抗 議 声 明
日本維新の会共同代表橋下徹大阪市長の「慰安婦」制度・売買春肯定に
強く抗議するとともに、発言撤回と謝罪、公職辞任を求める
2013年5月13日、日本維新の会共同代表である橋下徹大阪市長は、記者会見で「銃弾の雨嵐のごとく飛び交う中で、命かけてそこを走っていくときに、そりゃ精神的に高ぶっている集団、どこかで休息をさせてあげようと思ったら、慰安婦制度が必要だということは誰だってわかる」「沖縄の海兵隊・普天間に行ったとき、司令官に『もっと風俗業を活用してほしい』と言った」などと発言しました。
この発言は日本軍により「性奴隷」とされ、戦後67年経た今でも傷の癒えない元「慰安婦」の女性たちの苦しみ、沖縄県民の苦しみを増幅させ、尊厳を傷つける行為であり、著しく人権を侵害するもので断じて許されるものではありません。
日本軍が「慰安婦」制度をつくり、日本軍の駐留するアジア各地に慰安所を設置して女性たちを監禁、強姦し続つづけたことは歴史の事実として世界の人々が知っていますし、アジア各地で多くの女性たちやその関わりのある人々の証言や証拠の文書があります。
「慰安婦」とされた女性たちの多くは10代の少女でした。幼くして家族から引き離され、強制され、騙されて連行された先で待っていたのは暴力と性奴隷としての日々でした。異国の地で凄惨な地獄を味わった彼女たちは心身を破壊され、その後の人生もまた過酷なものでした。
二人の元「慰安婦」の女性が、歴史の真実を語るために来日しましたが、それは兵士の性処理の道具として扱われ、戦後は忘れ去られようとした自らの尊厳を取り戻すため、そして、自ら語ることで歴史の事実を記録し、次の世代に同じことを決して繰り返させまいとする決意からです。彼女たちは「自分の娘を慰安婦として送ることが出来るのか?」と橋下市長に問うています。
国内外の募金による日本軍「慰安婦」の祈念碑の建つ宮古島でも、調査と住民の証言によって、日本軍が宮古島にやってきた同時期に慰安所(現在判明しているだけでも17箇所)が作られ、多くの「慰安婦」たちが連れてこられたこと、多くの日本兵が慰安所に並んでいたことなどがわかっています。慰安所は日本軍が管理し、そこには住民は近づけませんでした。女性たちは故郷から遠く離れた島に連れて来られ、逃げることも許されず、日本兵を「慰安」するための性の道具にされていたのです。このように女性を監禁・強姦することは当時の国際法でも禁止されていたことで、重大な戦争犯罪です。
「猛者集団(兵士)を休息させるために、性的エネルギーを解消させるために慰安所が必要だった」と言いますが、日本軍は宮古島や石垣島で食糧難による栄養失調とマラリヤにより、多くの兵士が命を失っています。兵士も結局、戦争による犠牲者となり、その兵士を戦わせるために女性を犠牲にしていたのが日本軍慰安所です。
橋下市長は女性を戦争遂行の道具としか思わず、当時でも許されない戦争犯罪を肯定し、沖縄では米軍の任務を維持するためにと売買春を勧めました。その後、沖縄県民と元「慰安婦」に対してではなく、アメリカに対して謝罪するという差別的な言動を繰り返していることは、自治体住民の幸福の為に働くリーダーの資格は全く無く、更に正義と真理を求める弁護士としての資格も認めることは出来ません。発言の撤回も謝罪もしないでその後も繰り返される発言の正当化は過去の記憶に苦しみ続ける被害者に二次被害を与え、すべての性暴力被害者を侮辱し、苦しめています。耐え切れず、来日した二人の元「慰安婦」は、表面的なポーズを取り繕おうとする橋下市長に政治利用されることを嫌悪し、面会を拒絶しました。言い逃れの「チャンス」を失した橋下市長は、さらに27日、言い逃れの総仕上げを日本外国特派員協会でやろうとしましたが、世界の400名もの記者にその詭弁と欺瞞を見抜かれ、国際的な非難は続いています。
橋下市長は直ちに、発言を撤回して「慰安婦」被害者と沖縄県民、このことで傷ついた多くの人々に対して謝罪し、即刻の市長職の辞任と、そして公職に就かないことを求めます。
2013年5月30日
日本軍「慰安婦」問題を考える宮古の会 宮古島「慰安婦」祈念碑を守る会(東京)みやこあんなの会 みやこ九条の会 新日本婦人の会宮古 コープ沖縄宮古平和グループ 沖縄県退職教職員会宮古支部 下地島空港の軍事利用に反対する宮古郡民の会 ピースアクション実行委員会 人権と教育を考える会 沖縄県教職員組合宮古支部 沖縄県高等学校障害児学校教職員組合宮古支部 沖縄県関係職員連合労働組合宮古支部 自治労宮古島市職員労働組合 宮古島ユニオン 市議会議員有志(上里樹 亀浜玲子 下地博盛 新城元吉 長崎富夫)