Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

信州新町左右礼の道祖神

2022-04-12 23:49:33 | 民俗学

長野市信州新町左右礼の道祖神

 

 東細尾からも見えなくもないが、そこから下った坂所あたりから南を望むと、太田川を挟んで対岸の集落が見える。集落といっても、坂道に点々と家が点在していて細尾ほど家屋は多くない。この集落は「左右礼」という。「左右礼」と書いて「そうれい」と読むらしい。この地名、調べたわけではないが、もしかしたら「そうれ」→「ぞうれ」ではないかと考えた。「ぞうれ」は小谷村あたりに多い地名で、以前日記でも触れた「葛草連」の「草連」と共通性を抱く。この地名は地辷り地帯に多い。西山地域も地辷りが多い地域で、災害も多い。

 この対岸の左右礼は、すぐそこに見えているものの、簡単には行けない。細尾から尾根伝いに東に下り、西部公民館までたどり着くと、太田川沿いに遡り、左右礼へと上っていくのである。左右礼に注目したのは、やはり『信州新町の石造文化財』の一覧に「周辺に陽石二一ケ」とあったからだ。とはいえ、その場所がどこにあるかは詳細にはわからない。同書に添付されている地図は、その場所の明示はとても曖昧で、特定できる地図ではない。「集落のどこかにある」レベルなのである。ただ、ここの道祖神については所在地情報として「宮之平前」とあったため、その明示が頼りとなった。数軒程度の小さな集落であるが、小さなお宮が存在する。いったん左右礼の上部まで上がった後に、来た道を戻りつつ、先ほど訪れていた細尾の集落を確認した。それが冒頭の写真である。もちろん対岸に見えるのが細尾、そした左下あたりに見える対岸ではない家々が左右礼のお宮当たりの家々である。そのお宮の前あたりにあるのだろうと、お宮の平らに行ってみたが、石仏らしきものは周囲にない。改めてお宮から上の方を眺めると道の反対側に石塔が見えたので、そのあたりまで上ってみると、予想通り墓石である。周囲を見渡すと、ほかにも墓石らしきものが見えたので一応それらも確認した。すると既に墓終いをして移したという記念碑が見えた。もしかしたら道祖神も移転されたのかも、と思わせたのは、すでにこの集落で暮らしている人はいないと察知したからである。管理はされているものの、住んでいるという雰囲気はない。あきらめようと思っていると、すぐ近くに墓石ではない碑が目に入った。行ってみるとまさに双体道祖神。探していて、こういう道祖神に出会うと、少し感動的でもある。盃を持った男神、そこへ注ごうとしている女神、象られた屋根上には鬼瓦を模したものなのか明らかに「鬼」が刻まれている。背面に「明治七甲戌年五月十丑日」の銘がある。前掲書には「世話人八名氏名」とあるが、それらしいものは読み取れなかった。

 この双体道祖神も見事だが、実は周囲に五輪塔の残欠らしきものがたくさん転がっている。前掲書の「二一ケ」ほどあるのかわからないが、掘り出せばそのくらいあるのかもしれないが、そこまて確認はしなかった。10個以上はありそうだ。五輪塔の残欠ばかりというわけではなく、中には繭玉型に近いものも存在する。そもそも五輪塔の残欠という捉え方をしているが、それ以外の部位が周囲で見られるわけでもなく、これは残欠ではなく、もともと繭玉型のもの同様に、それに近い石が選別されたとも考えられる。このあたりももう少し調べてみないとわからない点である。


コメント    この記事についてブログを書く
« 信州新町東細尾の道祖神 | トップ | 繭玉型道祖神はノジュールで... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

民俗学」カテゴリの最新記事