プラムフィールズ27番地。

本・映画・美術・仙台89ers・フィギュアスケートについての四方山話。

< コクリコ坂から >

2023年11月13日 | テレビで見た映画。
残念ながら面白くなかった。

まあわたしはジブリは「千と千尋の神隠し」で嫌になり始め、「ハウルの動く城」で
見限り、「ジブリ作品は見ない!」と決め、以降の作品は見ていない。
その意地が多少溶け、何年か前に「風立ちぬ」を録画で見、
「アーヤと魔女」のテレビ版を見たが、基本は批判的に見る立場なんだよなー。

宮崎吾郎作品だから……という偏見もあるのかもしれないけど、
この作品は話がダメダメじゃないだろうか。

開始から相当時間が経っても背景がわからない。まあうっすらとわかりはするが、
高校生が下宿屋を切り盛りする、おばあさんは左団扇なのに何も手を出さない、
という状況は不自然で、これがずーっともやもやする。

高校生が家を切り盛りするのにはよっぽどの事情があるんだろう。
おばあちゃんと呼んではいるけど、実のおばあちゃんじゃないのか?
お母さんが出てこないということは当然死んでるんだよね?
単なる下宿ということすらしばらく経ってからしかわからないから
あそこは置屋で、あの人たちは芸者か何か?とかいろいろ考えるわけです。

そういう余計なことを考えさせるのは下(げ)の脚本だと思う。
まずさー、説明しなきゃいけないことは先に説明しとかないと。
そうしないと落ち着いて見られないでしょー。


カルチェラタンはいいよ。魅力的な場所だと思うよ。
でも描きすぎだよね。そんなにカルチェラタンを描きたいなら、
話を「カルチェラタンを守る話」だけで完結させるべきだった。
そうした方がすっきりとした、高校生という身の丈にも合った、さわやかな話になったのに。

主人公たちの恋愛もその範囲内で納めておけば全然まとまったと思うんだよ。
それなのに、背後関係を無理に作るからメタメタになって面白くなくなる。
背後関係を描くなら、むしろカルチェラタンの部分はない方が良かった。
その尺で登場人物や関係性をもっと深く書き込むべきだった。
全然描けてませんやん。

とにかくおばあちゃんが左団扇で、長女一人が家を切り盛りするのが納得出来ない。
おばあちゃんは遅く起きて来て、お茶まで淹れてもらう立場で優雅。
これは普通の家族ではあり得ない。
それに対して、妹、弟が全然遊んでいるのも変。妹なんて1歳違いくらいでしょ?
時代が昭和30年代で、たとえ弟は家事に免責があったとしたって妹の放任は変。

下宿人たちもいろいろ出てきたわりには「単にいるだけ」なんだよなあ。
名前も定着しないくらいの薄さ。わたしなんか下宿人が何人いたのかすら覚えてないもんね。
美大生?らしき人が描いた絵は話のちょっとしたキーポイントだけど、
それだけのことで、キャラクターの方は全然確立出来てない。
この人だけがお勝手を手伝うのも違和感があったし。
親戚なのか?とか思うわけじゃん。でもそういうわけでもない。

ヒーローがヒロインを好きになるのも「後で説明するから」的に放っておかれたまま
話が進んでいくけど、この「後で説明するから」を使う創作者はたいていヘボです。
その場で表現する能力がない人が使う手法。
そして後で説明したところで、何しろ時期を逸しているもんだから全然納得できない。

朝いつも旗を揚げていた、その姿を見て、と相当後で明かされるが、
下手に最初に詩なんぞを載せてるから「ああ、なるほど!」とはならないし、
ごちゃごちゃするだけでかえってマイナス。

そして、話が展開し始めるのがほぼ全体の半分経ってからっていうのはどうなの。
お父さんの写真を見てからようやくでしょう。
作品の日常風景は、見ていて決して不快なものではないけれど、それを漫然と見せる前に
やらなきゃいけないこと(ストーリーを展開させる)があるなら、
それをまずやらなきゃだめでしょう。

「お・と・こ・ど・も」が本当に理解不能だった。
わたしはあの下宿人がどんな立場かも知らないし、そもそもなんで下宿を出ていくのかも
よくわからなかったが、どういった関係性で外部から5人も6人も男性を呼ぶのか
さっぱり納得できなかったよ。
家主の厚意で盛大な送別会を開いてもらえるとしても、それにほとんど関係のない人を
大勢呼ぶ権利はないと思わないか。

学区が同じなくらい近くで暮らしているのに、行き来がないのは不自然だ。
人生でまったく関りがないくらい遠くに養子にやったなら別だが、近所じゃないか。
気にかかるのが人情。たとえお父さんが亡くなっても、お母さんも。
近所の噂にもなるだろうし。

本当のお父さんの名前を間違えて把握しているって、
養子先の人もヒロインのお父さんもやべえ人だなって思わない?
いくら状況が混乱していたからって、誰が父かというのは子供のために最重要な
情報だと思わない?

カルチェラタンがチープな展開の末に存続になったのはまあアニメだから良しとする。
だが映画会社の社長にしても、学校を一つ持つほどの金持ちに見えなかったのはマイナス。
そういう「妥当性」というものがグダグダになっていたのがこの作品ですな。


とにかく描き手が描きたかったのは昭和30年代の世相と、美しい風景と、
カルチェラタンの建築的面白さと秘密基地感、ノスタルジー。
描きたいのはわかる。描くのは別にいいと思う。
でも描きたいものを描くためには、それに見合った話にする責任があるよ。
これは描きたいものに偏りすぎて、話がおざなりになった(あるいは描こうとして
能力が足りなかった)作品。


最後にちょこっとだけ良い方の話。
冒頭のコクリコ坂の風景は美しかった。すごく懐かしい気がした。既視感。
横浜?神戸?長崎?どこかで見た風景に見えた。

わたしは「アーヤと魔女」も見て、宮崎吾郎の色のテイストは少し好みから外れるんだけど、
まあ好みの問題だから。色彩の世界感は確立しているようだね。
イバラードの人の色彩に影響を受けている気がする。紫みの強い。

ノスタルジーはこれでもかというほど味わわせてくれた。
この部分だけを求めるなら98点くらいだな。細部を描く能力は高い。


が、描きたいものだけを描いていては作品は成立しない。
つくづくそう思いながら見ていた。
宮崎吾郎が今後も作品を作っていくのなら、強力な脚本家を見つけるのが近道では。
まあわたしは後半の宮崎駿の話も嫌いだから、お父さんにもそういいたいけど。


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