生徒指導について、ある学年の先生方と養護教諭、特別支援担当とともに話し合っていました。
女の子同士がなかなかまとまらず、本音をだしあえないという担任の悩みを、皆でどう解決していくか話し合ったのです。
話し合いの結果、担任がもっと「自分の思いをきちんと話す」必要があるということになりました。そのことがクラスをまとめると考えたのです。「もっとこうなってほしい」「これをやってほしい」などと思いを伝えなければ、いくら優しい先生で、子どもの話をよく聞いても、結局学級はよくならないという方向の話し合いでした。
それを聞きながら、ふと、それは追求方式の授業と同じだとひらめきました。
あのね、僕ら追求方式の授業を研修してるでしょ。あれを、この生徒指導に使えると思うんだ。
例えば、さっきA先生は「まとまったクラス」にしたいと言ったよね。それをクラスで話すとするでしょ。でも、「まとまったクラスになってほしい。」「まとまったクラスにするぞ」と言っても、それじゃあうまく伝わらないと思うんだ。
子どもたちは、それなりにまとまったクラスになるように頑張ったとするでしょ。でも、先生はそれじゃあ足りないと思うでしょ。そのとき
「もっと、まとまったクラスになってよ。まだだめだ。」
と言っても、子どもたちは
「じゃあ、なにを、どうすればいいの?」
って、なにか違うことを要求されているらしいけど、よくわからい?
と思うよね。
だからさ、追求方式と一緒で、「切る」「分ける」んだ。
今、長縄大会に向けてクラスで熱心に練習してるでしょ。
その長縄大会へ向かって、「まとまれ」と言うんだ。
あれもこれもでなく、多くの場面からまず一つの場面を「切りとり」「分ける」んだ。「切る」ことで、どの場面で「まとまる」ことを要求されているかが、子どもにはっきりするんだ。
あ~、とりあえず、長縄の時に意識すればいいのねって。
次にね、「まとまる」という言葉にも、多くの意味やニュアンスがあるんだ。だから、こんどは「まとまる」という言葉自体を切るんだ。
長縄でまとまるにはいくつも、課題があると思うんだ。例えば「全員が練習に参加する」「互いに励まし合う」「元気に声を合わせる」「跳べない子が跳べるように教えてあげる」...........................................等々
その中の、例えば「全員が参加する」一つに切って絞ってみるんだ。すると、評価する部分がたくさん見えるようになる。
まず「昼休みに全員来たかどうか」を評価する。怠けて来ない子がいたり、図書室に逃げ込んでいたりした子がいたら、「まだ、全員が参加してない、だめ。」「クラスみんなでやることは参加しなければだめ。」「クラスの和から逃げ出す子を許したらだめ」などと、具体的に評価できる。
来たとしたら「時刻通りに集まったかどうか」を評価する。だって、決めた時刻通りに始まらなければ、士気も落ちるし、待たされた方はいやになる。
時刻通りに集まったら、。。。。
そうして、「長縄でクラスのまとまりを作る」という教師の思いを、細かく分けてこれをやってほしいと示し、その一つ一つを「いい」「悪い」「できた」「できない」と評価してやる。
担任がこうしたいという完成したイメージを持ち、それを貫くために、まずは評価すべき観点を作り、その一つ一つを的確に、子どもたちが分かるように評価していく。だめなことは、よしになるまでやらせる。
そうして、教師が100も200も評価していくうちに、子どもたちはだんだん
「あ~、僕らの担任はこんなことを要求しているんだ。」
「私たちの担任は、私たちにこうなってほしいんだ。」
と少しずつ担任の要求している価値を理解する。
その子どもたちが共通して理解した価値の集合が、クラスの基準になる。一つクラスの基準ができあがると、それはたとえ「長縄大会」の基準であろうと、「そうじ」や「授業」「友だち関係」にも応用されるようになる。
そこまでくれば、そこからは子どもたちの自主性に任せる部分が多くなる。クラスの自治も始まる。
つまり、学級指導でも、まず「切って」「分けて」一つのことでよいので、教師が子どもたち全員に、共通のクラスの理想像=基準を追求させる。
一つのことでできたクラスの理想像=基準は、他のクラスの運営にも反映される。そのためにも、担任は苦しいが、物事を分析し、一つ一つ自分で求める基準を決め、妥協したい気持ちに負けずしつこく追い求める。
おそらく、これはすごい「思いつき」だけど、意外と真理に近いと思うんだけど。
そうです。生徒指導で困っている教師の言動は具体に欠ける、私はいつも見ていてそのように感じていました。
例えば朝運動の駆け足がよくできる学級は、教師がよくグランドに出る、子どもの全員がいるか確認する、走る様子を見る、教師がグランドに出れないときは、朝の会で確認する、評価する、それだけのことでずいぶん違います。
口で注意し、漫然と眺めているだけではけしてよくなりません。