ある牧師から

ハンドルネームは「司祭」です。

コラム第51回掲載

2021年11月05日 | コラム「パウロとフィレモンとオネシモ」

コラム第51回を掲載していただきました。

ここで、「キリスト」でなく「イエス」とされているのは、地上のイエスであることを示しているとされています。地上のイエスとは、十字架にかけられたイエスを指しているのでしょう。つまり、十字架に真理があるということです。(本文より)



今回はエフェソ書4章17~24節を読みます。

17 そこで、わたしは主によって強く勧めます。もはや、異邦人と同じように歩んではなりません。彼らは愚かな考えに従って歩み、18 知性は暗くなり、彼らの中にある無知とその心のかたくなさのために、神の命から遠く離れています。19 そして、無感覚になって放縦な生活をし、あらゆるふしだらな行いにふけってとどまるところを知りません。20 しかし、あなたがたは、キリストをこのように学んだのではありません。21 キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にあるとおりに学んだはずです。22 だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、23 心の底から新たにされて、24 神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。

神の命

17節の「異邦人」は、神を信じていない人々を意味しています(石田学著『エフェソ書を読む』139ページ参照)。17~19節を読みますと、神を信じていない人々を愚弄しているようにも感じてしまいます。しかし、18節がコロサイ書1章21節の「あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました」に依拠しているとされている(田川建三訳『新約聖書 訳と註(4)―パウロ書簡その二 / 擬似パウロ書簡』586ページ参照)ことを鑑みますと、神を信じていない他の人々というよりも、神を信じるようになった人々の以前の状態のことを示しているように思えます。

ですから、ここからはむしろ、神を信じるようになった人々の現在を読み取ればよいのであって、18節の「神の命から遠く離れています」は、彼らの以前の状態であり、神を信じた彼らは今、「神の命と共にいるのです」と受け止めてもよいのではないかと思います。「神の命」とは、新約聖書に出てくる「永遠の命」という言葉が持つ一つの側面と同じ意味です。

以下はリンクでお読み下さい。
https://www.christiantoday.co.jp/articles/30163/20211104/paul-philemon-onesimus-51.htm

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