設計事務所の裏窓

夫は建築士。設計事務所をやってます。
裏から眺めた感想、日々の独り言。
不定期便で頑張ります~!

運も実力(?)

2005年06月30日 09時50分00秒 | 独り言
福岡発小松行き全日空機、計器異常で引き返す (朝日新聞) - goo ニュース
なんだか 最近 飛行機のトラブルばかり・・・
乗る機会なんて無い生活だから 心配しなくていいけど
どうも今に大きな事故が来そうで怖い。

今まで子供が産まれてから飛行機で家族揃って移動した事がない。
そもそも 飛行機利用しての機会もないし 資金も苦しく
というのが現状だけど 万が一 そんな幸運な機会に
恵まれても我が家族は 夫婦の勝手な考えでどうするやらだ・・

自分はともかく 夫は大層 飛行機が苦手である。
あんな鉄の物体が浮く事自体 信じられないとか・・・
理系畑で進んできたくせに 妙に原始的な考えだと思っていたが
確かに自分も数少ない飛行機体験は あまり気持ちのいいものは
しなかった。
まず地に足がついていないという感触が苦手なので船も好きじゃない。

車の事故の方がよほど確率は高いのだろうが 万が一不運にも
空の上で事故に遭遇したら・・・なんて想像すると怖くなる。

世の中には 仕事柄 パスポートが分厚くなるまで通勤電車の如く
飛行機を利用している人達もたくさんいる。
そんな人達から見れば なんとくだらぬ心配をと思うかもしれない。

ちょっとした国内の帰省にもバンバン飛行機を利用する友人が
九州までの出張に夫が例の意地を見せて 5時間も時間かけて
新幹線で行ったという話を 大きな呆れ顔で聞いていたっけ・・・

そんなに飛行機嫌いなくせに 行きたい 行きたいと恋い焦がれる
場所は飛行機移動手段のところばかり・・・・
いつか万が一 念願叶ったら きっと焦がれる気持ちが例の意地を
倒してくれるだろうが・・・

どこに行っても運はある。不運を拾うか。幸運を拾うか。
なんだか最近は運さえも実力のような気がする。
こうやって飛行機にビクついているのが 不運な事なのか。
それとも万が一の不運から自分を守る為の幸運なのか。
前向きの人には幸運がやってくるという。
せめて 勝手な前向きで 事故に遭わないように守っている
為と考えたい。

それにしても 飛行機乗って どこか一気に遠くへ行きたい。
心は行動とは裏腹に あちこち飛んでいるのだけど
うまくいかないものである・・・

非日常

2005年06月29日 11時32分20秒 | 独り言
先日 長男の臨海学校の説明会が学校であった。
長男の学校は 4、5、6年とお泊まり行事がある。
その中で5年の臨海学校は正に字の如く 海に入る事を
目的としたお泊まり。
説明会では毎度の事ながら持ち物 日程についての説明。
去年も思ったが 自分たちの時代もこんな説明会なんて
開いていたのかな~と思う。

去年、初のお泊まり体験であった我が家は 子供より
自分の方が あれやこれやと最後まで気になっていた。

子供本人が準備をしていくのは当たり前だが それでも
これは持ったか?あれはどうする?と最後まで結局
大きく膨らんだ荷物をチラチラ見る事となる。

どの知り合い達も言ってたけど こんな親の心配をヨソに
子供はひたすたいつもと違う環境に浸れるという
それだけを楽しみにしている。
下着をいくらきちんと詰め込もうが 予備の洋服を
入れとこうが などの細かい話は どっかに吹っ飛んでいる。

そして親のハラハラ度とは全く違う楽天温度の
「行ってきまーす」の子供の声で当日を迎えるのだ。
確かにたった一人なのに なんだかいつもと違う家の中。
シーンと心なし 残された次男までもが寡黙になる。
でも ここで母性薄き自分は
「何してるのかなあ~」と気にしている時間は本当に短い。
長男のいない一泊が終わると さっさとその生活に慣れてくる。

洗濯物が少ないねえ~こんなくだらぬ喜びまで出てしまうのだから。
そんな平和も当たり前だが たったの二日で破られる。
一緒に準備した時の美しく詰められた荷物は 見るも無残な
ゴチャゴチャの洗濯物と化した大荷物共々 長男が帰ってくる。

帰ってくれば もう玄関先で押し合いへし合いの兄弟げんか。
ああ、非日常は短いものだ・・・・

そんな体験がまた来月来ようとしている。
いつか ずーっとそんな体験が来るかもしれないが。
そう長男だけでなく次男もいないという日常が・・・
まあ、それまでは非日常を少しハラハラしながら待つのも
悪くないかも・・・

観察

2005年06月28日 15時01分05秒 | 独り言
先週 用があり 自分では滅多に行かない(?)昼の
デパートへ行く。
いやあ~このご時世を反映してか 上の階はガラガラ。
でも デパ地下の威力のおかげか みるみる地下食品街は
人があふれていく。しかも皆 おばさん!ばかり・・・・
自分も同化してるのは重々承知だけど このおばさん行動だけは
今は違うぞ!と声を大にして叫びたい事を発見。

これって電車の切符売り場でも感じるのだけど なぜに
おばさん達って まず並んでしまうのかしら・・・という事。
急いでいる時に限って こういうタイプのおばさんの後ろに
なってしまう。そのタイプって切符売り場の最前列で
うーんうーんと上を見上げて料金を確かめている方・・・・
もう後ろに若いお兄さんなんか並んじゃうと 足踏み状態。
やっと買ってくれた!と思いきや 今度は最前列で自分の
用は済んだのにもかかわらず そこでカバンの整理なんか
してしまう・・・・

結構 多い。よく見かける。
デパ地下でも たくさんいた。混雑している売り場で
小銭しまう為に その場所で頑張っている おばさん・・・
後ろでやってくれ~なんて思うけど 小心者はジーッと
ひたすら観察・・・
きっと自分でも 知らず知らず こんな事やってるのかなあ。
ちょっと怖くなる。

オバタリアンなんて言葉。自分が大昔の高校生時代流行ったっけと
思い出す。
「いやあねえ~~ああいうの」
と他人事で友と言い合ってたけど・・・・そんな年なんだよなと
悲しくなる。

でもこういう話題って なぜに毎度女性なのか。
確かに偏屈なおじさんも多いけど 切符売り場でもたついている
迷惑かけている人は あまり聞かない。
大体 男の人って すぐに財布さっと出すし・・・なんて
またくだらぬ観察を駅でしてしまった。

女の方が基本的に「私が一番!」要素が強いのか。
それとも年を取れば取るだけ 子供に戻って周りが見えなくなるのか。

どっちにしても この先 自分も同じ仲間になる可能性大。
ああ、気をつけよう・・・・

たまに外出しても こんな所ばかり目に飛び込む。
これも年取った証拠かもしれない。
でも反省材料にもなる。やっぱり外の世界に出るって
大切かも・・・
こう言い訳しながら ちょこっと外出を楽しむ。
おばさんになるって こういう言い訳も上手になるみたいだ・・

消えていく伝説

2005年06月24日 15時49分00秒 | 独り言
2年前から父に不満? 15歳長男「寮移り仕事増」 (共同通信) - goo ニュース
どんな理由があっても 母は息子には殺されない。
昔は そんな伝説があったそうな・・・・
父に刃は向けられても 母には出来ない。
息子にとって 父は同じ男としてのライバル的な気持ちが
あるからではないだろうか などと言われたらしいが・・・

最近の事件では こんな伝説はもうない。

例え親でも 母でも父でも 子供は平気で抹殺する。
なんだか こういう事件があっても少し慣れてきている
感情が世間でも流れているようで そっちが怖くなる。

誰でも 殺人者を育てようとは思わない。
しかも自分に刃を向けてくる人間にしようとは きっと
思ってはいない。でも こんな事件ばかりである。

被害者の少年の心の中は 結局 事を起こすまで 誰にも
わからなかった。
「大人しくて 平凡な子供」
学校側は毎度 こういう話だけど いつも不思議に思う。
どうしてこういう記者会見って校長なのかなと・・・
現場にいない管理職が 生徒一人一人把握している訳など
絶対あり得ないのに 大昔から知っていたという口ぶりで
話し出す。
結局 学校も家庭も どこの大人達も見ていなかったのだ。
その少年の心の中を・・・・

「どうして こんな事を・・・・」
一応 親として自分もあさはかながら 
その事ばかりが気になってしまう。
でも きっと本人の少年も未だに自分がわかっていないだろう。
自分がない抜け殻だから 母と父に刃が向けられたのではないだろうか。

いつか彼が 抜け殻から本当の人に戻ったとき
彼を絶対 守ってくれる世界で唯一の存在は消えてしまっている。
しかもそれは 自分が消してしまった。

やっと一人の息子として戻ってきたとき 最愛の両親は
現実いなくなっている。それを感じた時から やっと彼は
身のちぎれるほどの罪の償いが 始まるのだろうか。

なんだか最近 考えさせられる事件ばかり・・・・
梅雨の季節同様 暗く鬱陶しい気分が続いている・・・


証拠

2005年06月21日 15時28分00秒 | 独り言
親の人生に「価値」16% 05年版青少年白書 (共同通信) - goo ニュース

親の背中を見ながら子は育つというが 今の子供達は
親のどういう背中を見て 育っているのだろうか。

満員電車に揺られ 人間関係と仕事に疲れきった背中なのだろうか。
それとも せき立てられるように焦りまくるセカセカとした
背中だろうか。

親の人生に対して「生きがいがある」と感じてくれたのは
たったの6人に一人という結果。
一人いただけでも良かったというべきか・・・悲しいと
いうべきか・・・・

ニートという若者が急上昇する今 親の中では
「どんな仕事でもいいからしてほしい」という気持ちと
子供側からは
「自分に合った仕事じゃなければ働かない」
という気持ちのズレがあるという。
違った見方をすれば「合った仕事」を探せる余裕があるという事だ。
何が何でも 職種云々より まず働かなくては!という
切羽詰まったものをニート族からは感じられない。
それだけ豊かという証拠なのか はたまた親自身も自分たちが
胸を張って「こんな仕事してるんだ!」そんな意気込みを
見せられない後ろめたさが多いのか・・・・

自分の希望する仕事が生活出来るだけの資金を稼げるものになる。
これは 案外簡単そうで難しい。
それだけ多くの人達が自分に 合っているのか 合ってないのか
わからないまま 何となく生活の為に働いているのではないだろうか。
確かに何か自分の好きな事 或いは特技を生かして天職として
いる幸運な人達も一杯いる。
本当は皆が皆 そんな人生ならば こんな青年白書の結果は
出なかっただろう。

我が家は 親の背中をどう感じどう思ってるのだろう。
ふと不安にもなる。

幸運な事なのか 何なのか 我が家は父の職場が近い。
自宅から数分のところに夫の設計事務所があるので
子供は 何か用がある度 ひょこひょこと行く事になる。
勿論 打ち合わせ等で誰かが来ている時は絶対行かないが
それでも知らない人が見たら けったいな設計事務所である。
打ち合わせのテーブルで小学生の子供が宿題をしていたりと・・・
まあ、これは母である自分にどうしても用があり 子供も
まだまだ小さい低学年の頃であったが・・・・

とりあえず自分の目から見れば夫は 建築を志し それに沿った
学校へと進み 今は曲がりなりにも建築の絡んだ仕事をしている。
なんとも羨ましい。でも本人は こんな筈じゃあなかった・・・
そればかりだ。そんなような現実らしい・・・
だから やっぱり天職!と胸を張って言い切れる人達は
本当に幸運で数少ないのだろう。

幸運は運もあるが やはり本人の力もある。
息子達には どんな仕事でもいい。
「楽しい!やりがいがある!」
そう言える事が 生活の糧になってくれたらと毎度思う。
そしてそんな運を掴む力を付けて欲しいとも思う。

さて 違った意味で父の職場を目の当たりに出来る幸運な(?)
息子達だが一体 どんな背中を自分たち親から見ているのだろうか。

「建築関係の仕事は絶対やらない方がいい。
 特に設計なんて仕事・・・・・」
なんていう言葉が 聞こえてきそうな気もする・・・
それには 内心 こっちも頷いてしまったりして・・・

何とも背中に自信のない親である・・・・



暇か平和か

2005年06月20日 15時13分54秒 | 独り言
貴乃花親方「わんぱく相撲」でつかの間の休息 (スポーツニッポン) - goo ニュース

なんだか今の日本はよほど暇なのか平和なのか・・・・
連日 テレビをつければ昼も夜もこの話題。
そんなテレビを見ている自分も相当 暇人かもしれないが・・・

若貴騒動なんて言葉はカッコいいけど 結局 兄弟喧嘩。
こーんな超プライベートな喧嘩を大の大人達がああでもない
こうでもないと真剣に語り合っている。平和じゃ。平和じゃ。

まあ、我が家も同じ年間隔の離れた♂兄弟の息子達が
いるものだから ちょっと他人事とは思えないけど・・・
絶対違うのは 自分達親達が亡くなっても 争う要因の
お金絡みが悲しいほどないというだけ・・・

相撲って国技だったのかと この騒動で改めて思う。
そういう意味では 皆の関心が全く薄れつつある相撲を
引き戻せたという事で この騒動もなまじ無駄では
なかったかも・・・・

それにしても 相撲界は特別の世界だとか親と子でも
師弟関係だとか 言ってる事はカッコいいけど
やってる事は 人の悪口のオンパレード。
こんな悪口を言い合っている世界に 今の子供達は
夢を持ってくれるのかしらんと 不思議に思う。

親と子が師弟???だったら なぜ自分の手元で修行するのか?
自分の元に置いた時点で 師弟なんて無理じゃないのかなと
一応親の自分は感じてしまうが・・・・
まあ、これが特殊な相撲界という世界の事なのだと言われて
しまえば 普通の常識で生きている自分には
ちーっともわからない事ばかり。
でも一般のお客って皆 相撲の世界で生きている訳じゃない。
一体 誰を相手に商売したいのか・・・甚だ不思議な世界である。

相撲にしても歌舞伎にしても日本の伝統技と堅苦しく
妙に高いお金で皆は観賞しなければならないけど
歴史をさかのぼれば 単なる娯楽だった筈。
他者をよせつけず 狭い狭い世界で動いていれば
こんな早い世の中である。取り残されるのは時間の問題。

1000万だったとかいうテレビ出演料の交渉をしている
暇があったら やはり子供達に夢を持てるような
仕事をしてほしいと思う。

昔 祖母は相撲中継が始まると夕飯の支度もそこそこに
テレビの前で熱中して観戦してたものだ。
子供心に興奮している祖母が珍しくて
相撲中継と祖母を代わる代わる見比べていた。

あんなにキラキラと目を輝かせて 今も見ている人が
いるのだろうか・・・・・
変な意味で相撲がクローズアップされた今 祖母の
あの興奮した顔がもの悲しく思い出される。

流行病

2005年06月16日 11時43分01秒 | 独り言
「精神科病院」に統一へ 「精神病院」表記を廃止 (朝日新聞) - goo ニュース

最近「精神科に通ってるの」そう聞いても 引かない。
一昔前だと「ええ~~~!頭がおかしい?」
こんな失礼な解釈が正直 どの人にも浮かんだのではないだろうか。

心の風邪と言われるくらい「うつ」の理解も深まったし
心療内科という耳慣れない言葉も もう今は広まっている。

確かにこの病になっている人を見近に見る。
自分だって 人間やってる限り いつかかるともわからない。
今は副作用もなくいい薬もあり 確かにこの病と戦っている
人達も多い。ただ この病は本当にわかりにくい。

どこかの臓器が傷んでいる 病んでいるとはっきり写真に
映る訳でもなく まあ、二次的に身体中の臓器のどこかが
おかしくなる場合もあるだろうが 人の心の中を現実問題
誰もが目で確認する事は出来ない。
「病気なんだ」
そう認識しずらい事もあるだろう。だから本当に病気なのに
ただのサボりだとか怠けと見られるのが一番辛いと どこかの
本にも書いてあったが・・・・

でもなあ~と最近思う。これだけメンタルな病気がむしろ
流行のように増えていくのは どうかなと・・・・
確かに本当にこの病気にかかっている人もいるだろう。
でも物凄く意地悪な言い方をしてしまえば
「病気になっている事に陶酔する」
そんな行為の人達が一緒にこの流行に便乗しているようで
ならない。

生きるか、死ぬか。
正に戦中、戦後の日本で 例えば動かなければ明日食べるものも
寝るところもない なんて極限に陥った時 人は
「何もしたくない」
こんな状態にはならないのでは ないだろうか。
ともかく動く。ともかく生きる為にどうにかする。
それが生に執着せざるを得ない人の性とでもいうべきでは
ないだろうか。

極端な例かもしれない。観点が全く外れた例かもしれないが
現代だからこそ多くなってきた メンタルな病。
それって裏を返せば「贅沢病か!」なんて解釈も
自分の中では出てきてしまう。超勝手な解釈でもあり
実際に病と戦っている人達には大変失礼だとはわかっているが・・・

団塊の世代が退職者となる数年後は また心療内科の
扉を叩く人達が増えるのでは・・・・という内容のテレビを
見た事もある。

扉を叩くのは 仕事のなくなった 生き甲斐の失った本人達も
勿論だが 急に夫が在宅する事になったストレスから
その妻達も多く扉を叩くのではないかと言われている。

飢えて亡くなる人達は とりあえず今この国では日常茶飯では
なくなった。とりあえず皆 なんとなく平穏無事に送っている。
でも 違った意味で生きていくのが大変な時代なのかもしれない。
だからCMで流れるほど 精神的な病が流行り始めている。

難しい事はわからないが この傾向が単なる流行病として
膨れない事だけを見ていきたい。
本当に病気になっている人の気持ちは 当人でなければ
やはりわからない事だからだ・・・・

トランポリン

2005年06月13日 14時39分00秒 | 独り言
子供という物体を自分の手で育てて 初めて
「子供って こんな厄介な行動をするの!?」という
現実にぶつかる。

それまでは ともかく当たり前だが他人事。
「何でもなめてしまうんだ~へえ~~大変だね」
「とんでもない所に上っちゃうの。へえ~~大変だね」
この「へえ~~大変だね」という一言でわかりきって
いたけれど それはあくまでも他人事だった。

だから何も考えないで買った家具や家具の置き場所に
子供が生まれて
「こんな事なら こんなのを買わなきゃよかった・・・」
という言葉が漏れる。
お洒落そう~~なんていう安易な考えで買った我が家の
ガラス製のリビングに置くテーブルも 長男がハイハイ
しはじめたころ あえなく解体してたたまれたし。
すっきりしたデザインだわ~なんて悦に浸って買った
角の尖ったテーブルも あえなく角はスポンジで覆われる
事となった。なぜって 子供が立った背に しかも一番
ふーらふらと歩き回る時の子供の目の高さに角がくるもの
だから「危険!」という警告と共に家具の形が変えられる。

そうこの「危険!}という警告は 今まで「お洒落に~」
だの「シンプルに~」と言っていた子供のいない人達には
180℃変わる生活を強いられる。
部屋中 あちこちの引き出しにベタベタと子供が開けられない
グッズを貼り付けたりと・・・・
「ああ、なーんか汚らしい・・・」なんて空間に部屋は様変わりだ。
それでもこの様変わりは ほんのほんの一時。
子供もバカじゃあないから いつまでも突拍子もない行動を
している訳でもない。

「シンプルにお洒落に」
それが結構希望だった元クライアントの奥様が 
「どうしたら!!」
こう相談してきた。超おめでたい事に家の新築と共に
第二子ご出産。しかも初のご長男。いやあ~めでたい!と
その時は喜んだものの・・・・・
成長と共に 当たり前だが一番危険な年ごろ。危険という
認識がわからぬまま 何でもやってしまう年ごろ・・・

「階段てすりによじ登り・・・・」
こんな困り事が出始める。勿論 子供が落ちない高さの手すりだのと
夫も設計段階から その配慮はしてきているが ともかく
子供って突拍子もない。
という事で 今の応急措置として網作戦。

「こんな事やるのは 初めてですよ~」
なんて網を取り付ける職人さん達に言われたそうだが
ともかく 危険!と思う事は取り除かなくてはいけない。

「鬱陶しいですよね。すっきりしないですよね」
繰り返す奥様だが この網状態がずーっと続く訳ではない。
ほんの一時 そうお子様が小学生辺りになるまでだろう。

そして網もつき ようやく安堵の毎日であるが 網の取り付けを
初めて見たこのクライアントご家族の小学生の長女のお姉ちゃま
開口一番
「うわあ~トランポリン!これなら上から落ちていいね!!」
「オイオイ・・・・」という感じ・・・
奥様・・・・やっぱりしばらく危険回避生活をお洒落&シンプル生活より
優先させなくては いけなさそうだ・・・

携帯

2005年06月11日 09時44分00秒 | 独り言
昨日電車に乗ってふと思う。
ホームで電車を待つ人。電車内で座ってる人。

「なんで決まった行為のように自分の携帯を覗いてるのか?」

面白いくらい 皆 座った途端 或いはホームに立った途端
パチンという音と共に携帯を広げる。
お年をうーんと召した方から こんな子供まで!という
幼き子供も 今や携帯保持者である。

そんな事を言ったら仕事も持ってないくせにあんたはなんだ?
そう怒られそうだが・・・・そう 自分も持っている。
でも弁護する訳じゃあないが 子供絡みの知り合いは
ほぼ持っている。しかも自分と同じ専業主婦でさえ!

「携帯が欲しいな~」
高校生みたいに自分が思ったのは やはり周囲がどんどん
携帯を持ち始め
「メールアドレス教えて」なんて言われる機会が増えていった
頃ではないだろうか・・・・・

「維持費が勿体ないから安心ダフォンにしよう。」
こんな夫のからかいも「ケチ根性」は「やっぱり!?」
「そうした方がいいかな!」と納得してしまう位だったから
悲しい・・・・・でも後々聞いたら この安心ダフォン。
受けるのは無限に受けられるが 自分からかける相手番号は
たった三件しか入らない・・・・
一つ目は勿論 自宅。二つ目は夫の携帯。すると残り一件は?
正に選ばれし友!っていう訳か!なんて真剣に考えたものだ。
まあ、そんな自分に選ばれた友はいい迷惑かもしれないが・・・

今 携帯はもっぱらメールばかりになっている。
確かに持っておいて損はない。
よく新しい物は受け付けない!なんて頑と持たない人も
いるけれど 物は考えよう。
テレビが出始めた頃でさえ そういっていた人種が
いつの間にか便利さに負ける。そして今にいたっている。
それでもいつの時代も便利さは様々な利害を生む。
テレビっ子といわれる問題も生じてきたし 今の携帯も
子供が大人の事件に巻き込まれる可能性を大きくした。

便利さを追及する頭脳を持つ代わりに 物凄いスピードで
流れる時代の早さについていけない原始的な頭脳も
兼ね備えてるものだから弊害は後を絶たない。

いずれ子供も大きくなれば 携帯を!と言い出すだろう。
さすがに安心ダフォンで乗りきれとは・・・・言えない。
そして何が何でも新しいものを締め出すのも出来ない。
要は 新しいものに躍らされず 使いこなさなければ
いけない。

そう思っている親が たった一つのメールを打つのでさえ
四苦八苦とやっているのだから 呆れ返る。
違った意味で 毎日 新しいものに躍らされる。
古くて固い頭にとって 今の何もかも早い時代は本当に大変・・・・

センセイ

2005年06月09日 15時23分02秒 | 独り言
夫がこの商売を始めて「へえ~~~~」と思う事は
いろいろある。そんな中で 最初の「へえ~~」は
これだった。

我が家と絡む施工側の人達やその他の業者さんが夫を
「○○先生」と呼ぶ事・・・・・・・
初めて電話で「○○先生いらっしゃいますか?」
こう聞かれた時も「誰じゃ??」まーったくピンと来なかった。

何でも この業界では とりあえず(ここがミソ)建築家と
言われる人達を「先生」と呼ぶらしい。

夫曰く この「先生」誠に都合のいい呼び名だそうで・・・・
確かに政治家も弁護士も「先生」別に個別に尊敬するような
教えを説いてもらった訳でもないが・・・
ともかく「先生」と呼べば丸くおさまるという感じ。
結局 夫はこの呼び方が大嫌いで初回打ち合わせで必ず
自分から「やめましょうよ」を言い出してしまうらしい。

建築家を「先生」と呼ぶ場合 二種類の意味がある。
それこそ超有名な 本当に「建築家!芸術家!」と
言われる大先生に向けての尊称の意味のこもった「先生」
方や「設計のセンセイ様の言う事は 想像出来ない事ばかりだなあ」
なんて現場の方達から こぼれる「センセイ」という響き・・・
まあ、大概はちょっぴりこの「センセイ」の意味が多いのでは
ないだろうか。

一件の家を造る場合 クライアント 建築士 施工側という
大きな三つのトライアングルで回っていく。
勿論 最終的にお金を出しそこに住むクライアントは
お客様である。それでも一度仕事が始まれば三者の中で
どこが一番優位でどこが一番力があるというアンバランス的な
感情が生まれると 超個人的だが成功した家造りは出来ない
のではないかと思う。

建築士が「先生」として ふんぞりかえっているだけでは
クライアントの家は単なる「作品」になってしまうし
かといって 施工側が監理者である建築士を無視して
進めていっては クライアントにとって本当に安くて
いい家は出来ない。

そして懸命なあまりにどこまでいっても誰も何も
信じられないという愚かな行為をしてしまうクライアントもいる。
自分が実際に目で見て耳で聞いている現場や建築士の
言葉や姿よりも 中途半端に聞きかじった その他の
情報に翻弄される人もいる。
勿論 そんな不安をかきたたせるような雰囲気を醸しだしている
造り手もいることだろう。

でも 三者の中で
「こっちの言う通りにすればいいのに」
「なぜ客の自分の言う通りにしないのだ」
こんな言葉が出始めた関係で一つの作業は完成しないものである。

三者のトライアングルの頂点は 作業の段階で変わるものである。
決定権を出す時には クライアント。
作業が始まれば 頂点には どうしても施工側と設計事務所が
交互に立って引率する事となる。

機械で黙々と箱を造るのではなく 家造りは人と人との信頼関係。
信頼関係は平等な場所に立ってやっと得られる。
だからこそ「先生」という呼び名は 案外 建築士にとっては
無用な邪魔なものかもしれない。

自然素材

2005年06月07日 14時58分26秒 | 独り言
どういう訳だかアレルギー体質の子供って多い。
はた目から見たら元気100倍みたいな子供も
やれぜんそくだの やれ鼻炎だのアトピーだのと
何かしらのアレルギーを持っている。
我が家の息子どもも同じくであるが・・・・
そういう事情を反映してなのか それとも元々 人は結局
自然体を好むのか 家の素材は子供がアレルギーなので
自然素材のものをふんだんに使いたいというクライアントの
話を聞く事が多い。

無垢の床材。珪藻土の壁。
確かに本物の無垢のフローリングでゴロゴロして どこからか
心地良い風なんかが吹いてきたら それはそれは最高の
ゴロゴロ昼寝となりそうである。
理想を胸一杯 そして頭一杯に膨らませる打ち合わせの席で
そんな理想を見事に現実に引き戻してくれるのが
どこのご家庭でも「予算」というやつだ。
自然素材・・・・これはやはり割高になる。
以前聞いた話では 子供の為!と意気込んでいたクライアント夫婦が
自然素材は高い!という事実を知るや 
「子供部屋はあまり人目に触れないから合板で。
 リビングのみ無垢の素材にしてください。」
なんていう超矛盾した話を切り出したのだから大笑いというのが
あったそうな・・・・・

確かに真剣に自然の物をなるべく使う!という意気込みの方達も
いらっしゃる。どこに重点を置くかで予算配分も大分変わる。
真剣に自然素材!と望む方達は 床がピカピカ光っていないとか
掃除が大変だから やっぱりビニール材でいいとか 
そういう安易な理由で変更したりはしない筈である。

家に妥協は禁物。でも限られた予算もある。
見た目がゴージャに見えそうだからとか 人が入らない
場所だから手抜きをしようという考えでは 本当の
暮らしは出来るのだろうか?
アクセサリー的に造られた箱は バカバカしいお金のかけられた
箱でしかない。

歯の浮くようなお世辞でおだてられ家を造りたいという人達も
勿論いる。家なんて自己満足の塊と言い切る人もいる。
まあ、人それぞれ。最終的にはお金を払い そこに住む
住まい手の自由なのだから。

でも やっぱり何かこだわりを持って挑む時には考えた方が
得をする。自然葬材を!というこだわりを胸に家族の巣を
暮らしの巣を造ろう!と挑むのなら とことん考えて欲しい。
「何の為の自然素材?何の為の家?」という事を。
そして どうしても煮詰った時に 一緒に考えプロとして
適切なアドバイスや提案が出来るのは建築士である。

家を造るって その時だけの一時期の作業ではない。
その後の暮らしの方が永遠と長いのだ。
だからこそ 何の為に造るのか 何の為のこだわりなのか
立ち止まって考えて欲しいと思う。

家造りって やっぱりドラマである。

江ノ島

2005年06月06日 14時27分34秒 | 独り言
GWに鎌倉へ行き ついでに江ノ島へと足を伸ばしたのだが
その時は あまりの人の多さに辟易してさっさと退散してしまった。
何しろ 江ノ島入り口からの細い道が人で埋まり放題という感じで・・
という事で 絶対 いい季節の頃で人があまり出てこない日に
再度行って見たいと思い 昨日偶然にも天気が良かったので
朝食も食べずに早め早め行動にて午前10時前に江ノ島着。
さすがに空いているものの 観光地の強みか 季節柄か
午後には徐々に人が多くなり始めた。

江ノ島・・・・15年ぶりかもしれない。
相変わらずの潮臭さと 自然が残る小さな島。
それでいて観光地ならではの料金のお土産屋がびっしり並び
そのくせ なんの変化もない昔からの住人が暮らす民家も
あったりする。その変なバランスが なんともまたいい。

15年前と変わらない捨て猫の多さと 階段の多さ。
そして上りきった階段の合間合間に並ぶお店のたたずまい。
「生しらす」だの「海鮮丼」だのと潮の匂いと共に
観光客には美味し過ぎる看板が立ち並ぶ。
「変わってない!」階段ヒーヒー言いながらも
一人叫んでしまうほどだ。

変わった事といえば なんと島内のトイレが奇麗になっている事。
これは超嬉しい。15年前の記憶ではトイレの網戸に
海に近いせいか 大きな船虫さんがびっしり這っていた
ゾゾゾォ~~~~というトイレ記憶しかないのだから。

島内は殆ど急勾配の階段ばかりだから それを避ける為に
「エスカー」なんて呼ばれるエスカレーターがあるのも
変わってない。

15年前と風景も匂いも そんなに変わってなかった江ノ島。
心は はや大昔に戻るけど 現実の声が毎度我に返る。
その声というのは
「エスカーで上るの?」
「駄目駄目 歩くよ。お金かかって勿体ないでしょ。
              (ここは少々小声)」
なんていう子供と自分の会話であったり・・・・

「お母さん ビリだね。」
「日頃 運動してないからね。」
なんていう階段をヒーヒー悲鳴あげながら上る自分に向けられた
家族の冷たき会話であったりと・・・・

江ノ島の変貌ぶりよりも自分の変貌ぶりに情けなく感じる一日・・
でも やっぱり江ノ島は なんかいい。
自分の変貌ぶりが変わらぬうちに また行きたいものである。

手記を読んで

2005年06月02日 10時34分28秒 | 独り言
昨日は長崎、佐世保小六事件から調度一年たった日。
あの事件は衝撃的だった。たった小学六年 わずか12歳の
女の子が同じクラスの同じ年の女子を殺害。
しかも殺害場所は学校内。

息子のとっている小学生新聞には 被害者のお父さんの手記が
全文掲載されていた。子供に読ませても 言葉の言い回しが
難しいのかもしれないが 年の近い長男には やはり読んで
ほしい気持ちが動いた。どこまで理解したのかわからないが
やはり子供ながらに「なぜ?」そんな感想しか持てないようである。

事件が起きた直後は 「いじめが原因」だとか「心の闇」だとか
様々な憶測と報道が飛び交ったが 被害者のお父さんの
手記にもあるように まだまだ問題は
「底の見えない暗い井戸の中を覗き込むような空恐ろしさ」という
状態である。

数日前から殺そうと確実に計画し 綿密に計画された殺し方。
でも一方 その後 自分が相手がどうなるか。
その綿密さは全くない。衝撃的でありながら変な冷静さを
兼ねる行為。こんな相矛盾した恐ろしい行為をわずか12年しか
生きていない少女が起こしてしまう。別の言い方をすれば
そういう行為をするほどまで彼女の中で何かが完全に
「壊れていた」という事である。

人として「壊れていった」その原因は何だったのか。
そしてそれを周りの大人達は単に「知らなかった」という
一言ですませていいものなのか。でも正直 外見上
何かを装う知恵のついた中途半端な子供に対して
今の自分が息子の全てを理解出来ているのかと問われれば
甚だ自信がない・・・・・

確かに 問題を明確にしても失ってしまった命は戻らない。
偏った言い方かもしれないが「生きている者勝ち」という
印象も受ける。罪を犯した少女は いつかは社会に復帰
していくだろう。そして今この時点でも確かに生きている。
息を吸い心臓動かし 何かを食べ だが 亡くなってしまった
少女は現実 この世界にはいないのだ。
来年も再来年も この先 被害者のお父さんの中には
問題がどう解決していこうとも「なぜ?」という
叫びはおさまらない。その気持ちを同じ親として考えるとき
やはり自分の気持ちも潰れそうになる。

人の気持ちの揺れも色もわかりにくい。
それは自分の子供であっても わかりにくい。
だからこそ わかったつもりは怖い。
親である以上 気持ちを揺らし 様々な色をつけて相手に
ぶつかっていくしかないのだろうか。

親である事がそら恐ろしく ますます自信がなくなる一日・・・・