昨日は、尾張一宮教会でのヘブライ語学習会に行ってきた。
雅歌の3章6節から11節を原典と70人訳で読んだわけだが、雅歌というのはどうもエルサレム神殿の祭儀ではないかと思えてきた。
「荒れ野から上って来るおとめは誰か。煙の柱が近づいて来るかのよう。それは隊商のもたらすさまざまな香料、ミルラや乳香をたく煙(3:6前半)」というのだが、おとめというのは原文では指示名詞の女性形に過ぎないし、その意味では煙(女性形名詞)のことを指しているともいえる。そうなると、荒れ野から上ってくる煙とは、出エジプトの火の柱雲の柱が連想できるわけで、それは神殿でのカーボード(栄光)である。
「それは隊商のもたらすさまざまな香料、ミルラや乳香をたく煙(3:6後半)というのは、神殿で薫いている煙ではないのか?
「見よ、ソロモンの輿を。輿をになう六十人の勇士、イスラエルの精鋭。すべて、剣に秀でた戦士。夜襲に備えて、腰に剣(3:7~8)」の60人の勇士とは神殿の祭司ではないのか?
「ソロモン王は天蓋を造らせた。レバノン杉を柱とし、銀の台座に金の玉座、エルサレムのおとめたちが愛をこめて、紫の布を張りめぐらした。 いでよ、シオンのおとめたちよ、ソロモン王を仰ぎ見よ。その冠を見よ、王の婚礼の日に、喜びの日に、母君がいただかせた冠を(3:9~11)」とかは、列王記やイザヤ書の神殿に関する記述と重なるしなあ。
そんなことをY牧師としゃべくっていて楽しかった。勉強会といっても今のところY牧師と2人だけである。
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