昨日、子供達はそれぞれの用で。
夫殿も用で。
用無しの自分だけ ぽかーーんと
空いた休日となった。
こういう時は、見てなかったDVDをと・・・
選んだのが「アマデウス」
多分大昔の映画。
天才音楽家、モーツァルトの生涯を
同じ音楽家サリエリの視線から
描くという内容だった。
まあ、映画だから史実とは
違うところも多々あり。
いまだにモーツァルトの死因は
毒殺だとか病死だとか
様々な不思議がいっぱい。
ただ言える事は、モーツァルトは
天才だったかもしれないが
生き方だけは、天才から程遠いほど
下手な人だったのでは・・・という感じする。
音楽でも絵画でも芸術と呼ばれる
0から1を生み出す人達は
「普通」ではいけない。
悪く言っちゃえば「変わりもん」
良く言えば異常な純粋さ。
人は嫉む動物であり同時にそれを
うまく隠す動物でもあるという
凡庸な自分達は日々、そういう小さい駆け引きを
普通にこなして日常を送る。
しかし、そんな単純な、でも機微な
気持ちの駆け引きが
天才肌の人達にはないのでは・・と
アマデウスを見て勝手に思ってしまった。
こう言ったら、相手はこう思うのかもとか
こういう態度になると周囲の人達は
こう思うのではという駆け引きをしない。
というより出来ないのだ。
そしてそんな事を考え出した途端
天才は凡人になるのかもしれない。
ただ不幸なのは、人は食べていかなくてはいけない。
人は生きていかなくてはいけない。
それには人並みの生活が必要なのだ。
35歳という若さで亡くなる直前は
借金取りに追われていたというモーツァルト。
テレビもラジオもなくCDもなくネット配信もなく
市場が才能を買うという常識が
きっと今よりもうんと薄かった時代。
今だったら、どんなに固定観念の固まりのような
既得権丸出しの古い物が僻んで排除しようとしても
「良いものは良い」と素直に言ってしまう
私たち、凡庸な聴衆集団によって
才能は買われるのかもしれない。
それにしても自分がいなくなって
約220年もたって 自分が全く
知らない人達が ああだのこうだの
自分の生涯について語るとは・・・・
きっといくら天才でも思っても
みなかったのではないだろうか。。
夫殿も用で。
用無しの自分だけ ぽかーーんと
空いた休日となった。
こういう時は、見てなかったDVDをと・・・
選んだのが「アマデウス」
多分大昔の映画。
天才音楽家、モーツァルトの生涯を
同じ音楽家サリエリの視線から
描くという内容だった。
まあ、映画だから史実とは
違うところも多々あり。
いまだにモーツァルトの死因は
毒殺だとか病死だとか
様々な不思議がいっぱい。
ただ言える事は、モーツァルトは
天才だったかもしれないが
生き方だけは、天才から程遠いほど
下手な人だったのでは・・・という感じする。
音楽でも絵画でも芸術と呼ばれる
0から1を生み出す人達は
「普通」ではいけない。
悪く言っちゃえば「変わりもん」
良く言えば異常な純粋さ。
人は嫉む動物であり同時にそれを
うまく隠す動物でもあるという
凡庸な自分達は日々、そういう小さい駆け引きを
普通にこなして日常を送る。
しかし、そんな単純な、でも機微な
気持ちの駆け引きが
天才肌の人達にはないのでは・・と
アマデウスを見て勝手に思ってしまった。
こう言ったら、相手はこう思うのかもとか
こういう態度になると周囲の人達は
こう思うのではという駆け引きをしない。
というより出来ないのだ。
そしてそんな事を考え出した途端
天才は凡人になるのかもしれない。
ただ不幸なのは、人は食べていかなくてはいけない。
人は生きていかなくてはいけない。
それには人並みの生活が必要なのだ。
35歳という若さで亡くなる直前は
借金取りに追われていたというモーツァルト。
テレビもラジオもなくCDもなくネット配信もなく
市場が才能を買うという常識が
きっと今よりもうんと薄かった時代。
今だったら、どんなに固定観念の固まりのような
既得権丸出しの古い物が僻んで排除しようとしても
「良いものは良い」と素直に言ってしまう
私たち、凡庸な聴衆集団によって
才能は買われるのかもしれない。
それにしても自分がいなくなって
約220年もたって 自分が全く
知らない人達が ああだのこうだの
自分の生涯について語るとは・・・・
きっといくら天才でも思っても
みなかったのではないだろうか。。
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