万吉の神奈川ジュニアユース情報

2010年、BANFF横浜ベイJYに入団する息子の活動を通してジュニアユースサッカーを紹介していきす。

本日は薮入りでした

2012-01-16 22:25:22 | 日記
1月16日は7月16日とおなじ、薮入りです。

ネットで調べると

江戸時代、商家に住み込みの奉公人(丁稚奉公ともいいます)たちは、毎年1月16日と7月16日の2日だけ休みをもらえるのが一般的でした。
その休みを藪入りといいました。
関西では六入りといいました。

現在のように毎月の定休日がなかった時代に、正月と盆の2回の薮入りは、奉公人たちにとって首を長くして楽しみに待っている日でした。

薮入りの日は、奉公人は主人からお仕着せの着物や小遣いをもらい、親元に帰ったり、芝居見物をして過ごすなど、年2回だけの休みを楽しみました。
薮入りは、奉公人を家に帰すということで、宿入りがなまったということですが、定かではありません。

薮入りの日となると、主人は奉公人たちにお仕着せの着物や履物を与え、小遣いを与え、さらに手土産を持たせて実家へと送り出した。実家では両親が待っており、親子水入らずで休日を楽しんだ。また、遠方から出てきたものや成人したものには実家へ帰ることができないものも多く、彼らは芝居見物や買い物などをして休日を楽しんだ。

明治維新が起き、太陰暦から太陽暦への改暦が行われると、薮入りは正月と盆の付随行事であったため、正月の新暦移行に伴いそのまま新暦へと移行した。文明開化後も商家の労働スタイルにはそれほどの変化はなく、さらに産業化の進展に伴い労働者の数が増大したため、薮入りはさらに大きな行事となった。薮入りの日は浅草などの繁華街は奉公人たちでにぎわい、なかでも活動写真(映画)などはこれによって大きく発展した。

第二次世界大戦後、労働基準法の強化などにより労働スタイルが変化し、日曜日を休日とするようになると薮入りはすたれ、正月休み・盆休みに統合されるようになった。薮入りの伝統は正月や盆の帰省として名残を残している。

・お嫁さんも実家に帰ったのかな?

・五木の子守唄にも歌われている。よく知られた子守唄ですが、歌詞は悲しい内容です

「歌の訳」

私たち(の子守奉公)はお盆まで、お盆まで
お盆が過ぎたら居ませんよ(実家に帰るんですよ)
お盆が早く来れば、早く(家に)帰れる

私たちは 貧乏で みすぼらしい
あの人たち(ご主人たち)は お金持ち
あの人たちはみんな 美しい帯や着物を持っている
(お盆に家に帰ったとき、自分も着れたらいいけど・・・)

(遠く離れた所に子守奉公にきた)
私が死んだからといって
誰が悲しんでくれましょうか 
裏の松山で、蝉が鳴くだけです

蝉ではありません
私の妹です
泣かないでちょうだい、(どうしたのかと)心配になりますよ

私が死んでも(墓参りなどしてくれないだろう)
(それならば、人通りのある)道端に埋葬して下さい
通る人たちに 花でもあげてもらえるでしょう

(あげてもらえる)花は何の花でもいいのですが
(道端に沢山ある)椿の花がいいですよ
水が無くても 天から雨が降ってきますから



昔を悲しむわけではないのですが、季節季節の言葉の意味にしばし驚かされます。
奉公とは、食べれればよくて、給金などない環境です。
その中で生きる意味を探していたんでしょう。

ちょっと幸せになった日本人。ほんの100年前は薮入りを楽しみにしていた国なのです。

もっと、日本を勉強しなければ。