うさとmother-pearl

目指せ道楽三昧高等遊民的日常

主なしとて

2006年03月09日 | ことばを巡る色色
友達と知多に行ってきました。梅園を見て、露天風呂に入って、お昼を食べて、魚市場でトロ鯖の干物を買って。夕餉に焼いて食べました。ふくふく、あぶらのりのり。
友達が画像を送ってくれたんで、ちょっとアップ。

ふと、梅は文系で、桜は理系だと思った。
そうさ、私は梅派。
1.桜のように割り切っていない。
2.低木である。高く澄ましていない。
3.早い春の香りがする。
4.ぼんやりとして、豊かである。

そうして、梅は女で桜は男。
こどもの頃は、花見なんて退屈で仕方なかったけれど、大人になって「桜っていいもんだ」って思うようになった。でも、やっぱ、梅のほうが好きだ。
私は武士道なんて嫌いだ。同期の男の友情に酔ってるやつなんてアブナイと思う。国を危うくするのはそういう輩だと思う。ぱっと咲いてぱっと散るなんて、甘ったれた考えだと思う。生きることはもっと、ぐだぐだで、へとへとで、あがいて、おぼれて、育てて、生きていくことだと思う。
「潔く散っていくこと」が「品格」だろうか。潔く散ったその後に、腹をすかした子や、昼夜を問わず働かなければならない年寄り、女がいることは考えないのだろうか。国や企業が強くなり、民は平和ボケと呼ばれるようになった。その振り子を再び揺らさねねばと思う人たちがいて、本屋には、「武士道」本が積まれている。強さ、潔さを「武士道」と呼んでイメージすることは簡単だ。しかし、簡単明瞭なことはいつも危なさを内包している。人は面倒なことがいやだから、その一つの単語で言い下されることに身を委ねたくなってしまう。しかしそれは、そこからはもう、考えなくなるということだ。だから美しい言葉は危険である。すべての物事はそれぞれの事情を持っている。それを象徴的な言葉で断じてしまうことは危ないことだと、心に強く刻まなければならない。断じる「強さ」「潔さ」は、いつもいつも誘惑する。だから、いつもいつも、自らに問い続けなければならない。


でもさ、花吹雪だけは桜の勝ちだけどさ
コメント (25)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする