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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

甲斐市寺平道祖神祭り 前編

2025-02-15 23:07:59 | 民俗学

 何十年ぶりに山梨県内の道祖神祭りを訪れた。なぜこの日道祖神祭りを訪れることになったのか、最初の発端がどうも記憶にない。たまたまネット検索していた際にこと八日ごろに行われる道祖神祭りがヒットし、それが「寺平地区道祖神祭り」だった。見れば記事を掲載しているのは甲斐市役所の秘書課広聴広報係で、「この記事に関するお問い合わせ先」があったので問い合せしてみた。さすがにこうした記事を見て問い合わせてくる人は実際にはそれほどないのだろう、担当の方も戸惑われていた。しかし、今年の実施日について聞くと地元に問い合わせをしていただき返事をいただいた。1月の末だった。すると2月1日に地元で打合せがあってそこで決まるということで、あらためて確認し連絡いただけるということになった。翌週連絡をいただき、今日がその祭日だと教えていただいた(親切に対応していただいた秘書課広聴広報係の方には感謝します)。今日地元でうかがって知ったことだが、毎年2月1日を「初寄合」といって道祖神祭りの準備をする最初の日なのだという。そこで祭日を正式に決定し、その日から道祖神祭りの当日まで準備をするのだという。獅子舞の練習やボンボリのヤナギを作ったり、お札を刷ったりするようだ。

村入口に張られた注連縄

 

寺平道祖神

 

集落東の荒川沿いに張られた注連

 

区長、ご神体、ボンボリと続く

ボンボリ(トウローという人もあった)

 

 祭りは午後7時から始まるということで、昼間の様子をうかがいたいと、暗くなる前に地区内の様子をうかがった。甲府市内から荒川を渡ると中島という集落があって、甲斐市に入る。甲斐市といってもいまひとつわかりづらいのだが、旧敷島町である。昇仙峡へ向かう道沿いにある地域で、よそから見れば甲府市のように思うのだが、ここは甲斐市である。その中島から少し上ると荒川沿いの尾根を過ぎて寺平に入る。その入口に注連縄が張られていてここが境界域なのだと察知する。ネットで検索してみると翌日の村まわりでは東西の入口で獅子舞をするとあったので、東にもこうした注連が張られていると思い、集落内の細い道を進むと、荒川沿いの巨石のところにも張られていた。これがその村境なのだと思っていたら、あとで聞くと、県道をさらに昇仙峡の方に進んだ長潭橋にもこの注連は張られているという。獅子舞の終わったあとに行ってみると、確かに橋の手前に注連が張られていた。以上3か所が村境と認識されている場所のよう。

 ここの道祖神は山梨県らしい丸石道祖神である。古い立派な台石の上に置かれているが周囲にもたくさん丸石が祀られている。主神は中央のものなのだろうが、周囲の丸石も道祖神として認識して良いかと聞いてみると、はっきりはしない。もともとここの道祖神はもう少し東側の辻にあったものという。ここに移されてまだそれほど経っていないというが、元の場所にあった時は丸石が盛り上げられるように置かれていたという。そして台石にある盃状穴に丸石が置かれていたともいう。昔の姿がわからないので何とも言えないが、盃状穴についてもこれまで道祖神に関連して触れてきているのでその成り立ちが気になるところ。

 さて午後7時前に宿である公民館からやってくる。先頭は区長さんである。区長さんについてどなたかが「この2日間は神様」と口にされていた。区長さんに次いで太い竹の筒を持った方がやってくるが、この筒は道祖神に奉納される。名前はないかと聞いたが長老でも知らなかった。ご神体という意図であるよう。この日はこの竹の筒は2本道祖神の前に供えられたが、昔は3本あったという。もう1本は子どもたちが「お祝い申せ」といって竹に綱を繋いでみんなで地面に仰いで叩いて割ったという。「割れるほど良い」とされてやったらしいが、今は子どもたちがいないためやらなくなったよう。なお、2本供えられた竹のうち1本は、ムラの入口の注連を張ったところに持って行って納めるという。次いでボンボリがやってくる。ボンボリは県道端のガードパイプの支柱に括られて立てられる。寺平の祭りを見てみたいと思ったきっかけは、このボンボリだった。それはヤナギとその下の灯籠の形が、辰野町鞍掛のデーモンジなどに似ていたからである。実物を確認してみたいということでこの日足を運んだわけである。

続く

 余談であるが、寺平まで我が家から120キロちょっと。遠いと言えば遠いが長野市へ行くことを思えばずっと近い。本日記の初期に長野より近い県庁に触れたが、実は県庁なら長野より近いところに他県の県庁がひとつどころかいくつもある。長野県庁が北に寄っているという事実がこういうことになる。寺平から帰るのに一般道を利用した。コンビニに寄った時間を除くと時間にして2時間半。驚いたのは国道20号である。韮崎市から茅野市まで、距離にするとかなりあると思うのだが、この間ほぼ単独走行だった。最初は前に2台ほど走っていたが、信号待ちでそれらの車から離れると後ろから接近されてくる車が見えてきてもそのうちに信号で離れたりしてわたしの前後には車がいない。そこそこスピードは出していたのでそのうちに前の車にたどり着いたが、それらの車も登坂車線で1回(1台)、信号で左折して1回(1台)、3回目はわたしが国道152号へ分岐してさよならをしたためお別れという具合で、前後に車がいた時間はほんの10分くらいだっただろうか。それほど国道20号に車が走っていない。ちなみに対向車には数えきれないほど出会ったが。それも午後9時代である。こんなに国道20号から車が減ったとは驚きであった。


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