父母の遺品を整理している。
ちょっと前まで、
父のそれは会社関係が主で、母は茶道関係だったけど。。。
今は父母それぞれの遺した日記帳。。。
(個人のものだもの、プライバシーは見ちゃダメ!!!)
(でも、大事な事があるかもしれないから、ちょっとだけ調べて・・)
そんな感じで整理しながら、
時々ハッと手が止まる。。。
..:。:.::.*゜:.。:..:*゜..:。:.::.*゜:.。:..:*゜
母は平成2年の夏に、父は平成12年の夏に、逝ってしまった。
一人残された父と同居する為に、今の家を建てたのは平成8年。
父の居間や寝室を一番に考えて今の家を建てた・・・・
っていうのは調子よくて(^^;)
とりあえず
陽の当たりそうな場所を父の居間や寝室に当て、
(故に私たちは北側エリア♪)
2階に特別しつらえた部屋は天井までのクローゼットで、
(今は夫のアトリエですが)
壁一面に思い出の品々が詰まっている・・・・。(溜息)
で、父母の遺品。。。
両親ともそれぞれ日記を書いていて
母のそれは手帳に細かい字故に・・・
細かすぎて、字が読めな~い!!!!!
※どこかのCMみたいだ^^
これはこれで、まぁいっか~(^^;)
(人の心の内を、親子と言えど見ちゃいけないよね?)
そんな気持ちが働く。
で、父の日記はキチンとした日記帳で、
その時々の旅の栞や会社の経費明細なども留められて
(これは会社の記録でもあるから、簡単にスル―だわ)
と思っていたら、
子どもの頃の忘れられない記録があった。。。
..:。:.::.*゜:.。:..:*゜..:。:.::.*゜:.。:
昭和30年の春、父は戦地に赴いた時より酷い事故にあった。
下北沢・井の頭線のホームで転落。。。
当時父は仕事、仕事の毎日で、
毎晩のように取引先の方との飲み会?・・・
で、渋谷からの帰り、
酔っぱらって、線路に吐こうとして?そのまま頭から線路に落ちたらしい。。。
この時の事はかすかに覚えている。
私が小学校入学の春だった。
夜遅く、けたたましく玄関を叩く音がして、近くの交番の巡査さんが。。。
その後、母が青ざめて、
兄に何か言い残してあわてて家を出て行った。
覚えているのは
大好きだった兄が私の面倒を見てくれたこと。。。
朝は前夜のご飯を蒸し器で温めて食べさせてくれ・・・。
結局、その蒸し器は(水が入っていなかったので)まっ黒焦げになり・・・。
後で母は「よくやってくれたわね、ありがとうね」と兄の頭を撫でて・・・
(鍋を焦がしたくせに!)何で叱られないの?と
私は不思議だったけど(^^;)
..:。:.::.*゜:.。:..:*゜..:。:.::.*゜:.。:..:*゜
翌日からは母の姉妹が駆けつけてくれ、
誰が誰やらよく覚えていなくて・・・(--;)
でも、
みんな優しかったから、我儘放題だったこと。。。
後から母に聞いた事といえば、
「お父さんは土間みたいな所に寝かされていてね・・・」
「もうダメです、言われたけど。。。」
その母も、優しかった兄も、そして父も、もう居ない。
..:。:.::.*゜:.。:..:*゜..:。:.::.*゜
父の日記にはこう記してある。
2、3人の医者が取り囲んだところで、
妻は「息があるなら、やれるだけの事をして下さい!」と涙ながらに訴えたらしい。
『出来るだけ冷やすこと』
という意味が分からないけど、
当時の医療では、まずは「冷やす」ことだったんだろうか???
臨時の看護婦さんと母と、
昼夜の交代で、
1週間後、父は意識を取り戻した。
その後、院長から
「貴方は本当は98.8%の確率で絶望だったんですよ」
とも言われたらしい。
そして、喋る言葉が聞きづらくなったことを除けば、
ほぼ全快!!!
奇跡的な復活だったらしい。。。
で、今まで以上に仕事に打ち込むようになり。。。
日記にはこうも記してある。
「所詮我々の一生は悠久の歴史の一頁でしかあり得ない」
「故に、その一日を努めて有効に過ごしたい」
何故か涙が止まらなくなって、遺品整理も進まない。(^^;)
にほんブログ村
ちょっと前まで、
父のそれは会社関係が主で、母は茶道関係だったけど。。。
今は父母それぞれの遺した日記帳。。。
(個人のものだもの、プライバシーは見ちゃダメ!!!)
(でも、大事な事があるかもしれないから、ちょっとだけ調べて・・)
そんな感じで整理しながら、
時々ハッと手が止まる。。。
..:。:.::.*゜:.。:..:*゜..:。:.::.*゜:.。:..:*゜
母は平成2年の夏に、父は平成12年の夏に、逝ってしまった。
一人残された父と同居する為に、今の家を建てたのは平成8年。
父の居間や寝室を一番に考えて今の家を建てた・・・・
っていうのは調子よくて(^^;)
とりあえず
陽の当たりそうな場所を父の居間や寝室に当て、
(故に私たちは北側エリア♪)
2階に特別しつらえた部屋は天井までのクローゼットで、
(今は夫のアトリエですが)
壁一面に思い出の品々が詰まっている・・・・。(溜息)
で、父母の遺品。。。
両親ともそれぞれ日記を書いていて
母のそれは手帳に細かい字故に・・・
細かすぎて、字が読めな~い!!!!!
※どこかのCMみたいだ^^
これはこれで、まぁいっか~(^^;)
(人の心の内を、親子と言えど見ちゃいけないよね?)
そんな気持ちが働く。
で、父の日記はキチンとした日記帳で、
その時々の旅の栞や会社の経費明細なども留められて
(これは会社の記録でもあるから、簡単にスル―だわ)
と思っていたら、
子どもの頃の忘れられない記録があった。。。
..:。:.::.*゜:.。:..:*゜..:。:.::.*゜:.。:
昭和30年の春、父は戦地に赴いた時より酷い事故にあった。
下北沢・井の頭線のホームで転落。。。
当時父は仕事、仕事の毎日で、
毎晩のように取引先の方との飲み会?・・・
で、渋谷からの帰り、
酔っぱらって、線路に吐こうとして?そのまま頭から線路に落ちたらしい。。。
この時の事はかすかに覚えている。
私が小学校入学の春だった。
夜遅く、けたたましく玄関を叩く音がして、近くの交番の巡査さんが。。。
その後、母が青ざめて、
兄に何か言い残してあわてて家を出て行った。
覚えているのは
大好きだった兄が私の面倒を見てくれたこと。。。
朝は前夜のご飯を蒸し器で温めて食べさせてくれ・・・。
結局、その蒸し器は(水が入っていなかったので)まっ黒焦げになり・・・。
後で母は「よくやってくれたわね、ありがとうね」と兄の頭を撫でて・・・
(鍋を焦がしたくせに!)何で叱られないの?と
私は不思議だったけど(^^;)
..:。:.::.*゜:.。:..:*゜..:。:.::.*゜:.。:..:*゜
翌日からは母の姉妹が駆けつけてくれ、
誰が誰やらよく覚えていなくて・・・(--;)
でも、
みんな優しかったから、我儘放題だったこと。。。
後から母に聞いた事といえば、
「お父さんは土間みたいな所に寝かされていてね・・・」
「もうダメです、言われたけど。。。」
その母も、優しかった兄も、そして父も、もう居ない。
..:。:.::.*゜:.。:..:*゜..:。:.::.*゜
父の日記にはこう記してある。
2、3人の医者が取り囲んだところで、
妻は「息があるなら、やれるだけの事をして下さい!」と涙ながらに訴えたらしい。
『出来るだけ冷やすこと』
という意味が分からないけど、
当時の医療では、まずは「冷やす」ことだったんだろうか???
臨時の看護婦さんと母と、
昼夜の交代で、
1週間後、父は意識を取り戻した。
その後、院長から
「貴方は本当は98.8%の確率で絶望だったんですよ」
とも言われたらしい。
そして、喋る言葉が聞きづらくなったことを除けば、
ほぼ全快!!!
奇跡的な復活だったらしい。。。
で、今まで以上に仕事に打ち込むようになり。。。
日記にはこうも記してある。
「所詮我々の一生は悠久の歴史の一頁でしかあり得ない」
「故に、その一日を努めて有効に過ごしたい」
何故か涙が止まらなくなって、遺品整理も進まない。(^^;)
にほんブログ村
遺品の整理・・・進まないですよね
懐かしさもあり・・・で
皆いろんな人生を歩いてきている事が分かります
幼い頃がよみがえったりして 懐かしいですね
両親が、日記帳を付けておられたなんて・・凄いですね
ゆっくりと、整理してあげてください
懐かしみながら・・・
でも、子どもたちに囲まれて、お幸せな人生でした☆
そうそう、皆それぞれ、
自分なりの人生を歩まれて来たんですね。
その人生を後に繋ぐ私たちがいるのではないかと。。。
父は没落した家で、我が家系を継ぐ期待の星だったみたいですが(笑)
父の日記には自分を守ってくれた(らしい)先祖の記も残っています。。。
先祖の『意志』
重いです。