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〝野荒し柱〟

2025-02-12 23:30:07 | 民俗学

 『あしなか』157号(昭和53年)の巻末「たより」に田中義広氏が同155号に掲載された横山篤美氏の「野荒し柱の立つ村」について「「野荒し柱の立つ村」には大変感銘をうけました。手入れをしたら『遠野物語』より面白い「安曇物語」が生まれるとさえ思いました」と記している。『あしなか』155号はまるごと同名の記事で横山篤美氏が書かれている。なぜこれが掲載されたかについて表紙裏に解説されていて、もともとは信濃毎日新聞の土曜夕刊に掲載された『山と木と人と』というタイトルの第2部として昭和52年5月14日から8月13日まで13回にわたって掲載されたものという。切り抜き記事が事務局に送られてきて、転載することを了解得たという。いわゆる民俗誌であり、対象地域は横山氏の住まわれていた近くの「稲核」だった。副題に「長野県南安曇郡稲核」と記されている。

 さて、「野荒し柱」という聞きなれない単語が気になるところ。過去の『あしなか』を取り出してきて、当時あまり読んでいなかったことに気がつく。稲核では

 明治二年陰暦八月四日、村中が法界寺に集まって「極難者調べ、並に野荒し過躰改め」をしている。この年は四年前の寅年の凶作に並ぶ不作年になることが見込まれ、松本藩庁ではすでに極雑者、つまり飢え寸前の者の調査を村々に命じていた。そこで、不順を天候を案じる村人が集まって、村内銘々の生活実態の調査と、畑作盗難への警戒を申し合わせたのである。

村に残っているその際の議事録を載せていて、

一、野荒し致し候者は見附け次第、野荒柱にくくり附け三日さらし、その上その者の家へ村中集り喰うべし、その上六八籾は申すに及ばず、すべて御拝借物決して貸付け申すまじく候
 さてまた役場表へ目安箱掛けおき、なりずもく(果樹)等に至って盗取り候を見当り候はば、見のがしなくきっと目安箱へ入れ申すベく候(後略)

とある。野荒し者とは他人の畑の作物を盗み取る者のことを言う。そしてこれはその時限りのものではなく、昔から野荒し柱があったことは、古文書に見られるという。「野荒し柱は常設のもので、村中に一本かまたは幾本もあったかは分からないが、そこに三日間縛りつけ晒し者にしておき、一方、村中の者がその盗人の家に集まって、あるだけの食物を食べてしまえというのである」と横山氏は書いている。その上で「三日間のくくり付け中はどんなふうに過ごしたか、家族や親類の者が密かに食物を運んだであろうか。それよりも、そのこと自体村定めであっても、果たして実際に行なわれたものだろうか。もしそのようなことをすればこれ程にするぞ、ということをお互いの胸にしみこませるための表示であったかも知れぬ」と、本当にそういうことが実施されたかどうか思案している。厳しい触れではあるが、「入れ札」のことも記している。

 稲核村の五人組頭前田長七の日記によると明治3年(1870)陰暦3月5日に、またも法界寺に村の総寄り合いがあったという。村持ちの栃沢山に小屋掛けして杣、木礁をしていた金之丞ら5人が、家に帰っていた3日間のうちに、小屋に置いた鋸、斧、やすり外諸道具を誰かに盗まれたという。その場所が他村から及ぶところではないことから、村の者の仕業に相違ない。そこで村中集まって〝入札″(いれふだ)で犯人を割り出そうとしたのである。こうした「入札」もよく行われた犯人割り出し法だったという。かつての村で暮らすことの厳しさがうかがわれるが、犯罪を犯した者を自らの掟で裁く。確かに物語になる話かもしれない。


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