができるようになる。

何でもありの読みから、こう読まなければならない読みへの転換をねらっている。うわべだけさらっと読んで分かったつもりになった読みを、こだわりの読みへと転換したいのだ。こだわって、みると、「おかしいぞ」という仕掛けがたくさん見えてくる。おかしいと感じるから、議論する必要性が出てくるのだ。おかしいことが見えるから、全員が議論に参加する。それも、真剣に。議論するから、多様な考えに触れ、多様な見方に触れ、学びに深みが出てくる。


そんな、話しを延々と.....

よく考えてみると、教頭の話していることと、私の犬との接し方は似ている。

きちんとした、方向を見せるから、子供は伸びようとするのだ。
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2 コメント

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今日も真剣勝負 ()
2008-07-15 22:30:36
 いやあ参りました。いつも返事は「はい」なので、放課後はハイテンションで愚痴をこぼしていましたが、真剣に受け止めていただいていたなんて、一本とられました。
 周囲の話しから自分の教育実践に生かそうととしているtotoroさんにはには脱帽です。
 閉塞感漂う地球を見ていると、何とかしなくちゃと思います。子どもたちに何を残しつないでいくかは大人の責任だと思うのです。よい世界、よい日本よい故郷、よい学校にするためにやっぱりよい授業だね。
 だけど、totoroさんもヒデちゃんもあついね。天竜が日本一になるわけだ。
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すべてが同感です (Mrヒデ)
2008-07-15 20:50:08
・・・「対話」の必要性が叫ばれているのは、それがそんなに心地いいものではなく、一種のストレスだからにほかなりません。だからこそ、ついついそれを避けてしまう。
 最近の若者たちを見ていると、このことをつくづく実感します。「ねえ、みんなでどこかに遊びに行こうよ」。「いいねえ、どこに行く?」「俺は山がいいなあ」。「「いや、俺は海の方がいいなあ。」こんな風に意見が対立した時、ひと昔前の若者たちなら、「山」派が「海」派を、「海」派が「山」派を一生懸命説得したにちがいありません。
 でも、最近の若者たちが見出す、問題解決の方法はこうです。「じゃあ、こういうことにしよう。」「海に行きたい者は、行きたい者どうしで海に行く。山に行きたい者も、そのグループで山に行く。」「そうだね。そうしよう。」・・・これは、個々人の意向を尊重した一見「民主的な」解決ではあります。
 でも、そこには「対話」はありません。「対話」のないところに本当の民主主義もないのです。
 「聞かせる技術」山口義行著より・・・・・これを国語の授業に置き換えるならば、渥美教頭さんの言われるように、「思ったことを何を言っても合っている授業」と同じなのです。このような授業では、「対話」はいりません。コミュニケーションはなくてよいのです。他者と学んでいる意味もありません。やはり、おかしい、変だ、何が正しいのかなど議論しなければ授業ではありません。時々、いや、ほとんどそうかもしれませんが、登場人物の気持ちを黒板に並べるだけで終えている授業を見ます。このような授業では、子どもたちはちっとも頭を働かせません。何も新しいものを発見することもありません。教師は教材解釈もいりません。
 中日新聞7月15日の「中日春秋」に死去された国語学者・大野晋さんの言葉が掲載されていました。「日本人は『感じる』が先にたって、物事を比較したり全体として把握するために必要な『見る』がおろそかになっている、と繰り返し訴えていた。従って、感受に傾いた『美しい日本語』よりむしろ、正確な日本語こそを、もっと心掛けるべきだ、と・・・
 そうですね、授業も同じだと思います。
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