Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

かつて飯田市誌編纂で行われた民俗に関するアンケート

2025-02-28 21:00:00 | 民俗学

「多様な民俗地図への試み」より

 飯田市では、かつて飯田市誌編纂の取り組みがされていた(「中央と地方」参照)。その中で民俗部会はアンケート調査を行ったが、編さん事業が中止されたため、それらは死蔵されることになった。おそらくこれまでも、これからも当時のアンケートが利用されることはないだろう。ちなみにアンケートが実施されたのは平成12年ころのこと。内容が重いアンケートだったが、市内全域から141名の方に協力いただいた(平成12年であるからその後の合併村は含んでいない)。生年月日を見ると明治35年生まれの方が数名おられ、明治時代に生まれた方が15名もおられた。貴重なデータではあるものの、前述したように死蔵されているもの。このアンケートの利用に関しては、その後発足した歴史研究所を通して了解いただいているが、もう10数年以上前のことだから認識されているかどうかは不明である。そもそもこの大量のアンケートについて、協力していただいた方たちに還元できていないことは失礼な話なのだが、繰り返すが編纂事業が中止されたから仕方ないことなのだろう。中止されるまでに使われた費用は無駄となったわけであるから。

 

 

 さて、141名の方たちには同じ地域の方たちもいてそのまま地区数とはならない。アンケートをまとめられたのは当時の編さん室であるが、その際に地区名を付している。その地区数は92箇所あった。それら調査地区を図に落としたものが今回示したものである。旧飯田市の形状は左上から右下へ帯状になっているうえに、左端と右端は山間部のため集落がほぼない。外れた位置にある大平は廃村になっている地区でこれを外すと市域の真ん中あたりにしか集落がない印象を受けるだろう。それらがわかるように、今回は農振地域と用途区域を着色して示した。地区名が確認できる大きさで表示したため、すべての地区名が表示てきていないのは勘弁いただきたい。市街地のいわゆる丘の上といわれる地域は、比較的近いところに調査地点があるため、地区名を表示できなかった。

 こうしてみてみると調査地点にやや偏りがあるように思える。薄く大正9年の行政区域を示したが、旧山本村には「久米」の1箇所しかない。旧三穂村にも「伊豆木」と「立石」の2箇所しかなく、南部が粗い印象を受ける。これらの地点で行われたアンケート結果から民俗地図を作成したものを次回から紹介してみる。なお、実はこれらアンケートを利用したものを既に本日記ではいくつか記している。

年明けの墓参
2月8日の行事を飯田市にみる

続く

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多様な民俗地図への試み

2025-02-27 23:11:53 | 民俗学

 安室知氏は、民俗地図に関連した記事を各誌に掲載している(長野県民俗地図研究会が日本民俗学会年会でグループ発表したは「日本民俗学会第七六回年会に参加して」『長野県民俗の会通信』305号へ、また「方法としての民俗分布論―民俗地図の可能性―」『長野県民俗の会会報』47など、ほかに第36回 現在学研究会 リモート研究会において「方法としての民俗地図、ver.2」2025年1月28日など)。それらで安室氏はこれまでは「小縮尺の議論が中心であった」と言い、「そうした小縮尺の民俗分布論は、特定の事象しか取り上げられないこと、圧倒的にデータ数が不足すること、用いられるデータの出所が不分明であること、データが質的に不均衡であること、民俗誌データと大きく乖離することなど問題が多い」と指摘している。そして「県・地方といった中縮尺の民俗分布論が必要である」と述べて、中縮尺の民俗地図を勧めている。

 地図には大・中・小の縮尺が知られる。一般的には

大縮尺 5千分の1より大きい縮尺の地図
中縮尺 1万分の1から10万分の1程度の縮尺の地図
小縮尺 20万分の1より小さい縮尺の地図

と言われている。ようは縮尺の分母が大きいほど小縮尺と言われ、小さいほど大縮尺ということになり、大小のイメージが逆転するためわかりづらいことは確かである。実際のところ長野県民俗地図研究会が作成した地図はA4版で長野県図を出力しており、縮尺は100万分の1程度である。利用する際にはさらに小さくしているため、実際の縮尺は200万分の1とか500万分の1といったところが実際だ。したがって縮尺レベルでいけば小縮尺なのかもしれないが、安室氏が述べているのはそういうことではない。ようは日本地図であれば広域表示であるから小縮尺であり、県図であれば限定された地域を表しているから中縮尺、もっと狭い範囲を示そうとすれば大縮尺であるという意味である。ようは日本地図で表したような民俗地図は、前述の「小縮尺の議論が中心であった」に当るわけである。

 さて、民俗地図研究会では長野県図の地図を作成してきたわけであるが、いっぽうで「それは長野県という限定範囲のこと」という指摘もある。したがって周辺県を含めた地図も今後は課題となってくるし、会員の中にはそうしたところに目を向けようという意識もある。多様な展開は予想されたことであるし、当初の県史データだけにとどまらない地図も今後は展開されることになるのだろうが、応用していくにはさらなる地図作成が容易なものであるという意識が広がらないと難しい。そういう意味で、ここでは盛んに地図を垂れ流しているわけであるが、「多様」な展開は今後も検討していきたいと考えている。

 そうした中で以前上伊那郡内を示した地図も示してきたわけであるが、ここでは市域という範囲を示した地図を事例として展開していこうとも考えている。もちろん大縮尺化することは地域性を捉えられない可能性が高いが。それらをもう少し広いエリア、例えば郡とか県といったところへ反映することでデータが多くなり、地域性の検証にもたどり着くのだろう。

続く

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農家でも野菜を買う

2025-02-26 23:26:55 | ひとから学ぶ

 先日の民俗の会総会後の懇親会で、「食」の話を参加された女性の方たちとした。まず我が家の食卓であるが、基本的に米はもちろんだが、野菜も自家用のものを利用している。あえていえば毎週届く生協の食材にニンジンが必ず入っているから、わが家ではニンジンを作っていないことになる。我が家ではニンジンがうまくできないため、ニンジンは購入品である。いつも生協の箱が届くと冷蔵庫に運んでいるわたしには、「野菜」の類がこの箱に入っていたことは、ニンジン以外にはない。ごく一般的な野菜の中で、やはりニンジンは必須品(緑黄色野菜)であるから、食材として妻にとっても必須と捉えている食材なのだろう。そのほかのごく一般的な野菜は我が家で採れる。ニンジンについてはこうして毎週届くから「旬」の野菜と言う感覚はなく、いつでも食べている食材の一つでもある。しかし、自家用野菜となると、1年中採れるものはない。やはり採れる時期があるから、無い時期もある。したがってキュウリやトマトを冬場に食べることはない。

 長野県民俗の会第245回例会は3月23日に安曇野市豊科郷土博物館などで開催される。博物館の今回の企画展は「食卓の風景 食と家族の80年」である。「食卓から家族を見た時、どんな風景が見えるだろう。献立は誰が決めるか。食材はどこで誰がどう手に入れるか。調理は誰がするか。家族はどのように座って食事を食べているか。戦後80年の食と家族の変化を見てみよう」というものだが、それに関係して「調理は誰が」という話で話題になり、Uさんの家の話になった。Uさんの家では夕食をUさんが作ることはないという。週に4日はご主人、3日は義母、1日は娘さんだという。ご主人が多く担うのは、退職されて家にいるからだという。ご主人はネットなどのレシピを利用して多様なメニューで組み立ててくれるようで食材もご主人が用意されるよう。そんな話をしていて、Uさんの家は農家でありながらメニューに合わせて野菜も購入すると聞いた。そこで我が家の話を持ち出したわけだが、前述したように我が家では「ある野菜」を利用しているから、旬ではない野菜をわざわざ買うことはない。「農家とはそういうもの」と思っていたらそうではない話を聞いて、考えてみれば農家と言っても食事のことを考えて多様な野菜を必ずしも育てているわけではない。だからメニューに合わせて旬ではない野菜を買うことも当たり前なのかもしれない。むしろ我が家のように野菜をほぼ買わない家の方が珍しいのかもしれない。

 ということで今でも「トマトやキュウリを買う」と言われて、思わず「そんなものこの時期に売っているんですか」と聞いてしまった。ということでいつも訪れている店で野菜を見てみたら、トマトもキュウリもちゃんと売っている。ただし、量は少ないし、このあたりでその野菜が採れる時期に比べたら、モノは良くない。そもそも「野菜を買う」とイメージがないため、野菜を売っている空間など見ていなかったということになる。あらためて女性から献立がいつも違う、と聞いてそれもびっくり。かつての農家では献立はそれほど変わらなかったと記憶するし、わが家は今もそんなに多様ではない。きっとご主人の料理は「お金がかかっているんではないですか」と思わず聞いてしまった。

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口惜しいこと

2025-02-25 23:56:49 | ひとから学ぶ

 人はそれぞれであることは言うまでもない。昔に比べるとより多様であるというのは、世の中が画一的な物言いをしなくなったことにもあるだろう。ちょっとした昔話をしても、場合によってはパワハラだと言われかねないし、とくに仕事の空間で仕事を教えるというのは難しい時代になった。いっぽうでそれぞれの技量に負うところが大きくなって、知識格差が大きくなっているのかもしれない。そもそもペーパーレス時代とそうでない時代を生きてきた者にとって、理解不能なことは多い。「印刷」して読もうとするわたしなどは、ペーパーレスにはとても追いついていけない。デジタルとしたら、いかに順番を認識したらよいものか。紙であれば順に重ねることができるが、データで管理するとすればどう管理するべきか、その時に「これでいこう」と思ってもしばらく後にそのまとめ方を変えようとしたら容易ではない。加えれば紙であれば捨てるのも並んでいる中からチョイスすれば良いだけのこと。また順番を変えるのも容易だし、このご時世であれば、紙をデータ化することも容易だ。データだけではちょっとイメージできない。机の上の書類を整理できないで積み重ねているような者にとっては、データなど絶対管理不可能だ。そしてその中から必要なデータを簡単に取り出せるかどうか、年代者には容易ではない。

 既に一線をから離脱したものが言うことでは「ないのだが」、と思いながらも、どうしても口にしたくなることも多い。「これで良いの」と問えば、即答できないことが現役世代には多い。いや答えられないことが多い背景は、紙で大事なものを蓄積していないからだと思う。したがって若い世代でもわかっている人は、ちゃんと紙で管理している。それはともかくとして、とりわけ人とひととの関係を冷静に捉えられるかどうかという点については、周囲への観察眼はもちろんだが、こころに余裕がないと見えないことが多い。それは結果として仕事の成果にも表れる。ちょっとしたことであっても、そうしたちょっとしたことに気がつけない人は、人の信頼を受け取ることができなくなってしまう。そしてそれを口で諭しても、おそらくそうした人たちには理解が得られない。人材が少ないと、結局世の中は、そして会社は低迷していくこととなる。まさにそうした実態を眼にしているようで、残念だが、わたしにはどうすることもできない。経験を大事にしなかった会社の末路かもしれない。そして「末路」だと認識していない人たちが、この後どう対応していくのか、見もので仕方ない。

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〝厄年〟その5

2025-02-24 23:00:00 | 民俗学

〝厄年〟その4より

 〝厄年〟その2において男性の大厄について触れたが、女性の大厄についても触れてみたい。男性の場合42歳を大厄としているところは全県にまんべんなくあり、25歳を大厄としているところがやはり全県に点々とあった。ようは地域性というものは見られなかったわけだが、女性の大厄についてここに図を示してみた。見ての通り、女性についてはここ数回で触れてきているように、「37歳」大厄という箇所が下伊那に集中している。ようは男性の25歳と42歳のようにほぼ全県に当り前に厄年として認識されているのとは異なり、女性の場合は「33歳」厄年地帯と「37歳」厄年地帯が明確に分かれているためにこうした地域性が現れる。もうひとつ特徴的なことは、男性の場合の主たる厄年25歳と42歳の場合の大厄「25歳」は19箇所しかなかったが、女性の場合の主たる厄年19歳と33歳における大厄「19歳」は72箇所もあり、女性の大厄は男性の42歳ほど「どこでも」というわけではないことが解る。図を見ても「19歳」大厄は全県に例が見られる。あえて言えば奥信濃といった北部県境地方には「19歳」大厄というところはほとんど無いようだ。以前にも触れたが、「37歳」大厄が長野市と信濃町に点在しているのは意外なことである。

 

 さて、あきらかに「37歳」厄年に地域性が現れたわけだが、この女性大厄と男性大厄を比較してみようと、両者を同じ図に載せてみた。女性大厄の記号をそのままに、男性大厄の記号を明確にしようと違う系統の記号に変更してみた。とくに気がつく点は2点。1点は女性「33歳」と男性「42歳」はほぼ同じ箇所に整合するということ。裏を返せば男性「42歳」があまりにも一般的だからということになるだろう。もう1点は事例数は3箇所しかないが、男性「25歳、42歳」とふたつの歳を回答した地点では、女性も「19歳と33歳」とふたつの歳を大厄として捉えているいる。回答者に大厄は二つあるという認識があるようにもうかがえ、これらは地域と言うよりは回答者の認識に影響しているようにもうかがえる。

続く

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土手焼きの季節

2025-02-23 23:40:56 | 農村環境

 「田んぼ 土手焼き」と検索すると〝よこね田んぼ〟の記事がたくさん登場する。そもそも「土手焼き」という呼称そのものが伊那谷あたり特有のものなのかもしれない。平らなところではあまりしないのだろうが、伊那谷のように畦畔が大きい水田地帯では土手焼きというものをするところは多い。が、わたしの生家のあたりではあまり土手焼きはしなかった。もし今するとすれば、今風の風習かもしれない。Yahoo!の検索でトップにある解説には

田んぼでの土手焼きは、日本の農業における伝統的な風景の一つです。 土手焼きとは、春先に田んぼの土手などに生えている枯れた雑草等を焼き払う事です。 単に不要な草木を取り除くだけでなく、農地の健康を維持し、持続可能な農業を支える重要な役割を果たしています。

と記されているが、例えば〝よこねたんぼ〟のたくさんの記事を覗いてみると、「土手焼きは害虫駆除と土手の状態を確認するのが目的」とあり、害虫駆除の目的もあるよう。、そして「枯れ草を放置すると草が腐敗し、その影響で土が柔らかくなるため土手が崩れてしまう」という意識が根底にはある。〝よこね田んぼ〟のある飯田市は山間地域が多く、もちろん畦畔が大きい。したがって畦畔が脆弱化することへの意識は高いわけである。したがってこの地域では、草刈をして草をそのままにしておくことはあまり好ましいとは思われていない。必ず草を寄せて、その草を運んだり、あるいは焼却したりする。おそらく土手焼きレベルだと野焼きが禁止されている今となれば、消防署などに連絡して許可を得ているだろうが、草刈後の草を乾かした後に焼く際に、いちいち消防の許可を取っている人は少ないだろう、とは想像である。

 さて、昨日民俗の会総会があって松本市で泊ったわけだが、帰路伊那谷に入るとあちこちに煙があがっていた。とくに集中的に煙が上がるのが見えたのは、伊那市手良あたり。ということで検索してみると伊那市手良地区 活性化企画委員会のinstagramの記事があった。

2月23日、本日、手良地区は、土手焼きの日で春になる前のこの時期に土手を焼きます。これは、雑草駆除を目的に行われています。
手良地区内のあちこちで、今日は煙があがっていまいた。

ということで、写真は対岸の南箕輪から見たその様子である。

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お国のやったお粗末な仕事 後編

2025-02-22 23:15:47 | 農村環境

お国のやったお粗末な仕事 前編より

 同じようなことなのだが、水路に対する意識が低いのは、設計を見ていてつくづく思う。ある国道バイパスは、やはりお国直轄で実施される。国が発注だから、当然大手の会社が、設計にも施工にも関わってくるのだろう。よく言われることだが、お国がやってくれれば事務的には確かに地元は楽だし、予算付けも良いから仕事は早いかもしれない。ところが地元へお金が落ちるかどうかという観点では、もちろん地域発注事業の方が地元への還元は大きい。できれば地元の業者に施工してもらった方が地元にとっても良いのだが、そんな簡単な理論ですらお役所の分担で割り切られてしまう。

 そうした道路に附帯している付け替え工事のような、とくに水路に対して意識が低いことは前編でも触れた。先ごろもある設計を見ていて思ったのは、道路は見た目は真っすぐでも少しずつカーブしていて必ずしも直線ではない。そこへ水路が付け替えられていておそらく横断図から割り出したのだろうが、測点ごと水路が屈折している。ほんのわずかなことなのだが、屈折していれば継ぎ目には隙間ができる。もちろん漏水しないように施工してくれるのは当然だが、長い目で見れば屈折が多ければそうしたところから最初に漏水するようになる。だからできれば水路は真っすぐにして欲しいのだが、ゴミのようなところに金をかける必要がないから、水路のことなどほとんど頭に無いのだろう、設計上は測点ごと水路が曲がる。もちろん用地買収を限りなく少なくしたいから土地に余裕などもたせない。きちっきちっと水路が曲がるのである。場合によっては測点以外のところでも曲がったりするから屈折だらけ。こんな設計は水路主点ならありえない。繰り返すが水路工事ではないから主たる構造物が主になるのはわかるが、「これはないだろう」と思うほどよく曲がっている。

 さらにいけないのはそうした図面を見ても水路関係者がそのことに気がつかない。それは水路の構造についても同様で、前編でも触れたようなこのあたりには無いような製品を利用したり、あったとしても漏水対策にはまったく眼が向いていない。きっと自分たちはお粗末だとはまったく思っていないのだろうが、わたしにしたらこんなお粗末な設計はあり得ない、と思うのだが、いけないのはお国に仕事をお願いしている地元のお役所にもそうした視点がないのが輪をかけているというわけだ。

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〝厄年〟その4

2025-02-21 23:27:32 | 民俗学

〝厄年〟その3より

 〝厄年〟その2において男性の厄年について、25、42歳をセットで厄年としている箇所で、加えて25、42歳以外の厄年だけをあえて図化したものを示した。同様に女性の場合も19、33歳をセットで厄年と答えている箇所は255箇所あり、さらに19、33歳に加えてほかの年齢を厄年と答えた箇所が65箇所あった。したがって合わせると320箇所にのぼり、全体の75パーセントにのぼる。またセットではなく年齢だけで割合を見てみると、意外にも最も多いのは19歳の359箇所であり、次いで33歳の337箇所、次いで32箇所を数えた37歳である。ほかに2歳が26箇所、7歳が20箇所などである。ここに男性同様に、19歳と33歳に加えてほかに何歳を厄年と答えたかという図を示してみた。奥信濃に13歳が顕著に見られ、61歳ほかというところが北信域に、同様に北信域に3歳というところも見られるが、上伊那にも数例見られる。また、男性の際に顕著であった2歳が同じように諏訪地域あたりに見られ、男性の図で示した2歳エリアの線を載せてみた。

 

 加えて問題となるのは「37歳」エリアであるが、「37歳ほか」という箇所が4箇所だけ見られる。伊那市から宮田村あたりに2箇所、長野市と信濃町に2箇所見られる。意外に37歳が目立たないのは、19歳と33歳をセットに厄年としている箇所に絞って「ほかの厄年」を図に示したからだ。そこでもうひとつ、33歳は厄年ではなく、19歳は厄年と答えている箇所に絞ってそれ以外の厄年を図化したものが2枚目の「19歳以外の厄年」の図である。すると「37歳」、「37歳ほか」という箇所が下伊那に集中していることがわかる。それと32歳ほかと答えた箇所が県中央部辺りに点々としている。

 

 ここで両者の図を同じ図に示したものが3枚目の図である。当り前に厄年として捉えられている19歳と33歳以外の厄年については地域性がはっきりしていることが図から読み取ることができる。

 

続く

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お国のやったお粗末な仕事 前編

2025-02-20 23:30:43 | 農村環境

 もう90歳になられるという以前仕事でお世話になった方に先般祝賀の席で久しぶりにお会いした際にも口にされていたことに、「水」の話があった。まさに昨日も触れた「河川法第23条の問題」である。「水」に関してはお国が管理していて、使う側は頭を下げなければいただけない。そうした際にひどいことをかつてはよく言われたもので、なぜそこまで権限があるのか、と思っている人たちは多い。いわゆる国土交通省が「水」を握っていて、どうにもならないことが多い。

 それはともかくとして、お国のやることにはずいぶんな例がある。そしてお国が「やってくれる」となれば、ありがたいと思う人たちも多く、その実態をあまり知らないことも多々ある。生家の近くに立派な道路ができている。出来上がってもう10年以上経つのかもしれないが、まだ真新しく見える。国の直轄で造ってくれた道路だが、よく見ると「なんじゃこれ」みたいな実態が見えたりするのだが、おそらく地元の人たちでそれを認識している人は少ないだろう。

 わたしの生業は、あまり人には言えないのだが「設計」である。それもダムを造るとか、こうした道路を造る、橋を造る、といった巨大なモノに比べたらゴミみたいな構造物の設計だから、そうした世界の人たちから見ればとても「設計」などというレベルのものではない。だから同業分野の方たちには「設計をしている」とは言えても、一般社会ではあまりその生業を口にできないほど〝ゴミ〟の世界である。したがって巨大構造物を造っている人たちにしてみれば、そうした構造物はゴミに違いない。

 ということで、前述の生家の近くのお国が造った道路。道路を造る際におそらく「邪魔」だと思っているものに農業用水路がある。側溝は道路側の構造物だが、既存にあった農業用水路は地元のものだ。そうした農業用水路はゴミのようなものだから、とりあえず付け替えるとしても「水が流れれば良い」程度に考えているの〝かも〟しれない。前述のように見た感じはまだ新しく見えるのだが、よーく底を見ると「何じゃこれ」なのだ。底が洗われてゴツゴツしている。ようは摩耗して骨材が現れてしまっている。まだ10年余というモノなのに、これはどうしたことか。お国が発注するから「設計」も地元ではなく例えば名古屋とか東京の業者がしたり、あるいは地元の業者だとしてもこんなゴミにはろくに意識していない業者が設計するから、このあたりで製造していない製品を作図する。設計図にそうしたモノが描いてあるから、施工業者もお国の役人も設計通りの製品を使おうとする。あるいはお国の役人が天下っているから、そうした製品を設計に反映している、ということもあるかもしれない。いずれにしても、この辺りでは製造されていないような製品だから、都市圏から持ってきたりする。長野県内は凍上するからそうした製品を持ってくるともろい。もしかしたら一冬でこの有様になったかもしれない。たいした水量が流れているわけでもないし、流速があるわけでもないのに、この有様なのだ。そしてこの時世だから、あえてまだ新しい水路をのぞき込んで、水流の先まで目を向ける人などほぼいない。だからこんなに傷んでいるとは気がつかないのだ。

続く

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承前〝長野県における河川法第23条の問題〟

2025-02-19 23:29:15 | 信州・信濃・長野県

長野県における河川法第23条の問題より

 かつて農業用水の考え方について9回に分けて記した。その第1回目に西天竜の用水について触れながら、天竜川の東西での争いに触れて、用水量の実際の数値を示した。表にしてあるが、西天竜の用水量は1ヘクタールあたりに対して0.0047m3/sであるが、東側へ導水している東天竜は0.0153m3/sと西天竜の3倍もの単位用水量を示しており、最大の辰野堰に至っては西天竜の60倍もの単位用水量となっている。もちろんこれは過去の資料によるもので現在値とは異なるだろうが、権利であるならば、それほど大きな変化はないはず。昨日も触れたように、いったん許可を受けた水利権は、基本的には前例に対して権利を更新していくので、減ることはあっても増えることはほぼありえない。ここでいう「減ることはあっても」の背景は、水田の地目変換による減少によるものがほとんどである。

 わたしの日記では農業用水については数えきれないほど記してきている。ライフワークと言っても良いほど、生業に限らずここに関わってきた。自らも河川沿いで生を受け、河川と共に成長してきたから、「川と農業用水」は常に視界に入っていた。わたしから河川を省いたら人生はほぼ無に等しくなってしまうほど、川は生活の一部といって良いほど身近だった。だからこそ、かつて『地域文化』(八十二文化財団機関誌)で「天竜川」を扱った際に異論をはさんだし、いっぽうで人によって川に近いか遠いかによって川への思い入れが異なることを知った。繰り返すがわたしは川の中で育った、と言って良いほど川は兄弟のようなものだった。どこかで書いたかもしれないが、今は言えないものの、子どものころは川の中で競争をしたら、誰にも負けなかった、と言えるほど石がごろごろしたところで走るのは得意だった。「名は体を表す」ほど、「石」も身近だった。後に倉石忠彦先生が子どものころ、科学技術展で「石」で表彰されていたことを知って「似てるなー」と思ったものだ。

 さて、本題である。昨日も記した通り、川の水が干上がるような川での許可水利はほぼ不可能と言える。それは昨日も触れた通り、渇水量の際に取水しようとする水量以上水が流れていないと申請できないためで、本当はここに維持流量などを加算すると、もっと流れていないと申請資料はできない。いつも不思議に思うのだが、許可水利の中には、取水しようとする本流だけではなく、不足分を補う水量も表示して許可を得ている例がある。ようは不足分はため池とか渓流で取水しているというもの。申請資料ではそうした補給している水量も表示して、結果的に必要量を掲げているのだが、そもそも渓流取水などというものが「成り立つのか」ということ。計算上そうした計算をさぞ現実のように示しているが、わたしに言わせたら作為的と捉える。というか申請先の方々の中には、そうした渓流取水の根拠も示せという方がいる。しかし、本来取水している本流の許可をする際に渇水量から取水量を計算するように言っているわけだから、1年を通して流れが認められる渓流ならともかくとして、このあたりの渓流などというものは、渇水時に水がなくなる渓流が多い。ということは渓流から取水するのはそもそも不可能なのだ。にもかかわらず渓流から〇〇m3/sなどという数値を示している事例は「怪しい」はず。他県はともかくとして長野県内ではかなり小さな川まで一級河川指定されていて、「渓流」とされているような川は、本当に小さな川となる。許可を受けようとしている川の水量が乏しいと、「ほかの水源は無いですか」と言って渓流のことを口にされる担当官がおられるが、そこで「あります」などと言ったらお先真っ暗になりかねないのである。

 そして昨日も示した国道交通省の「水利使用許可の判断基準」のページにあるこの公式である。

基準渇水流量-(河川維持流量+関係河川使用者取水量)-取水予定量≧0

ようは渇水量から河川の維持流量と「関係河川使用者取水量」を除いた際に、川に水が残っているかどうかである。小河川の場合、そして取水権者が複数ある場合、それら水利権者がそれぞれ満足するようでないと地域の水利が成り立たなくなる。問題なのは、最初に許可を受けた水利権者は良いが、後で許可を受けようとしたら「水が足らない」ということになりかねない、ではなく、なるのだ。

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長野県における河川法第23条の問題

2025-02-18 23:04:35 | 信州・信濃・長野県

 今冬、関係者の口からよく聞こえる言葉が「川に水が無い」というもの。「この夏、水は足りるのか」に繋がり、水不足を危惧されている。これは水を利用している人たちにとっては大きな問題ではある。しかしである、ことはそんな簡単な問題では済まないことを、知っている人は少ない。

 「水を利用する人たち」、日本中の河川の多くの水は、農業用として利用されている。簡単に「米不足」などという言葉を口にできないほど、背景には重い問題を抱える。「水を利用する」とは、河川法第23条「流水の占用」にあたる。勝手に河川の水を使ってはならない。ようは水利権と言うやつで、この水利権については大きくふたつに分けられる。許可水利権と慣行水利権である。大量の水を取水しているような施設では、現在の許可水利権の制度ができてからそう間を置かずに許可水利権を取得してきたが、少量の水を占用するような施設では、慣行水利権として今でも継続している施設が多い。ところが河川を管轄している国土交通省並びに都道府県では、こうした慣行水利権では、簡単に言えば取水量把握ができないため、許可を取るようにと指導してきた。がしかし、少量であっても簡単に許可は下りない。相応の資料を作成して申請しなければならず、だからこそ少量の取水施設は、とくに取水に支障が無ければ慣行のまま、これまで利用し続けてきたのである。

 長野県は言ってみれば河川の上流域にあたる。したがって大河川は少ない。したがって河川水量の変化が著しい。そして問題の所在がどこにあるかということになる。「川に水が無い」ということは、そもそも許可申請が困難になる。このことは実際に水を利用している人たちも、自らその事務に携わったことがないから、あまり深刻に考えていない人たちが多いのだが、現実は「今年の夏は大丈夫か」どころか、永遠に水不足になりかねないことになる(なぜ「永遠」かと言うと、いったん許可水量が減じられてしまうと、たやすく増量できないからだ。その背景までここでは記さない)。

 国道交通省の「水利使用許可の判断基準」のページを見ていただきたい。「5.基準年及び基準渇水流量」に下記のように記されている。

取水予定地点における河川流量のうち10箇年の渇水流量値を抽出し、そのうち最小値年を基準年とします。

この最小値の渇水流量を基準渇水流量といい、河川維持流量、取水予定量及び関係河川使用者の取水量がこの範囲内に存する必要があります。

とさらっと書いてあるが、ここが問題なのである。ここでいう渇水量とは、同ページの「2.河川流量の測定」にあるように、「年間を通じて355日を下回らない程度の流量値」である。1年は365日しかないから、あと10日しかない。ようは10日間河川に流水が認められなければ、その地点で流水を占用することは不可能なのだ。通常許可申請をする際に、取水地点で流量が把握できていれば良いが、そんなことは少量取水ではありえない。したがって近傍の河川流量データから換算して申請する例はあるが、そこで水が必要量足らなければ、結果的に流量を把握するための調査なりが必要となって来るものの、現実的に「この川はある時期になると水がなくなる」というような言葉を耳にするような河川では、到底渇水量が取水量を上回る可能性は低い。ようは許可申請そのものが不可能なのだ。

 これは新たに許可を得る例に限るわけではない。「5.基準年及び基準渇水流量」にもあるように、「10箇年の」という指摘がある。許可は永遠ではない。農業用用水の場合10年が許可期限。したがって許可期限を迎えればそれを更新しなければならない。その際に、過去10年の河川流量を求めそこから基準渇水流量が決められる。例えば今年は水が川から無くなったとなれば、更新時の実態とすれば河川流量が足らなくなることが予想されるわけだ。ようは次の更新時に、現在許可を受けている水量が申請できる保証はどこにもないのである。繰り返すが現取水地点で、もし流量がみとめられないくらい河川に水が無いとすれば、新規に許可水利権を取得しようとしても、一滴も水を取水することはできない。

 この許可水利そのものに問題があるとわたしは思っているが、実は巷ではまったく無関心だ。しかし、実は「今年水は足りるだろうか」などというレベルではない問題を孕んでいるのである。

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こういう道を「未成道」と言うらしい

2025-02-17 19:45:56 | 農村環境

 

 寺平の道祖神祭りを訪れる際に違和感のあるモノを目にした。仕事がらと言っても良いが、これは一般の人が見ても不思議に思うモノである。もちろん興味が湧いたので少しネット上で調べてみたのだが、なるほどと思うのは、もちろん同業者だからだ。

 寺平への道をグーグルマップで検索するとこんな感じに表示される。ちなみに長野県境から検索してみた。これでは分かりづらいので、この図の寺平に近い箇所を拡大したものが下図である。左側が韮崎市、右上のマークが寺平である。そもそも誘導される道路がずいぶん紆余曲折していることが解るが、それでもマップがこのルートへ誘導してくれるということは、この道が最も早いということになるが、この道がいわゆる国県道ではないことは、この道なりでお分かりだろう。

 このルートに韮崎市で入ってみてすぐに分かることは、この道は「農道」であるということ。何しろカーブも多いが上下が激しい。経験上幅は広いが明らかに「農道」である。「農道」についても本日記では何度となく触れてきているが、この道はセンターラインがあるからいわゆる大型農道というやつ。例えば長野県内では軽井沢から上田市に連絡するのに、国道18号より浅間サンライン(浅間山麓広域農道)を走る人は多い。安曇野の大動脈も「安曇広域農道」と言われている。それら広域農道に比べるとカーブも上下も激しいが、この道にとても似ている道が我が家の近所にもある。「伊那南部広域農道」の竜東部分というやつ。寺平への広域農道はよくこの道に似ている。だが、驚いたのは寺平直近に至ってからである。

 図の途中から誘導ラインが南へ迂回している。これはここでいう「茅ヶ岳東部広域農道」から県道敷島竜王線に誘導されて南下し、荒川を渡ってから甲府市内を昇仙峡グリーンラインと言われる県道を再び北上して寺平へ誘導される。ようは広域農道に未開通区間があるためなのだが、迂回誘導されるところにある長大橋は完成している。それもここ最近にできたものではなく、もう何年も前にできているのに未開通なのだ。ということで検索していたら、もちろんその疑問を解いてくれる動画が開示されている。圧巻はこの動画だろう。ドローンで空撮された物らしく、圧巻である。まずご覧いただきたい。

【未成道】茅ヶ岳東部広域農道【亀沢大橋】

 

 なぜこの道が未開通なのかは、もうひとつの動画にそれらしいことは述べられているが、検索していてわかることは、この超大橋は、もう10年以上前に完成している。平成21年に民主党政権になった際に、この道を造るための予算が大幅減額された。というと「最もだ」という人がいるかもしれないが、道を造るための予算だけではなく、農業基盤を整備するための全ての予算が減額された。維持管理に関わる費用もだ。とくにこの道を造る予算は皆無に近いほど削除されたためなのだろう、とっくにできていたはずの道は、今もって未開通なのである。あとわずかという感じもするため、数年後には通れるのかもしれないが、この「すごい橋」が供用されていないのは驚きである。そしてもっとびっくりなのは、目的地寺平の集落のすぐ手前がこの「茅ヶ岳東部広域農道」の終点(この右手県道のすぐ先は村入口に当る)なのである。昇仙峡へのルート上にもあるから、観光目的という意図も大きかっただろう。

 ちなみに現在昇仙峡へ向かう県道の甲府市―甲斐市―甲府市と至る間の「―」部分、ようは荒川を渡る橋がいずれも整備されていて、下部工が工事中である。寺平の数年後は、ずいぶん環境が変わっていることだろう。

 

【無駄】ほぼ完成状態で放置された『未成道路』を紹介するぜ【ゆっくり解説】未成道 茅ヶ岳東部広域農道

 

追記 それにしても長野県はガソリンが高い。同じ内陸なのに山梨県で給油したらリッター170円。今日塩尻市内で入れたら181円。もちろんいつも給油している上伊那はもっと高い。20円近く山梨と違う。その理由を教えて欲しい…。

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甲斐市寺平道祖神祭り 後編

2025-02-16 22:14:16 | 民俗学

甲斐市寺平道祖神祭り 前編より

 寺平は現在40戸ほどという。昔は倍近くあったというが、高齢化によって住まなくなった家があったりして減ってきた。子どもが生まれたり、あるいは祝い事があったりすると、依頼があってこの日「練り込み」ということをするのだというが、今年はない。練り込みをするとその家でお客になってくるようで、昔はそういう家が何軒もあって遅くなったという。練り込みは厄を払うという意図もあるという。

 

区長の音頭で道祖神へお参りする

 

習字を燃やす

 

繭玉を供える

 

道祖神の前に立て掛けられたご神体(竹筒)

 

道祖神に供えられた繭玉

 

 午後7時になると、区長の挨拶で祭りが始まる。道祖神に参拝しお神酒をいただく。隣では火が焚かれ、習字を盛んに燃やす子どもたちや、縁起物のヤナギなどを火の中に入れる。最初はいつもより人出が少ないという声も聞こえていたが、徐々に人は集まり、女性や子どもたちの手には繭玉があり、火の近くでそれらを焼く人も増える。繭玉は道祖神にお参りするといったん道祖神に供えられ、最後にはまた持ち帰られる。

 さて、道祖神の祭日であるが、山梨県では小正月にこうした道祖神の祭りを行うところが多い。獅子舞もそうだ。こんななか、こと八日ごろに行う寺平を知ったわけであるが、本来は2月13日、14日に行われたという。休日に祭日を合せるようになって、2月13日ころの土日が当てられるようになったようだ。ようは月遅れの小正月ということなのである。ぼんぼりに付けられた灯籠の四方には「正一位道祖大神」「無病息災」「五穀豊穣」「交通安全」が書かれている。祭りの主旨ということになるだろう。ぼんぼりの頂に付けられたヤナギは、数にして12本ほどだろうか。祭りの終わりにヤナギは欲しい人が競うのだという。縁起物になるわけだが、家へ持ち帰ると玄関先やそれぞれの家でここはと思うところに飾るようだ。

 翌日は「村まわり」を午前9時から行うという。村まわりにはもちろん獅子が回って行くわけだが、昔は門舞いといって入口で舞をしたというものの、今は各戸で獅子舞は行わない。今は頭を持って行って「ぱくぱく」とやるだけだという。そしてお賽銭をいただき、「正一位道祖大神」のお札を配る。村まわりの際に長潭橋と東の荒川端へ行って獅子を舞うというが、その時の雰囲気でやらないこともあるという。

 寺平の獅子舞は甲府市の塚原から教わったものといわれているが、塚原から嫁に来られた方がいて、そのご主人が90年ほど前に途絶えていた獅子舞に塚原のものを取り入れて始めたよう。それ以前にも獅子舞があったというが、現在のものは塚原から伝わったもののよう。ただそれも全部ではなく一部だと言い、寺平スタイルにして舞われているようだ。現在舞われる獅子舞は3段階に分かれている。まず最初は二人が幌の中に入り、ひとりは獅子頭、もう一人は幌の端を平行にして高く持ち上げている。頭は手を前にしてやはり幌を平行にしてゆっくりと左右に舞う。二つ目の舞では、頭の独り立ちとなり、幌をコンパクトにぐるぐると巻いて身体に縛る。そして最初は御幣と鈴を右手に持って舞い始め、途中で鈴は左手に持ち変える。三つめはいわゆる蚤取りである。再び後方が幌の中に入り、幌後部を高く持ち上げて舞う。頭は小刻みに激しく動き、身体の蚤を取るような所作をする。

 道祖神の前で舞うと村入口へ向かい、コンクリート吹き付けされたところに梯子が常備されていて、そこを登って洞になっているところに竹のご神体を納める。道祖神が分祀されているというが、昼間確認することはできなかった。街灯のないところで、真っ暗な中、ここで獅子舞が奉納される。終わると再び道祖神のところに戻って獅子舞を舞って、この日の祭りを終える。

 

道祖神前での獅子舞

 

村入口の高いところにご神体が納められる

 

村入口での獅子舞

 

宵祭り最後の舞(最初と違って観衆はいない)

 

寺平の獅子舞については、過去(7,8年前のもの)の動画が配信されているので、参考に添付した。

寺平 獅子舞

 

寺平獅子舞

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甲斐市寺平道祖神祭り 前編

2025-02-15 23:07:59 | 民俗学

 何十年ぶりに山梨県内の道祖神祭りを訪れた。なぜこの日道祖神祭りを訪れることになったのか、最初の発端がどうも記憶にない。たまたまネット検索していた際にこと八日ごろに行われる道祖神祭りがヒットし、それが「寺平地区道祖神祭り」だった。見れば記事を掲載しているのは甲斐市役所の秘書課広聴広報係で、「この記事に関するお問い合わせ先」があったので問い合せしてみた。さすがにこうした記事を見て問い合わせてくる人は実際にはそれほどないのだろう、担当の方も戸惑われていた。しかし、今年の実施日について聞くと地元に問い合わせをしていただき返事をいただいた。1月の末だった。すると2月1日に地元で打合せがあってそこで決まるということで、あらためて確認し連絡いただけるということになった。翌週連絡をいただき、今日がその祭日だと教えていただいた(親切に対応していただいた秘書課広聴広報係の方には感謝します)。今日地元でうかがって知ったことだが、毎年2月1日を「初寄合」といって道祖神祭りの準備をする最初の日なのだという。そこで祭日を正式に決定し、その日から道祖神祭りの当日まで準備をするのだという。獅子舞の練習やボンボリのヤナギを作ったり、お札を刷ったりするようだ。

村入口に張られた注連縄

 

寺平道祖神

 

集落東の荒川沿いに張られた注連

 

区長、ご神体、ボンボリと続く

ボンボリ(トウローという人もあった)

 

 祭りは午後7時から始まるということで、昼間の様子をうかがいたいと、暗くなる前に地区内の様子をうかがった。甲府市内から荒川を渡ると中島という集落があって、甲斐市に入る。甲斐市といってもいまひとつわかりづらいのだが、旧敷島町である。昇仙峡へ向かう道沿いにある地域で、よそから見れば甲府市のように思うのだが、ここは甲斐市である。その中島から少し上ると荒川沿いの尾根を過ぎて寺平に入る。その入口に注連縄が張られていてここが境界域なのだと察知する。ネットで検索してみると翌日の村まわりでは東西の入口で獅子舞をするとあったので、東にもこうした注連が張られていると思い、集落内の細い道を進むと、荒川沿いの巨石のところにも張られていた。これがその村境なのだと思っていたら、あとで聞くと、県道をさらに昇仙峡の方に進んだ長潭橋にもこの注連は張られているという。獅子舞の終わったあとに行ってみると、確かに橋の手前に注連が張られていた。以上3か所が村境と認識されている場所のよう。

 ここの道祖神は山梨県らしい丸石道祖神である。古い立派な台石の上に置かれているが周囲にもたくさん丸石が祀られている。主神は中央のものなのだろうが、周囲の丸石も道祖神として認識して良いかと聞いてみると、はっきりはしない。もともとここの道祖神はもう少し東側の辻にあったものという。ここに移されてまだそれほど経っていないというが、元の場所にあった時は丸石が盛り上げられるように置かれていたという。そして台石にある盃状穴に丸石が置かれていたともいう。昔の姿がわからないので何とも言えないが、盃状穴についてもこれまで道祖神に関連して触れてきているのでその成り立ちが気になるところ。

 さて午後7時前に宿である公民館からやってくる。先頭は区長さんである。区長さんについてどなたかが「この2日間は神様」と口にされていた。区長さんに次いで太い竹の筒を持った方がやってくるが、この筒は道祖神に奉納される。名前はないかと聞いたが長老でも知らなかった。ご神体という意図であるよう。この日はこの竹の筒は2本道祖神の前に供えられたが、昔は3本あったという。もう1本は子どもたちが「お祝い申せ」といって竹に綱を繋いでみんなで地面に仰いで叩いて割ったという。「割れるほど良い」とされてやったらしいが、今は子どもたちがいないためやらなくなったよう。なお、2本供えられた竹のうち1本は、ムラの入口の注連を張ったところに持って行って納めるという。次いでボンボリがやってくる。ボンボリは県道端のガードパイプの支柱に括られて立てられる。寺平の祭りを見てみたいと思ったきっかけは、このボンボリだった。それはヤナギとその下の灯籠の形が、辰野町鞍掛のデーモンジなどに似ていたからである。実物を確認してみたいということでこの日足を運んだわけである。

続く

 余談であるが、寺平まで我が家から120キロちょっと。遠いと言えば遠いが長野市へ行くことを思えばずっと近い。本日記の初期に長野より近い県庁に触れたが、実は県庁なら長野より近いところに他県の県庁がひとつどころかいくつもある。長野県庁が北に寄っているという事実がこういうことになる。寺平から帰るのに一般道を利用した。コンビニに寄った時間を除くと時間にして2時間半。驚いたのは国道20号である。韮崎市から茅野市まで、距離にするとかなりあると思うのだが、この間ほぼ単独走行だった。最初は前に2台ほど走っていたが、信号待ちでそれらの車から離れると後ろから接近されてくる車が見えてきてもそのうちに信号で離れたりしてわたしの前後には車がいない。そこそこスピードは出していたのでそのうちに前の車にたどり着いたが、それらの車も登坂車線で1回(1台)、信号で左折して1回(1台)、3回目はわたしが国道152号へ分岐してさよならをしたためお別れという具合で、前後に車がいた時間はほんの10分くらいだっただろうか。それほど国道20号に車が走っていない。ちなみに対向車には数えきれないほど出会ったが。それも午後9時代である。こんなに国道20号から車が減ったとは驚きであった。

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続 学習をしない人たち

2025-02-14 23:06:38 | ひとから学ぶ

 「学習しない人たち」を記したばかりだが、続編である。前回「信号が赤で、あるいは赤になりそうなのに、横道から出ようとしている車の前に出て、道を防ぐ行為」に対して学習能力がないと言った。それほど「ほかの車を入れたくない」という意志の表れであるが、この場合は確かに運転手にとっては1台でも前に入れば、その分到着が遅れるかもしれない(1、2秒あるいはその1台のせいで信号が赤くなって最大1分くらい、もっと言えばそのせいで運が重なって数分遅くなる可能性はある)。したがってその気持ちがわからないでもないが、まさに自分だけが、という個人主義の表れだ。

 ここで示す例は時間にはおそらくほぼ無関係な例だ。こちらが店舗の駐車場に入ろうと右折しようとしている時、対向車線に車が繋がっている。対向車線の前方にある信号機が青なら仕方ないが、車列が繋がっていて速度が落ちている、さらには前方の信号機が黄色くなって赤になろうとしているのに右折車を入れさせてあげない。結局「これ以上前進できない」というところまで車が詰まってから、きるで仕方ないように前方の車が間を空けて停車した。よってわたしは右折できたが、何台車が目の前を通過していったことか。それらすべて信号待ちで停車している姿を横目に、わたしはようやく店舗の駐車場に入ることができた。冒頭の例と意識は同じなのかもしれない(自分の前で車を通したくない)が、こういう人たちを見ていると、この人たちの辞書には「人のために」などという言葉はないとつくづく思う。もしそのような言葉を口にするとしたらパフォーマンスだろうと悟る。

 さて、昔はパソコンで文字を打つのは誰よりも「早い」と思っていた。ところがタイプミスはもちろんだが、わたしの場合日本語で文字をタイプしていくから濁点に問題が多発するようになった。これって年齢というよりわたしの頭の中で右半身と左半身への伝達速度に違いが表れてきたせいだと最近思うようになった。ようは濁点の位置は右側にある。例えば「あじがさわ」と文字を打つ際、「あじさわ」、あるいは「あ゛しがさわ」としてしまうことがある。濁点のキーは右側にあるから当然右手で打つ。左で先で打たなければならない文字をタイプする前に濁点を先に打ってしまうのである。とくに濁点が重なっている文字が怪しい。これって何かの前兆…?。

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